第5話 僕を突き動かしたのは、羨望



 それはたった一枚の絵だった。


 氷の城。

 それが陽光を受けて煌めくのを、斜め下から見上げているような構図である。


 幻想的な景色だった。

 どう考えても氷点下の寒い地方だろうに、背景に描かれている山は赤く色づいている。


 その赤と、陽光を表現する黄味かかったオレンジ色と、透き通った城の外壁と、影が落ちた青味かかった色合いが美しかった。


 絵はよく芸術作品の一つに数えられる。

 城内にもそういう目的で飾られている絵があるが、この絵は絵そのものが芸術というより、絵の中の世界そのものが芸術であるように思えた。

 



「いらっしゃい。そちらの絵が気になりますか?」


 そんなふうに声を掛けられて、ハッと我に返る。


 ここで初めて、この絵が商店の店頭に並ぶ売り物だったのだと気が付いた。

 まさか声をかけられるだなんて思いもよらなかったせいで、「綺麗な絵ですね」という言葉が口をついて出る。


 我ながら、まるで定型文のような賛辞だと思った。

 そんな事しか言えない自分に少し、落胆する。



 たしかに僕は、伯爵家の出上級貴族の端くれでありながら、これまで一切と言っていい程、芸術品に興味がなかった。

 そもそもこういった物を褒めた経験もなければ、語彙さえない。


 この絵に向けるべきいい言葉が、きっともっと他にあるだろうに。

 そんな後悔の仕方をしたのは、間違いなく生まれて初めてだった。



 拙い褒め言葉だったにも拘わらず、商人は嬉しそうに「ほう! 分かりますか!」と声を上げてくれる。


「実はこれ、私が書いたんです」

「えっ」


 てっきりどこからか仕入れてきた物だと思っていた。

 素人目だが、それ程までに出来がいい。


 ……いや、出来はあまり関係ないのかもしれない。


 目を引く。

 気に入った。

 ただそれだけで、僕にとってはいいのかもしれなかった。


「あ、見てたの絵だったんですね。たしかになんか、氷の城を描いているのに、妙に温かみがあるっていうか」

「ありがとうございます。とはいえ下手の横付きで。昔から絵を描くのが好きだったんですが、それだけじゃあ食べていけないので、こうして行商の合間に絵を描いては、気に入ってくれた誰かの手元に置いてもらえないかと出しているくらいで」


 そう言って笑う彼は、謙遜しつつも嬉しそうだった。

 余程絵を描くのが好きなのだろう。


「これ、どこを描いた絵なんですか?」

「これはたしか、北の国の山奥だった筈です。実際にこういう景色があって」


 見たそのままを、書いたんです。

 そんな彼の言葉に、僕は強い衝撃を受けた。



 てっきり創作の類だと思っていた。


 僕は絵に造詣は深くないが、流石に創作の絵よりも実際の絵の方が社交界での評価が高い事は知っている。

 それでも十分評価に値するものだと思っていたのだが、こんな景色が本当に存在するのか。



 この人は、見たままを書いたと言った。


 ――羨ましい、と思った。


 もし本当にこの絵のままの景色があるのなら、それを直に自身の目で見た時、僕はどのように思うのだろうか。


 もし絵のままの景色がなくとも、彼の言葉を信じるのなら彼の目にはこう見えたという事だ。

 だとしたら、この人の目には他の景色も、この絵のように彩りに溢れた陰影の美しい世界に見えているのだろうか。



 どちらなのかは分からないが、どちらでもいいと思った。


 ただただ見た事のない美しい景色を、こんな景色を見た彼を羨ましいと思った。

 それをこうして描き留めて、その時の景色を鮮明に思い出せる彼を、羨ましいと思った。


「僕も、日の光が差し込む窓際とか結構好きですよ。いいですよねぇ、こういう温かみのある景色って。何気ないものでも、ちょっと特別に見えるっていうか」

「そうなんですよ。だから私が描く絵の構図は、どうしても似たようなものになっちゃうんですけどね」


 後輩が軽く相槌を打つと、商人が店の裏から幾つかの風景画を持ってきた。


 たしかに彼の言う通り、どれも斜め上から日の光が射している。

 そう見える景色を探した結果なのか、すべてが下から斜め上を見上げるような構図になっている。


 その内の一枚を見た後輩が、「あ、うちの実家の近くにも、これに似た見た目の場所がありますよ。僕の子どもの頃のお気に入りの遊び場で――」などと、商人の絵に感じる親しみと共感を語り始める。



