第2話 髪を結ぶ幼なじみの手が近すぎる問題

 指先に、ほんのりとした熱が触れた。

 額にかかる髪の毛を払って振り返ると、南澤莉音が俺の真後ろに立っていた。


 「動かないでよ、陽翔。せっかく朝から結んであげてるんだから」

 「別に頼んでないんだけど」

 「でも嫌じゃないでしょ?」


 低めの声で囁かれ、耳たぶがきゅっと縮む。朝の教室、まだ始業ベルの20分前。窓際の席に座っていた俺の後頭部に、莉音の指が絡んでいる。


 彼女の手は細く、でも芯があって、髪を引かれるたびに地肌がくすぐったい。すぐ後ろから、ミントとシャンプーの香りがふわりと鼻先を撫でる。


 「お前さ……教室で髪結ぶの、やめろよ」

 「えー、朝のルーティンなのに」

 「俺のルーティンじゃない」


 莉音はくすっと笑って、ゴムを引っ張った。こめかみに近い髪の束が、きゅっと結ばれる感触。鏡もないのに、彼女の手先はやたらと正確だ。


 「ほら、完成。今日も陽翔は“おでこ出し男子”だね」

 「そのネーミング、やめろって」

 「でも似合ってるよ? うちのクラスにいないし、そういうタイプ」


 真正面から覗き込まれる。栗色の瞳に、俺の顔が小さく映っていた。


 息を吸い込むと、莉音の香水じゃない、素の髪の匂いが混ざった。光に透けた髪が、夏の朝の空気をまとって揺れている。柔らかくて、少しだけ甘い。


 ……なんで俺が、クラスで一番髪フェチの幼なじみに髪をいじられてるんだ。


 「お前、絶対楽しんでるだろ」

 「うん、バレた?」


 無邪気な笑みで、莉音は椅子に腰を下ろす。俺の隣――というより、俺の机に肘を乗せて、顎を支えた。


 「にしてもさ、陽翔って毎朝ちゃんと髪乾かしてるよね?」

 「まあ……自然乾燥は嫌い」

 「意外とマメだよね、そういうとこ」


 莉音は俺の前髪をつまんで、ぴょんと跳ねさせる。「ほら、ここだけちょっとクセついてる」


 「朝の湿気で戻っただけだろ」

 「ううん、寝癖。昨日みたいに右向いて寝たでしょ?」

 「……監視してんの?」

 「幼なじみの勘だよ」


 得意げに言いながら、莉音は自分の髪を指先でくるくると巻いた。肩までの黒髪が、光を受けて艶を帯びる。ふとした角度で、首筋にかかる髪の動きに目が吸い寄せられた。


 「ちょっと、目線下すぎ」

 「見てねえよ」

 「うそー。じゃあ今、私のどこ見てたの?」


 唐突に顔を近づけられ、視界が莉音ひとりで埋まる。呼吸の距離。頬にかかる彼女の髪が、俺の肌に触れた。


 「……近い」

 「朝はさ、こういうのがいいんだよ。脳がまだ柔らかいから、距離感バグらせやすいの」


 「お前、ほんと……」


 言葉の続きを飲み込んだ。視線の先で、莉音の睫毛がふるふる震えている。真面目な顔をしているのに、どこかで笑ってるような、そんな目だった。


 「でもさ」

 「ん?」


 「陽翔、昨日泣いてた?」

 「は?」

 「目、ちょっと赤いよ」


 指先がふっと頬に触れる。冷たくも熱くもない、ちょうどいい温度だった。俺は視線をそらし、窓の外を見る。グラウンドの端で、陸上部が朝練をしている。あの短い影の一つに、伊吹先輩の姿が見えた気がした。


 「……少し、寝不足なだけ」

 「そっか」


 莉音はそれ以上何も言わなかった。ただ、ひとつ息を吐いて、俺の机に広げていた教科書をぽんと閉じた。


 「じゃあ、放課後どっか行こ」

 「バイトのシフト見てから」

 「うん、それでもいい」


 そう言って、莉音はふわりと立ち上がる。俺の髪に手を伸ばし、最後にひとつ、指で結び目を整えた。


 「今日も一日、ちゃんと陽翔でいてね」


 その声が、妙に耳に残った。


 ◇◇◇


 昼休み、屋上の扉を開けると、風が一斉にシャツの裾をめくった。陽射しは強いが、風だけは秋の気配を含んでいる。


 ベンチの影に座って、缶コーヒーをひと口。ぬるくなった苦味が、舌の奥に残る。


 スマホの画面には、雫からのメッセージ。


【今日、図書館寄ってく。夕飯いらない】


 短い文に、彼女の声がにじんでいる。言葉の選び方、句読点の位置。雫は、言わないことで伝えるタイプだ。


 ポケットにしまって、空を見上げる。青が濃く、雲が高い。誰かが、手の届かない場所で笑ってるみたいな、そんな空だった。


 そのとき、シャツの背中を風とは違う感触が撫でた。


 「いたいた!」


 莉音だった。手にはカップ焼きそばと、割り箸がふたつ。


 莉音は笑って、俺の隣に腰を下ろす。ふたり分の焼きそばをひとつの容器に移し替えた。


 「半分こ、ね」


 割り箸を俺に差し出す。その指先に、朝と同じ香りが残っていた。


 風が、焼きそばの湯気を撫でていく。何も言わずに、それをひと口。


 味は薄かった。でも、悪くなかった。いや、たぶん――この温度こそが、ちょうどいいのかもしれない。


 莉音が笑う。その笑みが、髪の間から少しだけのぞいた。

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