『メモリー・オブ・ファースト・プレイ』

みなと劉

第1話


『メモリー・オブ・ファースト・プレイ』


部屋の片隅、埃をかぶった初代ファミコンのカセットを手に取りながら、彼は静かに語り始めた。


「覚えてるかい?最初にゲームというものに触れたあの日のことを」


画面に映ったのは、たった数ドットで描かれたヒゲの配管工が、緑の土管から飛び出すシーンだった。ジャンプするたびに響くピコッという音。彼の心臓もまた、その音に合わせて跳ねていた。


「マリオがジャンプする。それだけなのに、なぜか世界が広がって見えた。僕にとって、あれは…現実を越える扉だった」


物語の語り手である「僕」は、東京大学のゲーム文化史研究室に所属する大学院生。彼の研究テーマは「インタラクティブメディアとしてのビデオゲームの文化的変遷」。けれども、どれほど専門的な言葉を並べようとも、結局のところ彼の原点は、あの1985年のジャンプ音だった。


「例えば、1997年の『ファイナルファンタジーVII』。ミッドガルの工業的な冷たさと、クラウドの葛藤――あのシーンを見て、人は『ゲームも物語になれる』と気づいたんだ。これは、文学がそうであるように、時代を映す鏡でもある」


彼は言葉を止め、ゆっくりとモニターをつけた。そこには、ピクセルで描かれた世界が、今も変わらぬ姿で待っていた。


「どんなに進化しても、ゲームは“遊び”の枠を越えない。でもその“遊び”の中にこそ、人間の本質が宿っていると、僕は信じているんだ」


「ゲームの歴史を語るとき、忘れてはいけない名前がある。ノーラン・ブッシュネル。1972年、彼が創業したアタリ社こそ、ゲームという文化の礎を築いた存在だ」


彼はPCのフォルダを開きながら、スライドをいくつか表示した。そこには、どこか頼りない白黒の画面に、単純な線と点が躍るゲームの映像が映っていた。


「これは『ポン』。ただ左右に動かすパドルでボールを打ち返すだけのゲーム。けれどこのゲームが、無数の少年少女を、そして未来のクリエイターたちを魅了した。僕もその“波”の一部だったんだ」


彼の目が細められる。過去の光景が、そのまま瞳に映っているようだった。


「1980年代に入ると、ゲームは一気に家庭の中へと入り込む。ファミコン、アメリカではNES。『スーパーマリオブラザーズ』『ゼルダの伝説』『ドンキーコング』。すべてが、“初めて”だった。世界を冒険し、謎を解き、敵を倒す——それらの行為が、僕らにとって“人生”の一部になった」


彼はふと笑った。


「子どもたちにとって、マリオやリンクは“英雄”だったんだ。でも、彼らは完璧な存在じゃない。ただの配管工や無口な少年。でも、それがよかった。手のひらにあるコントローラーを握れば、誰だって英雄になれたから」


スクリーンが切り替わる。今度は16ビットの色鮮やかな画面。『クロノ・トリガー』『ファイナルファンタジーVI』『ロックマンX』。


「1990年代。ここはまさに“黄金時代”だった。技術の限界と戦いながら、制作者たちは物語を、音楽を、そして“感情”をゲームに織り込んでいった。ゲームが“商品”から“芸術”へと変わっていく過程だったと思う」


彼はポーズを取り、一度言葉を止める。


「でもね、僕が本当に忘れられないのは、ゲームの内容そのものじゃない。放課後の友達の家、カセットをふーっと吹いて差し込んだ瞬間。兄と交代しながら挑戦したラスボス戦。負けて悔しがって、また笑って……あれは“記憶”なんだよ。人生の一部であり、僕たちの“青春”だったんだ」


「ゲームの歴史を語るなら、その“はじまりの地”を忘れてはならない」


彼はそう言いながら、ホワイトボードに3つの名前を記した。


「Atari」「Activision」「Sierra On-Line」


「アメリカという大地は、デジタルの荒野だった。だが、そこに夢を持った創造者たちがいた。最初の革命児は、1972年の“アタリ”だった」


彼はプロジェクターに、粗いモノクロ映像を映した。そこには、木目調の筐体と、ひとつのつまみだけで遊ぶゲームがあった。


「『ポン』——アーケードゲームの原点。ノーラン・ブッシュネルとテッド・ダブニーが設立したアタリは、世界で初めて、“ビデオゲームで金が稼げる”という事実を作り出した」


彼の声はやや熱を帯びていた。


「1970年代後半には家庭用ゲーム機『Atari 2600』が登場する。カートリッジ式のゲーム、テレビに映る画面、それらが家庭に革命を起こした。が……80年代初頭には、業界がひとつの崩壊を迎える」


彼は静かに言った。


「“ビデオゲームクラッシュ”——1983年。粗製乱造、流通の飽和、市場の信用失墜。アタリの『E.T.』が売れず、在庫が砂漠に埋められたという伝説すら残るほどだ。アメリカのゲーム市場は、一時死にかけた」


そこに、もう一つの名前が浮かぶ。


「でも、アメリカの創造者たちは諦めなかった。Activisionは、アタリから独立した開発者たちが集まり、世界初の“サードパーティ”としてゲームを作った。『Pitfall!』や『River Raid』は、限られた技術の中で、ゲームがいかに“冒険”たりえるかを証明してみせた」


彼の指がもう一つの会社名を指す。


「そしてSierra On-Line。1980年にケンとロバータ・ウィリアムズが設立し、『King’s Quest』を生み出す。“テキストアドベンチャー”から“グラフィックアドベンチャー”へ。ゲームが“読むもの”から“見るもの”へと変わる、転換点だった」


彼は目を細めて、静かに言葉を続けた。


「アメリカの開発者たちは、ゲームを遊びだけではなく、物語を伝える手段として進化させていった。1980年代から1990年代にかけて、彼らは次々と新たな世界を生み出し、そして次の世代——『DOOM』のid Software、『Warcraft』のBlizzard、『SimCity』のMaxis——へと、その炎を繋いでいった」


彼はマウスをクリックし、次のスライドへ進む。


「技術は未熟でも、想像力は無限だった。そしてその無限の可能性に、僕たちは魅せられ続けてきた。だからこそ……ゲームは歴史であり、芸術であり、文化なんだ」




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『メモリー・オブ・ファースト・プレイ』 みなと劉 @minatoryu

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