ある日天使(ガチ)がやってきた

ソクラティス

天使降臨

 金曜の夜。

 シャワーを終え、部屋着に着替えて、麦茶片手に布団に沈みかけていたときだった。


 ――耳鳴り。


 と思った次の瞬間、空気が一気に重くなった。

 天井の蛍光灯がジジッと音を立て、光が不規則に点滅する。

 心臓が、変なリズムを刻んだ。


「……なに、これ……」


 天井が、溶けるように歪んだ。

 そこから――“目”が、無数に、覗き込んできた。


 瞳は人間のものに似ていたが、どれ一つとしてまばたきせず、全てがこちらを正確に見据えている。

 視線が刺さる。

 全身が冷たくなる。

 体が動かない。


 歯車のように回転する環――その縁にも目があり、羽根が広がり三対の翼になり、環が重なりながらゆっくりと、部屋に“降りて”きた。

 重なる視線。

 神の光。

 生理的に受け入れがたい構造。

 それが確かに、ここに存在していた。


 逃げなきゃ、と思った。

 でも体が、金縛りに遭ったみたいに動かない。


 そして、そいつは口を開いた。

 ――いや、口がどこにあったのか分からない。

 けれど、その“声”は、脳に直接、響いてきた。


「おつかれさまでぇ~す! 本日もろうどう、おつかれちゃ~ん♪」


 ……ん?


「おにいさん、今日もがんばってえらいねっ♪ ごほうびに降臨しちゃいましたぁ~!」


 思わず、全身に鳥肌が立った。

 異形の天使から発されたそれは、完全にアニメの萌え声だった。


 異形は、ふわりと宙に浮いたまま、ゆっくりと部屋の中へ滑り込んできた。

 環のような構造体が何層にも重なり、その表面には無数の“目”がぐるぐると回転している。

 三対の翼を構成している燃え盛る羽根が、空間を撫でている。

 畳の上に煤ひとつ落とさず漂っているのが逆に怖い。


「……お、おま……だれ……?」


 掠れた声が漏れた。

 言葉にしてしまったことに、一瞬後悔する。

 けれど、異形は明るい声で即座に返した。


「えへへ、やっとしゃべってくれたぁ♪ そんなに驚かなくてもいいのにぃ~、わたし、ただの天使ですよぉ~?」


 言っていることは可愛い。

 が、見た目がどう見ても神話か終末か。


 目が、見ている。

 全部、こっちを。

 天井のシミも、洗いかけの食器も、コンビニ袋の中身も、なんなら人生そのものも見透かしてきている感じがする。


「ふふ~ん♪ じゃあまずは~……あ、靴脱がなきゃ☆」


 ――ん?