 二人のその空気感に、置いてきぼりにされたような気持ちになる。



 だって僕は生まれてこの方、こんなにも美しい景色を見たと思った事がない。


 彼だけが特別なのか、その場所が特別なのか。

 そう思っていた僕は、後輩が示す共感に「自分だけ違う」という事を突きつけられて、「何故僕にはそう見えないのか」と少しの寂しさと羨望を覚えた。

 

「まるで目が眩むようだ」


 口から漏れた一言に、後輩が「えぇ?」と声を上げる。


「たしかに自分もいい絵だと思いますけど、ちょっと大げさすぎません?」


 書き手の商人がいる前で使う言葉にしては、かなり不躾な物言いだった。

 それでも何とも思っていなさそうな商人を見るに、彼自身も似たような認識なのだろう。


「目が眩むって……。あっ! もしかしてそれ、疲れ目とかじゃあないですか? ほら、アルバンさんずっと働き詰めだし」

「疲れ目」


 思わぬ言葉を返されて、思わず最も衝撃的だった部分をオウム返しにしてしまう。

 対する商人は、後輩の話を聞いて、何故か納得の表情になった。


「たしかに『忙しい』という字は、『心を亡くす』と書きますからね。忙しくし過ぎると、周りに目が向かなくなったり、何かに感銘を受ける感性が陰るという話は、よく聞きます」

「『心を亡くす』……」


 基本的に、ずっといつもと変わらぬ日々を過ごしてきた。

 忙しくしているつもりは、それ程なかったのだが。


「商人なんていう仕事をしていると、色々な場所に行き色々な人に会いますからね。『自分でも気付かずに忙しくして、心の余裕を失っていた人が、店頭に並ぶ見事な商品を見て目が覚めるような思いをする』なんていう方にも、意外と出会います」


 それじゃあないでしょうか、と彼は言う。


 そんな商人の憶測に、後輩は嬉しそうに乗った。


「じゃあもう絶対に、それですよ! アルバンさん、見た目には全然疲れとか見えない人ですけど、これまで無自覚に無理を重ねてきたのかも! だからね、アルバンさん! たまには休日を取ったりした方がいいですよ!!」

「……そうだな。ちょっと考えてみる」


 僕の返答に、後輩は嬉しそうに、どこか少しホッとしたように頷いた。



 おそらくこの時後輩は、小休止を勧めてくれたのだと思う。


 しかしこの時に生まれた、ある種の美しい景色への羨望と渇望は、一晩寝ても、二晩寝ても、一週間寝ても、消える事はなかった。



 あの日商人に売ってもらったあの絵を毎朝、毎晩見ていれば飽きるかとも思ったが、まったくそんな事はなかった。


 むしろ気持ちは募るばかりで。



 この目で、まだ見ぬ美しい景色を見たい。

 見たものを、僕の目に見えた状態そのままで残したい。

 それをたまに見て、その時の事を鮮明に思い出したい。


 僕に芽生えた望みは、それだった。



 幸いにも、そういう場所を探しに行ったとて、金に困る事はないと思った。

 これまで真面目に王城勤務をしてきた僕には、毎月それなりの額の給金が振り込まれていたし、忙しくて金を使う時間もなければ、物欲も殆どありはしなかったから。


 仕事についても、問題ない。

 城内に文官はたくさんいるし、執行執務室にだってジェイリがいる。


 後輩たちも、ちゃんと育った。

 最初こそ僕の抜けた穴に戸惑う事もあるかもしれないが、ジェイリがうまく纏めてくれるだろう。


 あの男はプライドこそ高いが、仕事もできるし有能だ。

 少々口は悪いものの、決して悪い奴ではない。

 未来の宰相候補として、宰相様直下の執行執務室の一本柱として、問題なくやっていけるだろう。

 むしろうっすらと僕派とジェイリ派という対立軸ができてしまっている今より、余程平和かつ円滑に仕事を進めていけるかもしれない。



 問題があるとすれば、僕には芸術の才能が皆無だという事だった。


 一応筆を手に取って見たのだが、その結果できた独創的過ぎる謎の物体が描かれた一枚が、部屋の隅に鎮座している始末である。



 しかし今、人生の折り返し地点。

 ある種の節目。

 僕のこの壊滅的な画力を補う方法が、一つある。



「おいアルバン、どのスキルを取得するのか、いい加減決めたのかよ」


 運命を決めたあの出会いから、一週間後。

 アルバンが一足早く三十五歳の節目を迎え、予定通りにスキルを習得した日の翌日。


 執務執行室の最奥の扉、宰相様の執務部屋から話を終えて退出してきた僕に、ジェイリがそう問いかけてきた。


 僕は「うん」と頷き返す。

 

「僕、『絵描きドローイング』スキルを取る事にした。で、仕事を辞めてあちこち旅をしてくる。今宰相様にもそう報告してきた」

「はぁっ?!」


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