女郎とねこ

黒澤 東

第1話 花街の片隅で

 カランコロン。カランコロン。

 浮足立った男たちの下駄の音があちらこちらで響いている。


 あいつらは格子の中の女郎しか見てないもんだから、足元のあたいなんて目もくれない。だけど、あたいは男たちの間をするりするりと抜けて塀に飛び乗って屋根の上から奴らを眺めることができる。金と女の街、吉原の街明かりは上気した人々の頬を照らしている。


 一人の禿かむろがあたいに手を振った。12年前吉原で生まれた娘、チセだ。彼女はあたいが気づいたのを確認して、細い路地裏へ入っていった。彼女は今日は小さな鯛の刺身を手に持っている。

「クロ、さあお食べ」

 ありがたいねえ。ここにはきたねえ鼠はわんさかいるが、臭くて喰えたもんじゃない。舌の肥えたあたいにとってはチセだけが頼りの綱なんだ。

「姉さんたちは毎日こんな美味いものが食えて羨ましいや。あたいだってお勝手であんたの食い物を盗むついでに少しつまんでるけどさ」

 喰い終わったあたいは、されるがまま彼女に頭をなでられている。

「こないだね、奥様にあんたは猫背だねえ。そんなんじゃ値がつかないよって言われたの。猫のお前はこんなに可愛らしいのに、猫背のあたいには価値がないんだって。あたいは人間だからしゃんとしないとね」

 彼女が背伸びをするとふわっと芋の香りが漂った。あたいは彼女の膝に飛び乗り懐を嗅ぎまわった。

「探さなくて大丈夫さ!もとからやるつもりだったんだよ」

 彼女は懐から巾着を取り出して、干し芋を地面に投げやった。

 あたいは膝から飛び降りて芋を貪り喰った。

「ほんと好きだねえ。そんなに食べたら屁こいちまうよ」

 だからこそ今喰いたいんだ。元の姿に戻ったら食わせちゃくれないからねえ。

 ところで、お前はこんなところで油を売っていて大丈夫なのかい?


「今日は駆け落ちした女郎を追っていてみな忙しいんだよ。だから童ひとりいなくなったところで誰も気づきやしないさ」

 久々のスキャンダルに彼女は目を輝かせている。すっかり吉原の女になっちまった。

 あたいは喰い終わって寝床に行くことにした。

 いつもだったらチセはひと撫でして目抜き通りへ立ち去るが、今日は少し迷ったのちにあたいについてきた。路地裏の奥の奥へ。あたいが塀の上にひょいと乗ると彼女はきれいなおべべの裾を豪快にたくし上げて塀に上った。あたいが屋根に上ると彼女は下駄を脱ぎ捨ててゆっくりと屋根に上った。

「あたい、上から吉原を見るのは初めてだよ。野郎たちが明りに群がるハエみたいだ」

 彼女はカラッとした笑い声をあげた。くるっと振り返り彼女は反対側を目を凝らして見ている。

「反対側は真っ暗で全然見えないなあ」

 彼女は屋根の上で寝ていたあたいを持ち上げて遠くを見せる。

「見える?」

 ああ、見えるとも。荒れ地の向こうに大きな川。川の向こうに畑。畑の向こうに山。そして、山の向こうには無数の星が瞬いている。

 たぶんチセがみたことない景色だよ。あたいもここに売られてから10年、星を見たことはなかった。


 すーっと山の方から涼しい風が吹いてきた。

 夜目のきかないチセにも見せてやりたい。


 彼女は大の字になって屋根に寝っ転がった。

「真っ暗でこわいわあ。この街の外には泥や糞尿にまみれた人がごろついてるらしいえ」

 彼女は外の世界が怖いみたいだ。彼女は生まれてこの方一度も街の外を見たことがないんだ。星も、海も、山も、民の営みも見たことがないのだろう。

 まったく知らないというのは、それはそれで幸せなのかもしれない。


「最近ね、がいろんな本を見せてくれるんだよ」

 あの暑苦しいかい。最近女郎たちが知らない人物の話をしていたのはそういうことね。

「だけどね、あたいには何が作り物語で何が本当の物語かわからねえから、姉さんたちによく馬鹿にされるんだ」

 彼女はあたいの肉球を揉んでいる。

「姉さんたちだって童のころにここに来たんだから、あたいとそう変わらないはずさ。でもね、姉さんたちには街の外にもふるさとがある。馴染みがいる。それがちょいと羨ましいんだよね」

 そろそろ寝かせてくれ。あたいは彼女のそばでうずくまり、眠りについた。

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女郎とねこ 黒澤 東 @azuma-kurosawa

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