 環の一部がふわりと浮き、玄関の方へ向かっていく。

 そして、無理やり空中に光輪をぽいっと設置して、そこに何かを乗せようとする……が。


 ……何も乗らない。

 そもそも、足がない。


「あ、そっか☆ わたし、ないんだった~。てへ♪」


 自分で言って、自分で笑ってる。

 何が「てへ♪」だ。


 しばらく沈黙が続いた。


 異形は部屋の空気を全く乱さず、宙に浮いたまま、目をくるくると回転させている。

 動いていないのに、見られているという圧だけが重く積もっていく。


 この状況に慣れるとか、落ち着くとか、そういう次元じゃない。

 でも、ずっと沈黙しているのも耐えがたくて、ようやく口を開いた。


「……さっき“天使”って言ったよな。じゃあ……その、なんで……ここに?」


 恐る恐る。

 喉が張りついていて、声が出にくい。

 けれど、それでも尋ねずにはいられなかった。


「うんうん、それ大事な質問~♪」


 異形が明るく応じた。

 まるでクイズ番組の司会者みたいなテンションだった。


「えっとね~……主が、あなたの魂を気に入ったんですよ~?」


 さらっとした言い方だった。

 が、それが逆に怖かった。


「すっごく波長が良くって、ピカピカしてて、ず~っと見てられるな~って♪それで、主がおっしゃったの! “この魂、好き”って!」


 “好き”、じゃねえよ。


 その言葉に、ぞわりと背筋が冷えた。

 どこか遠くで、巨大な目がゆっくりと瞬きしたような気がして、反射的に天井を見上げてしまう。


 でも、そこに異形の主はいなかった。

 今見えているのは、この部屋にふわふわ浮かぶ、目玉だらけの環状体だけだ。

 それでも――自分の魂を“気に入った”というその言葉に、無性に恐怖を感じてしまった。


「……え、それってつまり、なんか……ヤバいやつじゃないのか?」


「ううん? とっても素敵なことだよぉ~♪だって、主に好かれるなんて、すっごく貴重で、光栄なことだもんっ♪」


 満面の笑み(のつもりなんだろう)でくるくると旋回する天使。

 でも、“魂を見られている”という感覚が、薄皮一枚の下にずっと残っていた。


 これが漫画やアニメに出てくるような、ピンク色とかの髪で、小さな羽根が生えていて、くるっとした目をした可愛い子だったら――


 多少の戸惑いはあったとしても、ここまで怯えずに済んだのかもしれない。


 「わたし、天使です☆」って言われて、「え、マジ? でも可愛いし許すか」みたいな、そんなふうに脳が納得できたかもしれない。


 でも、目がいくつもある“環”が、部屋の中をくるくる漂って、

 しかもその全部がこっちを見ていて、燃える羽根を撒き散らしてるような状況で――


 どうして「天使です☆」が信じられると思った? 無理だよ。


 声がいくらアニメ声でも。

 言ってることがどれだけ柔らかくても。


 “見た目”がすべてをぶち壊してくる。


 今この瞬間にも、目がひとつ、ぬるっと瞬きした。

 怖い。

 もう本能的に怖い。


「主がね~? あなたに“何か”あって、魂がすり減っちゃったらイヤだな~って。だから、わたし派遣されたんですぅ♪」


 軽い口調で言われたその言葉に、脳が一瞬、追いつかなかった。


 ……何か?


 魂が、すり減る?


 嫌な響きだった。

 ざらざらとした何かが、心の内側を這いまわる。


 “何か”って、なんだ。

 仕事か? 人間関係か? それとも……まだ見ぬ、もっと別の何かか?


 いや、それよりも。

 “主”とやらがわざわざ何かを察知して、こいつを送り込んでくるほどの“何か”って、

 俺の未来に、どんな地雷が埋まってるっていうんだ。


 魂がすり減るほどの何かが、もうすぐ起こるかもしれないってことなのか?


