第13話 プール掃除で始まる恋なんて聞いてない

 水の匂い。塩素と青空が混じった、夏の底みたいな空気が肺に染みる。

 プールサイドのコンクリートは、まだ朝の涼しさを残しつつも、陽が射した場所はじわじわ熱を帯びている。素足で触れれば、ひやりとした感触と、じきに焼けるような刺激。耳の奥で、誰かがデッキブラシを引きずる音が遠ざかった。


 「天野、こっち手伝って」

 伊吹先輩の声。水着の上からジャージ、その裾を膝までまくり上げて、太ももが朝日を跳ね返す。汗が光の粒になって滑り落ち、アスファルトの上で一瞬にして消えた。

 「はい」

 声が小さくなった。先輩の視線は、俺の返事よりもバケツの水量を気にしている。雑にブラシを受け取ると、木製の柄が手のひらにざらりと刺さった。


 「真雪、もっと端っこ攻めて。莉音は排水口!」

 「……了解」

 「はーい、部長ー」

 真雪は無表情で、莉音は髪を結び直しながら返事をした。莉音の後れ毛が、濡れた頬に貼りついている。同じクラスの女子たちが「え、莉音ちゃん彼氏できたってマジ?」とかヒソヒソやっているのが、風の合間に聞こえる。


 「陽翔、ぼーっとしてないで」

 「……してないっす」

 俺、たぶん三秒くらいフリーズしてた。伊吹先輩のバケツにホースで水を足す。蛇口をひねると、金属の冷たさが指先を一瞬締めつけた。


 「こっちは終わったっす」

 「早っ、じゃあ次、壁ね」

 先輩のジャージが濡れて、色が濃くなっていく。太もも、ふくらはぎ、足首。視線がつい下に落ちる。水滴が肌を伝うたび、妙に喉が渇いた。


 ――この距離感、慣れない。


 真雪は無言でブラシを動かしている。たまに目が合う。でも何も言わない。白い首筋に、汗が一筋、静かに流れ落ちる。

 莉音はしゃがみこんで、排水口のフタを外している。髪を耳にかける仕草。ふわりとシャンプーの香りが風に乗って、思わず深呼吸した。


 「天野くん」

 不意に背後から呼ばれる。振り向くと、雫が両手に雑巾を持って、眉を寄せていた。中学生組は、プールサイドの更衣室担当。

 「……手、貸して」

 「今?」

 頷きもせず、ただ雑巾を差し出す。雫の指先、日焼けしていなくて、やたらと白い。俺がそれを受け取ると、雫はほんの少しだけ口元を緩めた。


 「兄ちゃん、こっちも後で、ね」

 小さく言って、すぐ背を向ける。濡れた髪の先が制服の肩を叩いて揺れる。


 ◇◇◇


 昼前。掃除は佳境。陽射しが強くなり、プールの水面は銀色にきらめいている。

 伊吹先輩がホースで水を撒きながら、「ほら、かかったら罰ゲームな?」と笑う。水滴が空中で飛び散り、莉音と真雪が同時に身を引いた。莉音は「やめてよ、服濡れる~」と抗議しつつ、先輩の背中にタオルを投げる。真雪は表情を変えずに、静かに一歩だけ距離を取る。


 「天野、動かないとずぶ濡れだぞ」

 伊吹先輩がホースの先を俺に向けた。心臓が跳ねる。けど、なぜか動けない。

 水しぶきが頬に当たる。冷たさに、思わず目を細めた。太陽の光が滲んで、視界が白くなる。


 「うわ、やられた」

 莉音が小悪魔みたいに笑う。「陽翔くん、敗北宣言?」

 「いや、まだだ」

 咄嗟にホースを奪おうとすると、先輩の手が俺の手の甲に触れた。汗と水と、体温。ほんの一瞬、指先が絡まる。先輩は、何も言わず目だけで笑った。


 「はい、アウト。天野、着替えな」

 「……マジか」

 ジャージの裾から水がぽたぽた垂れる。体から湯気が立ちそうだ。莉音がそっとタオルを肩にかけてくれる。髪を耳元で揺らしつつ、「男子更衣室、貸し切りだよ?」と囁いた。鼓動が一拍遅れて波打つ。


 ◇◇◇


 更衣室の鏡に映る自分。髪がぺたんと寝て、制服も濡れて重い。ワイシャツの襟元を引っ張ると、冷たい布が首筋をなぞった。


 「……着替え、持ってきてない」

 呟く。ドアが小さく軋む音。真雪が無表情で、手にビニール袋を持って立っていた。

 「これ。体育の予備ジャージ、昨日の」

 「助かる」

 受け取ると、真雪は視線を少しだけ逸らす。耳が、ほんのり赤い。

 「……たぶん、サイズ合わない」

 「いや、大丈夫」

 沈黙。真雪はしばらく動かず、俺の手元をじっと見ていた。やがて、小さく息を吸い、「……ありがとう」とだけ呟いて出ていった。


 着替えながら、ふと思う。プールの匂い、汗の香り、誰かの体温。全部混ざって、夏が始まる音がした。


 ◇◇◇


 掃除が終わる頃、雫が給水機の前で待っていた。髪を下ろし、制服の袖をぎゅっと握っている。

 「……兄ちゃん」

 「ん?」

 「今日、みんなでアイス食べて帰らない?」

 唐突すぎて、返事に詰まる。

 「……いいけど」

 雫は、ほんの少しだけ肩をほぐす。「……それだけ」

 カップの水を一口飲み、目を合わせずに去っていく。俺は残された水の冷たさを、喉の奥で転がした。


 空に雲が一筋、ゆっくり流れていく。プールサイドには、濡れたタオルと、デッキブラシ。さっきまでの笑い声が、まだどこかで波打っている。


 俺は、使い古したブラシをそっと壁に立てかけた。夏の始まりの匂いが、手のひらにまだ残っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る