春の檻

朧月アーク

春の檻

 春の午後、光は街を覆い尽くすでもなく、ただ静かに降りていた。小さな川のほとりにある古本屋の窓辺に透き通るような陽だまりがひとすじ、机の上のほこりを照らしていた。


 葉月はその光の中で、一冊の古びた詩集をめくっていた。ページの隙間からかすかに香るのは、紙が歳月を重ねることでしかまとえない、過去の気配だった。人の声も車の音も遠く、時間はこの一角だけ別の速度で流れているようだった。


 恋をしているとは、まだ自分では気づいていなかった。ただ、その人が来ると胸の奥がかすかにきしむように感じられ、その気配が去ると暫くは店の空気までもが空っぽに思えた。


 そんな彼の名を、まだ知らなかった。


 その男が現れるのは、決まって水曜日の午後だった。外の世界が最も静まり返る時刻に、彼はいつも同じように、風のように店のドアを押し開ける。鈴の音が鳴るたびに、葉月の指先はページをめくるのをやめ、目だけがそっと彼を追った。


 長身で細身。背中には布製の鞄を斜めに掛けており、その中には大抵詩か、旅の記録のような本が入っていた。無造作に伸ばした前髪が瞳にかかり、何かを探すようにゆっくりと書架しょかを見てまわる。話しかけられることを拒むような孤独と、同時に何かを求めているような切実さが彼の背中の中にはあった。


 葉月は言葉を飲み込みながら、その姿を見つめていた。声をかける理由などいくらでもあったのに、声をかけない理由ばかりが増えていった。


 人は時に触れられないものほど、強く惹かれることがある。遠くの星に願いをかけるように、触れられないからこそ想いはかたちを帯びていく。


 ある日、彼は一冊の本を手にして、初めて葉月に声をかけた。


「この詩人、あまり知られていないですが、読んでみると不思議と心が静かになるんですよ」


 柔らかく低い声だった。春の光に似た声音ねいろ。葉月は驚きと、どこかでそれをずっと待っていたような感覚に、瞬きを忘れた。


「……ええ。わたしも、好きです」


 それだけが、やっとのことで出てきた言葉だった。


 その日から、葉月の水曜日は少しだけ輪郭を持つようになった。あの人が来る、という確信が心に小さな火を灯し、週のなかばが少しだけ待ち遠しくなった。けれど、それ以上の何かを望むには彼との会話はあまりに短く、言葉はまだ他人行儀のままだった。


 彼の名は凪沢なぎさわと言った。


 それを知ったのは二度目の会話のあとだった。本のカバーに添えられた控えめなメモ――「取り置き希望/凪沢なぎさわ」と書かれた文字に、葉月は目を留めた。どこか詩のような響きをもったその名前を、彼の声と重ねて、心の中で何度も唱えてみた。


 凪沢なぎさわ。静かな水面と風の音が一度に思い浮かぶ。


 それからの日々、彼の読む本を記憶するようになった。詩人の名前、ページのめくり方、読み終えた本をそっと戻す仕草。彼の選ぶ言葉の好みを辿ることで、まだ知らない彼の輪郭を少しずつえがこうとしていた。けれど、そんな距離のままでは、どこまで近づいても「恋」とは呼べないと、どこかで分かってもいた。


 ある雨の日、凪沢なぎさわはいつもと違う本を手にしていた。詩でも随筆でもなく、小さなノートだった。表紙は青色で、装丁そうていも素っ気ないものだった。葉月の視線に気付いたのか、凪沢なぎさわは言葉を話す。


「これ、僕が書いたんです。日記のような、詩のような……ただの記録として」


 そのまま彼は葉月にそのノートを差し出した。


「良かったら読んでみますか?他人に読ませるのは、あなたが初めてですが。」


 葉月の心臓が、まるで別の生き物かの跳ねた。


 開いたページには、短くも澄んだ言葉が並んでいた。静けさの中に、誰にも言えなかった感情の揺れが確かに息づいていた。


 ――六月、ひとを好きになるということをひとりで知る。


 ――名前を知らなかった頃の方が、呼び掛けたくなるのは何故だろう。


 ――水曜日の書店。窓辺のひかりと本を読むひとの横顔。


 葉月はページを閉じる手を止め、もう一度読み返した。


 それは自分のことだった。


 指先がほんのわずかに震えたのを、葉月は自分でも意識した。書かれた言葉の一つ一つが、音を立てずに心の奥に差し込まれていくようだった。声にならない何かが胸にまり、喉の奥にじっと居座った。


「……これ、わたしのことですよね」


 そう問いかけたのは、確認というより告白に近かった。凪沢なぎさわは、ほんの少しだけ目を伏せてから、静かに頷いた。


「気付いていたかもしれませんが……ずっと、見ていました。声を掛ける理由なんていくらでもあったはずなのに、なかなか出来なくて。でも、貴方あなたが窓辺で本を読んでいる姿を見ているだけで、毎週、それだけで十分だったんです」


 その声は、いつか彼が手にしていた詩の一節のように、どこまでも静かで切実だった。


 外では雨が止んでいた。濡れた舗道がかすかに光を返し始め、街はまた違う色に染まりかけていた。葉月はノートを胸に抱いたまま、ゆっくりと言葉をつむぐ。


「わたしも……水曜日が来るたびに、来てほしいって思ってたんです。声を掛けられなくても、そこに居てくれるだけで、ずっと嬉しくて」


 二人の間に流れていた、長く静かな時間。それがようやく、音になった瞬間だった。言葉にしてしまえば壊れそうで、けれど言わずにはいられない、そういう想いが確かにここに存在していた。


「来週も、来てもらえますか?」


 葉月がそう言うと、凪沢なぎさわは、まるで初めて笑ったかのような表情で頷いた。


「もちろん。できれば水曜日以外も」


 その言葉が、春の終わりを告げていた。恋が始まるのはいつだって季節の狭間はざまだ。ひとつのページが閉じ、静かに次の章が開かれる。



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 続編『夏の微睡』

 https://kakuyomu.jp/works/16818792436921532600/episodes/16818792436921707624

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