天使のお片付け

 金曜の夜、仕事を終えて帰宅した俺は、ゆっくりと息をついた。


 なんとか――今週も生き延びた。


 レヴィアタンの奇襲もなければ、阿須望さんの視線もいつも通りに鋭いだけ。

 他の悪魔の気配も、今のところはなかった。


 ……まあ、精神的に削れる出来事は多かったけど、それでも平穏な方だったと思いたい。


「ごしゅじんさまぁ~っ☆ 今週もおつかれさまでしたぁ~っ♪」


 俺の隣で、天使がふよふよと宙を舞いながら、拍手するように翼をパタパタさせる。


「……ありがとう」


 気が抜けたのか、自然とラーメンとビールに手が伸びていた。


 テーブルにコンビニ飯を広げ、缶をプシュッと開ける。


「うまっ……」


 染みる、というより、体内で「今週の辛さ」と中和反応を起こしてる感じだ。

 ラーメンも湯気が立っていて、ちょうど食べ頃――だったのに。


「あっ──」


 不意に手が滑った。


 器が傾き、ラーメンが――


 ベシャアッ!!


「あっっっつ!!!」


 脚に、テーブルに、ラーメンがぶちまけられる。

 うずくまりながら、俺は床を見下ろした。


「やらかした……」


「わぁ~っ☆ ごしゅじんさま、見事にやらかしましたねぇ~っ♪」


 天使がくるくる回りながら、無邪気に笑っている。


「ん~っ、こういう時はぁ~、お片付けが得意な智天使ちゃん呼びましょうか〜?」


 ……お片付けが得意な天使?


 なんだその役割特化型のスキル持ちみたいな肩書きは。

 天界の人材配置はいったいどうなってるんだ……


 俺はしばらく現実逃避のようにラーメンの池を眺めたあと、ぽつりと呟いた。


「……お願いしてもいいですか」


「はぁ~いっ☆ じゃあ呼ぶねぇ~っ♪」


 さすがにこれを片付けるとなると、かなり骨が折れる。

 床にはスープが広がり、麺や具が散乱し、服や絨毯には汁がびっしり飛び散っている。


 掃除機だけじゃ済まない、雑巾と根気の勝負になるやつだ。


 本来、天使なんていうのはもっとこう、崇高な使命とか、神聖な役目とか――そういうののためにいる存在のはずだ。

 常軌を逸した造形を持ち、たぶん世界を救えるくらいの力もある。

 そんな存在にラーメンの後始末を頼むってのは、どう考えても申し訳ない。


 ……でも今夜だけは、甘えさせてもらおう。

 折角の金曜の夜なのに、こんなことで一人ラーメンと格闘してたら心が折れる。


 ラーメンの湖の真ん中で、俺は小さくため息をついた。



 とりあえず呼ぶと決めたはいいが、毎回“来る瞬間”だけは慣れない。


 俺は床のラーメン湖から飛び退き、タオル片手に深呼吸した。

 今度はどんな造形なのか。

 翼何枚、目玉何個──心の準備をしておかないと、まともに直視できない。


「ごしゅじんさまぁ~っ☆ じゃあ智天使ちゃん、降臨しま~す♪」


 ……来るのか、また。


 あの、天井がグニャってなるやつ。


 俺は無意識に姿勢を正した。

 “天使”が降りてくるっていうのは、どうあれ覚悟がいる。

 特に、見た目の意味で。


 ──ゴゥ……ン……。


 来た。

 天井が、液体のようにゆらりと揺れる。


 照明の光も歪み、家具の輪郭が曖昧になる。

 でもそこに神々しい荘厳さがあるかというと、全く無い。


 むしろ「またこのパターンか……」という、生活感のある既視感すらある。


 そして、天井から現れたのは――


 二対の翼をゆっくりと広げた、白い球体。

 その表面には、びっしりと無数の目玉。

 瞬きをする目、焦点が定まらない目、ぐるぐる動く目。


 ぞわぞわぞわ……


 ある程度覚悟してた。

 してたけど、それでもキツいものはキツい。


 直視すればするほど、脳の処理が追いつかなくなるタイプのビジュアルだ。

 この部屋の空気が、さっきまでのラーメンの匂いと混ざって、妙にリアルなのもつらい。


 その時だった。


 無数の目玉のうち、いくつかがピタリと俺の方を向いたかと思うと――



「ちょっとあんた! 呼ばれたからいざ来てみたら……何よこれ! なんでこんなにぶちまけてんのよ!」


 ツン、と跳ねるような声が響いた。


 ……え、声、そっち系?