 その可能性に、背筋がじわじわと冷えていく。


 天使は相変わらず、輪を回しながら無邪気に漂っていた。


 ……ダメだ。


 もう、分からない。

 見た目と声のギャップ、魂がどうとかいう話、そして“何か”の予告めいた言葉。

 現実感がどんどん薄れていって、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。


 こんなときは――


「……酒だ」


 俺は立ち上がり、冷蔵庫の中から缶チューハイを取り出した。

 いつもは週末に一本だけ飲む、アルコール度数ちょっと強めのやつ。

 今日はもう、特例だ。

 コイツが見えてる時点で、日常もへったくれもない。


 プシュッと缶を開けて、一口。

 アルコールが喉を焼きながら通っていく感覚に、ほんの少しだけ現実に引き戻される。


「……はぁ」


 深いため息と共に、天井を見上げる。

 そこには相変わらず、目玉や翼の付いたリングがくるくる漂っていた。


「おにいさぁん? それ、なに飲んでるのぉ?」


 萌え声が近づいてきた。

 なんか嬉しそうな、興味津々のテンションで。


「お酒、ですかぁ~? えへへっ、わたしも飲んでみたぁい♪」


 ふわり、と。

 目玉のついた環が、こちらへ滑るように近づいてくる。


 ちょ、待て。


 接近してくるそれは、遠くから見ていたときよりも遥かに“密度”があった。

 目が、近い。

 羽根が、熱い。

 音はほとんど立てずに動いてるのに、空気だけがざわざわと震えている。


 近づくな。


 いや、ダメだ、来るな。


 でも、天使はニコニコ(してるつもりなんだろう)と、こちらにスッと距離を詰めてきて――


「ちょっとだけ、味見させてくださいっ♪」


 その瞬間。


「ひッ……!」


 反射的に、体がのけぞった。

 缶が手からこぼれそうになるのを、ぎりぎりで持ち直す。


 近い。

 近すぎる。

 見た目が“あれ”すぎる。

 目が、もう、顔のすぐそこにあって、まばたきして、こっち見てる。複数で。全方向から。


「おにいさん、どうしたのぉ?」


 いやいやいや。

 その距離感、そのトーン、その見た目で言われても、恐怖しかないから。


「ちょっとだけ、味見させてくださいっ♪」


 そう言って、異形がすぅっと近づいてくる。

 顔面……いや、“顔らしき部分”が、俺の持っていた缶チューハイのすぐ目の前に迫ってくる。


 くるくる回る環。

 無数の目。

 そのどれもが、缶の一点を見据えている。


「……飲めんのかよ」


 思わず、そう漏らした瞬間。


 ――シュッ。


 乾いた音がした。

 中身が……減った。


 缶はまだ俺の手の中にある。

 誰も触れていない。

 にもかかわらず、ほんの少し、重みが軽くなったのが分かった。


 ……今、確実に一口分、減った。


「お、おい……今の……どうやって……」


「えへへっ♪ ないしょで~す☆」


 ないしょってなんだよ。

 そもそも、お前、どこに口が……どこに器官が……


 もう一度、シュッと音がして、さらに中身が減った。


 今度は、缶の表面にほんのり結露が浮かび、ぷつりと気泡が弾けるのが見えた。

 まるで、空気ごと吸い込まれているみたいだった。


 その瞬間、足の裏からぞわぞわぞわと、鳥肌が駆け上がった。


 見えない。

 でも“確かに”何かが飲んでいる。

 この目の前の“それ”が、飲んでいる。


 ……意味が分からない。


 缶チューハイを、目しかない環状の存在が、何の器具も使わずに、当たり前のように“味わって”いるという事実。


 ぞわぞわぞわぞわぞわ。


 嫌だ。

 もう嫌だ。

 物理の法則をねじ曲げてくるな。


 そう思って一歩下がろうとしたが、足が床に吸い付いたみたいに動かない。

 代わりに、天使(自称)が、くるりと一回転して言った。


「ふぅ~♪ これ、けっこうおいしいかもっ☆ ぴりってするねぇ~!」


 楽しそうな声。

 だけどその“飲み終わった”感が、どこからどう来てるのかまったく分からない。


 目の数だけ脳があったらどうしようとか、環の中に未知の“管”でもあるのかとか、そもそも液体として摂取してるんじゃなくて“概念”を吸ってるのではとか、

 いらない想像ばかりが脳内を駆け巡る。


 何より、あの“目”たちが、飲んでる最中もずっとこっちを見てたのが無理すぎる。


「おにいさ~ん? もっとほし~なぁ♪」


「……あげねぇよ……!」


 そう言い放ってから、ほんのコンマ数秒。


 背筋に、ビリッと冷たい電気が走った。


 ――あれ?


 俺、今……いや、最初から、タメ口……?


 異形に向かって。

 この“見た目で天使”に向かって。

 俺、タメ口……?


 目玉が、こっちを見ている。

 すごい数の目玉が、ぐるぐると蠢きながら、全部、確実に俺を見ている。


 距離、近い。

 熱、ある。

 気配、重い。


 ヤバすぎる。


 なにこれ、怒ったら、部屋ごと炭になるやつじゃん……?


「あ、あの……さっきはちょっと、口調が……その……失礼というか……ごめんなさい……」


 反射的に、敬語になっていた。


 この環、絶対に“やろうと思えば”即死させてくるタイプだ。

 下手に口を滑らせたら、魂がサラッと剥がされるやつだ。

 優しげな声とのギャップが、逆に怖い。


 けれど。


「えぇ~? そんなのぜんっぜん気にしなくていいのにぃ~♪」


 と、天使はふわふわ旋回しながら、明るく返してきた。


「おにいさんの素が出てくれたほうが、わたしもうれしいなっ♪ 無理して敬語にしなくていいんですよぉ~?」


 笑っている、ような気がする。

 くるくると旋回するその動きが、どこか喜びを表しているようでもある。


 でも――。


 ほんとに“気にしてない”って、信じていいのか……?


 今のはたまたまセーフだっただけで、次に何かうっかり言った瞬間に、天井が抜けて光で焼かれたりしない?


 笑ってるけど、“概念を吸う存在”が本気でキレたときの挙動なんて、誰にも予測できないじゃん。


 俺は缶を持ったまま、そっと後ずさりした。

 目玉は、全部、俺の動きに合わせて追ってくる。


 ぞわぞわぞわぞわぞわぞわぞわ。


「だ、だからって……その、気を抜きすぎるのも、ちょっと……ですね、はい……」


 口調が定まらない。

 タメ口と敬語の間でぐらぐら揺れる。

 正解がどこにもない気がする。


 そのとき。


「うふふっ、おにいさん、ちょ~かわいいっ☆」


 こいつ、絶対見透かして言ってる。


 とりあえず、缶チューハイは飲み切った。

 天使(自称)の“味見”のせいで、予定より早く空になったけど、もう一本開ける気にはなれなかった。


 というか、この状況で酔うとか、逆に危険すぎる。


「……もういいや。寝る。とりあえず寝る」


 頭も感情も、情報も、全部オーバーフローしてる。

 思考がこれ以上ぶつかってきたら、マジで爆発する。


 願わくば、寝て起きたらぜんぶ夢でしたってことに――

 ……なっててくれ。頼むから。


 俺は布団に潜り込んだ。

 そして、もう一度だけ天井を見上げた。


 まだいる。


 異形の天使は、くるくると回転しながら、ふよふよと天井近くを漂っている。

 こっちを見ている。

 ――いや、全部の目が見ている。

 言葉のまんま、全部。


「おにいさ~ん? もう寝ちゃうのぉ~?」


 その声が降ってきた。


 うわ、来た。


 来ると思った。


「う、うん。寝る。寝るから」


「じゃあ~……いっしょに寝ちゃおっかな~って♪」


「だめです」


 即答だった。

 布団をかぶったまま、反射的に声が出ていた。


「えぇ~? なんでぇ~? さびしいよぉ?」


「いや、無理無理無理無理。無理です。無理だし物理的にどうやって? あと視線が多い。寝られない。絶対寝られないから」


「むぅ……じゃあ、ここで見守ってるだけにしま~す……」


「それも怖ぇよ!」


 羽根の音もなく、天井の“輪”がほんのり寂しそうに回った気がした。

 見守るって言った今も、目が全部こっち向いてる。


 絶対眠れないやつだ。


 そう思ってたのに。


 気づけば、いつの間にか意識が溶けていて。


 ――で、夢の中にも、天使はいた。


 現実より環がでかくなってるし、目も倍増してるし、しかもなぜかラップバトル仕掛けてきた。

 なんで。


 朝、目が覚めたとき、昨日より疲れてた。

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