アライバル・オブ・ライト

下村アンダーソン

1

 目を背けられない呪いを、彼女にかけられたのだと思った。

 影が崩れていくまでには多少の時間がかかったし、仮に無視して立ち去ったところで咎められる謂われはいっさい無かったのだが、最後の最後まで私はそこに居合わせて、結果的に、鶴見礼の疑似的な破滅と再生の立会人を務める羽目に陥った。

 倒れた、ではなく崩れた、と表現したのは、他でもない鶴見さん本人の影響による。決して倒れてはいない。崩れた。このふたつには明確な差があり、自分は意識して振付を変えているのだと、原稿のチェックのために文芸部を訪れた彼女は言ったのだ。

 もっともあの場面での私には、どちらであっても大差はなかった。端的に、自分の目の前で人が死にかけていると思ったのだから当然かもしれない。杠葉市総合公園の、ひと気の少ない一角での出来事だ。

 最初に把握できた動きは回転だった。斜面を上りきった私が何気なく駐車場に視線を落とすのと同時に、誰かが風の匂いを嗅ぐかのように首を、そして胴体を捻って、こちらを向いた。それが始まりだった。とうに日が落ちて一帯は暗がりに満ち、光源といえば規則的に並べられた、瓦斯灯に似た形状の外灯くらいだったから、シルエット以外は視認できなかった。それなのに目が合ったのが何故かはっきりと分かって、私はその場に釘付けにさせられたのだ。

 鶴見礼は背の高い、そしてほっそりとした影だった。

 それが片手を伸べてきたあたりまでは、私の意識はおそらく平常だった。差し上げられた腕のしなやかさを、まるで伝令の鳥を私に向けて飛ばしているみたいだと感じ、この表現はなにかの小説で読んだのだったか、などと検討していたくらいだったから、あるていど鷹揚に構えていたと言うべきかもしれない。

 異変に気付いたのは、その直後だ。

 優雅に浮かんでいたはずの掌の位置に、ぶれが生じたのが契機だった。例えば手が急に、なんの理由もなく自分の居場所を見失ったと感じはじめ、それを持ち主に伝えるべく小刻みに震えだしたとでもすれば、ああした反応になるだろうか。五本の指の不安、恐れ、慄きが掌から肩へ、そして全身へと伝播し、いつまでも去らない――そんな風に私には見えたのだ。増幅に増幅を重ねた震えはやがて、宙を搔き乱す痙攣じみた動きに移行した。

 私の脳裡に眩い電流が駆け巡った。あの人はいまや、はっきりと苦しんでいる。

 助けなければ。

 全速力で現場に急行したのだが、糸を切られたマリオネットのごとく、腕が、頭が、くにゃりと折れ曲がりながら地面に落ちていくのを、私は受け止められなかった。判断の遅さと反射神経の鈍さに、我ながら絶望を覚えたほどだった。

「大丈夫ですか」

 声をかけながら屈み込んだとき、彼女の手足は複雑に折れ曲がって、胴体の傍らに投げ出されていた。うつ伏せで、顔は横向き。薄闇のなか、その肌は不吉なほどに蒼白かった。

「あの、聞こえますか。救急車、呼びますから」

 スマートフォンを求めてポケットを弄りはじめたとき、空気を押し上げるような滑らかさで上半身が持ち上がったので、私は思わず腰を抜かした。

「平気だから」

 というのが、鶴見さんの第一声だった。少年のような、やや低い声音だった。

「そうですか。でも痙攣してたし――」

 私があたふたしている間にも彼女は体勢を整えて、理知的な翳りを宿した眼差しでこちらを見返してきた。ヨーロッパ映画にでも出てきそうな立体的な目鼻立ちをした人だと、このとき漠然と思った。

「びっくりさせたね。ダンスの練習中だったの」と彼女は短く説明を寄越した。「だから救急車も警察も生徒指導もいらない。いま現在は怪我も病気もしてない」

「なら良かった」と私は安堵して、「ストリートダンスの方ですか」

「勝手に踊ってるだけの行為がそう呼ばれるなら。ただブレイクダンスみたいな激しい動きを期待されるのは困るな。そういうの無理だから」自嘲するように、彼女は薄く笑って、「杠高生でしょ? ダンス部あるよね?」

 杠高というのは、県立杠葉高校の略称だ。制服と学年章の着用が定められているから、地元の人が相手だと、こうしてすぐさま素性が知られてしまう。

「ありますけど、詳しいことは知りません。私、文芸部員なので」

「小説とかを書く?」

 頷き、それから思い付いて、「白い紙を前に唸ってるだけの行為がそう呼べるなら」

 このフレーズが可笑しかったらしく、ふふ、と吐息を洩らしながら彼女は頷いた。地面に伏せっていたせいだろう、黒いスタジアムジャンパーの袖に小石が付着しているのが見えたので、私はその箇所を指して、

「小石が付いてます、もう少し上」

 彼女は無造作にそれを払い落してから、名乗った。鶴見礼。

「私は志島皐月です。皐月は五月ですけど、漢字が難しいほうです」

「改めてどうもありがとう、志島さん。学校祭、もうすぐだよね」

 まさにその理由で、下校がこの時間になったのだと話した。杠校祭特別号と称した、普段よりやや豪華な仕立ての部誌を発行せねばならず、締切が間近に迫っていた。

 杠葉高校文芸部は、創立こそ古いものの現在は部員二名の弱小集団で、純粋な文芸創作活動における注目度はほとんどない。これは報道部の友人に聞いた話だが、文芸部が発行する部誌の名称が『アモール』だと知っているのは、どう多く見積もっても全校生徒の二パーセントに満たないという。

 そんな文芸部が廃部を免れたのは偏に、現部長である倉嶌琉夏さんの暗躍のためである。どういう手段を使ったのかは今もって不明だが、動機が創作への情熱でなかったことだけは、他でもない私が断言できる。

 直截な言い方をするならば、ちょっとどうかと思うほど怠惰な人なのである。お菓子を摘まんだり、持ち込んできた漫画を読んだり、数時間単位の瞑想に耽ったり、といったおよそ無益な活動しか、普段の彼女は行わない。むろん小説も書かない。のんべんだらりと放課後を過ごせる穴蔵を求めて学校側をいかさまに掛け、本当に部室を獲得してしまった、というのが高校一年秋時点での私の見解だ。

「頑張ってるんだね」フェンスの向こう側で揺れる木々のあたりを見つめながら、鶴見さんが言う。「私にはできない」

「私も、いつもできないと感じてます。これまでに何作かは部誌に載せたので、できないことはないだろうと思いながら、どうにか自分と折り合いを付けるのが、私の文芸部での活動です」

 鶴見さんは数秒の沈黙ののち、

「選んだ言葉ひとつで全部が台無しになる――まで行かなくても、なんだか言葉それ自体がさ、居心地悪そうにして見えることってない? もちろん言葉自体に意思はない。だからこそ、責任を負わなきゃならないのは書き手である自分自身なんだって、認識せざるを得ないんと思うんだ。原稿用紙数枚の作文書いてるだけ、何分かの面接受けてるだけでも、私はそう感じる。だからあなたがどうやって小説のなかでの言葉の居心地悪さに耐えてるのか、どうやって最後の一語に行きついてるのか、私には想像つかない」

 しばらく、考え込まざるを得なかった。「どこかで諦めて手放してるだけなんだと思います。締切とか、資料を読む面倒くささとか、自分の知識の無さとか、いまの実力とか、そういうのを言い訳にして」

「死ぬまで踊り狂うことはない?」

 私はまたしばらく考えて、結局は短く、「あったら、ここに居ません」

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