 声と見た目のギャップが激しすぎる。

 というか、どの天使も、なんでこんなに“声”と“ビジュアル”が一致しないんだ……。

 俺は反射的に目をそらしながら、内心でツッコミを入れた。


「す、すみません……ちょっとこぼしてしまって……」


 思わず敬語になってしまった。

 こうも目が多すぎると圧がすごい。


「まったくもう! 言っとくけど私も暇じゃないんだからねっ!」


 智天使がぶわっと翼を広げながら文句を言う。

 その声はやっぱりツンツンしていて、目玉のひとつが涙目っぽく見えるのはたぶん気のせいだ。


「ごめんねぇ~っ☆ やってあげてぇ~♪ ごしゅじんさま、すっごくドジだからぁ~っ☆」


「……時間は限られてるんだから、さっさと終わらせるわよ!」


 智天使がぷんすかしながらも、白くて細い光の帯を翼の先からすっと伸ばす。


 ──気づいた時には、もう終わっていた。


 ラーメンまみれだった床は、跡形もなく綺麗になっていて。

 服や絨毯に染み付いていたスープの匂いも、麺の一欠片すら残っていない。

 

 ……いや、これ片付けっていうか、消滅させたんじゃ……?


 ちょっとだけ背筋が寒くなったけど、俺はとりあえず深く頭を下げた。


「ありがとうございます……ほんと、助かりました」


「……ほんと、気をつけなさいよねっ!」


 智天使がびしっと翼をこちらに向けて言い放つと、そのままくるりと浮遊しながら帰ろうとする。


「あ、あの」


 思わず引き止めるように声をかけた俺は、冷蔵庫を開けて、ちょっと高めのクラフトビールを一本取り出す。


「これ……お礼に。大したものじゃないですけど」


 渡しながら内心でツッコむ。

 ――いや、お礼に酒ってどうなんだ。

 天使に渡すもんか、普通。


 けど、智天使は一瞬止まると、ふわっと近づいてきた。

 思わず見た目の圧に後退りしかけたが、なんとか踏み留まる。


「ふーん……気が利くじゃない」


 ちょっとだけ、得意げなトーンになっている。

 そして次の瞬間、ビールの瓶がふわりと浮かび、光の帯に包まれて――


 ずぶりと、球体の部分に吸い込まれていった。


 恐らく「天使式食事」の時間だ。


「ん……なかなか悪くないわね」


 少し間を置いて、智天使からそんな声が聞こえた。


 ──そしてそのまま、何の前触れもなく。


 智天使は、すぅっと天井の歪みに吸い込まれるようにして消えていった。

 翼、目玉、球体ごと、見事な撤収っぷりだった。


 ……今回は、降臨してから帰るまで、たぶん一分も経ってない気がする。


 部屋には静けさが戻り、俺は改めてへたり込んだ。


「そういえばぁ~っ☆ ごしゅじんさま、さっき火傷してませんでしたぁ~?」


 ふよふよと天使が近づいてきて、心配そうに俺の脚を見てくる。


「あ、いや……たぶん大丈夫。ちょっと熱かったけど、すぐ拭いたし……」


「よかったぁ~っ☆ もし赤くなってたら、癒しの天使ちゃん呼ぼうと思ってたんですよぉ~っ♪」


 その言葉に、思わず小さく笑ってしまう。


 ……なんだかんだで、気遣ってくれる存在ってありがたい。

 天使ってすごいな、と素直に思った。


 ただ――この存在がもし本気でキレたらどうなるんだろう……と考えると、ちょっとゾッとする。


 俺の魂が“聖人”だからって、調子に乗るのはやめておきたい。


 天使が味方でいてくれるのはありがたいけど――だからって、なあなあで接していい存在かっていうと、絶対そうじゃない。


 やっぱり距離感って大事だ。

 敬意と感謝は忘れずに、でも必要以上にビビりすぎないように。


 ……うん。

 天使との付き合いも、社会人の人間関係とあんまり変わらない気がする。

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