とけあうしあわせ
明日和 鰊
とけあうしあわせ
ある所にとてもお腹がすいている男がいた。
ハラがへった。
もう何日も食べられるものを口にしていない。
ハラがへった。
口寂しさから含んでいた石ころを、飲みこんでしまおうかとも考えてしまうほどに。
ハラがへった。
目の前に現れた男が、「やぁ」と片手をあげて挨拶してきた。
ハラがへった。
食欲をそそるにおいだ。
ハラがへった。
バリバリ、むしゃむしゃ。
男の頭の骨が砕ける音が、私の口の中から聞こえる。
男の肉が引き裂かれる音が、私の口の中から聞こえる。
おいしい、おいしい。
バリバリ、むしゃむしゃ。
わたしの頭の骨が砕ける音が、私の口の中から聞こえる。
わたしの肉が引き裂かれる音が、私の口の中から聞こえる。
いたい、いたい。
おいしい、おいしい。
いたい、いたい。
おいしい、おいしい。
いたい、いたい。
あ~お腹いっぱい、もう食べられないよお。
むこうからだれかがやってくる。
わたしは「やぁ」とかたてをあげてあいさつをした。
~『ヘンリクス小学一年生用国語教科書』より~
この場所に閉じ込められてから、何分、何時間、何日経ったかわからない。
数センチ先さえ見る事の出来ない闇の中、私は椅子に手足を縛られて座らされていた。
光のなかった牢屋の中で、久しぶりの刺激に目が慣れた頃、誰かが入ってくる。
目の前に現れた男が、「やぁ」と片手をあげて挨拶してきた。
「殺すならさっさと殺せ。おまえらに話す事なんて一つも無い」
「おなかはすいたかい?」
暗闇の中、数日ぶりに点けられた裸電球に照らされたその顔は、この国の大統領のものだった。
数日前にスパイ容疑で捕らえられた私は、五日間にわたる厳しい肉体への拷問の末に椅子に縛り付けられ、最低限の水以外の一切の食事を絶たれた。
空腹は既に生命の危機にまで達していたが、多くの国で修羅場をくぐり抜けた私のプライドが、屈する事をギリギリで拒んでいた。
「おなかはすいたかい?」
「あいにくだが、空腹に負けて自白するほど落ちぶれちゃいない」
秘密のベールに包まれた独裁国家、『ヘンリクス』の内偵調査をすることになったのは三年前。
顔すらわからなかったこの国の大統領の、顔写真をやっと手に入れたのが一月ほど前。
大統領はこの国のどこにでもいる、平凡な顔をしていた。
これが近隣諸国に恐れられている男かと、拍子抜けしたほどだった。
本国に持ち帰ろうと住んでた家を出た瞬間、待ち構えていた警官達に私は捕まった。
この三年間、正体がばれないように細心の注意を払っていたが、どこからか私の身元が漏れていたのだ。
大統領が手をあげ合図をすると、暗闇の向こうにあるドアから明かりが漏れる。
部屋に誰かが入ってきた。
目の前に現れた男が、「やぁ」と片手をあげて挨拶してきた。
男の身体からは肉を焼いたような、いや香辛料をたっぷり使ったスープのような、いやいや熟れたフルーツのような甘い香りが、漂ってきた。
食欲をそそるにおいだ。
口が私の意志に反して大きく開いており、そこからよだれが滝のように流れていた。
「おなかはすいたかい?」
しかし、食欲に意識を奪われそうになった私を正気に戻したのは、その男の顔だった。
男は隣に立っている大統領の顔と瓜二つの顔をしていた。
双子、それとも影武者か?
並べて見比べても、違いがわからないほど二人はよく似ている。
私が二人の顔を穴が開くほど見つめていると、ドアから更に人が入ってきた。
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
私の心臓が激しく動悸して、息苦しくなっていく。
現れた十人の男達は、全て大統領と同じ顔をしていた。
「な、なんなんだ、お、お、おまえら!?」
似ているという次元ではない。
声も仕草も挨拶の抑揚さえも、何一つ区別が出来ないほど同じだった。
困惑している私に、最初に入ってきた大統領がまた同じ質問を繰り返す。
「おなかはすいたかい?」
その言葉が合図であったのか、後から入ってきた大統領達がゆっくりと私に近づいてくる。
一人の大統領が私の髪を掴み、私の口の中に手を入れて無理矢理開かせると、次々と他の大統領達が私の身体を、椅子ごと倒れないように力尽くで固定した。
そして一人の大統領が、こじ開けられた私の口の中に、自分の頭を押し込もうとする。
私はパニックになって暴れようとしたが、微動だにすることが出来なかった。
こじ開けられた時に既にあごは外れていたが、それでも開いた口よりも大きな頭が入るわけがないと思っていたが、大統領の頭はするすると私の口の中におさまっていく。
大統領達が私の頭とあごを押さえて、無理矢理口の中の大統領を咀嚼させた。
私の口の中で、突っ込まれていた腕とともに、大統領の頭がかみ砕かれた。
バリバリ、むしゃむしゃ。
おいしい、おいしい。
バリバリ、むしゃむしゃ。
いたい、いたい。
一噛みするごとに旨味が増してくるようで、私はいつの間にか自分の意志で咀嚼を繰り返していた。
そして一噛みするごとに、大統領の痛みが私の身体にしみこんでいくようだった。
激痛とマゾヒズムのような幸福感が、私の肉体や精神を蝕み、満たしていった。
大統領の頭も腕も脚も胴体も、すべてわたしのはらのなかにおさまっていた。
「おなかはみたされたかい?」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「やぁ」
「……やぁ」
わたしは、かたてをあげてあいさつをした。
とけあうしあわせ 明日和 鰊 @riosuto32
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