鍵士、未来を開く

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第1話  鍵士、未来を開く

最悪だ。新しい参考書を買いに本屋に来たら腹痛を催して…トイレから出たらこんな事になっているなんて。


『繰り返します。商業区南ゲートより、魔獣の群れが侵入いたしました。市民の皆様はお近くのシェルターに避難してください。繰り返します―――』

周囲のあらゆる媒体から発せられる緊急の放送。そのすべてが、一般市民に命の危機を知らせていた。入ったトイレのスピーカーが壊れており、携帯も圏外だったため、残念ながら智尋ちひろには届かなかったのだが。

シェルターに向かって全速力で走りながら、智尋はなぜこうなったかに思いを馳せていた。いわゆる現実逃避である。


遥か大昔に起こったとされる、二柱の神々による大戦。智慧の女神と力の神はこの星に生じて以来、星の覇権を巡り争い続けた。双方が永き眠りにつくまで。

大戦の名を「慧力大戦けいりきたいせん」、この星の創世神話にもなっているである。


大戦の折、智慧の女神はその手駒として眷属たる人間を創り出した。新たな叡智、技術を生み出し、力の神を倒すことこそ人間の命題であった。

対し、力の神は眷属として「魔獣まじゅう」を生み出した。同族どうしで常に争い、力の強い者が生き残って敵である人間と智慧の女神を滅ぼす。そのように創られた。


そしてその2種族の戦いは、現代でも続いていた。

競争や共食いを経て力をつけた魔獣は、時折群れを成して人間を襲いに来る。その度に新たな進化を遂げている魔獣に対し、人間は後手に回らざるを得ない状況だった。

そんな人間に対し、智慧の女神から与えられた慈悲。非力な人間が魔獣に対峙するための武器。それこそが「鍵」。

かく言う智尋も、鍵を扱う「鍵士」認定試験対策の参考書を探していたのだが———


と、そこで思考は現実に引き戻される。あと数十メートル先の角を曲がれば、シェルターの入口が見えるところまで来た。ここからは慎重にならねばと、目の前の事に集中する。

小走りに、かつ音を消して進む智尋。曲がり角で立ち止まり、周囲を確認してから曲がった先の様子をスマートフォンのカメラで確認する。

撮影した写真によると、曲がった先にはシェルターの入口とその前で誘導する人が数名、そこに駆け込んでいく民間人が何名かいるようだ。

それならば安心だと、智尋も角を曲がって走り出す。

こちらに気付き、急げと言わんばかりに大きく手を振る誘導員。それを合図とするように智尋は本格的に走り出した……と同時であった。轟音が目の前の壁を突き破り、巨躯が飛び出してきたのは。


一瞬、その場の時が止まったようであった。真白の甲殻に身体を覆われた四足歩行。鋭く尖った逆三角の頭に、鋭い牙だらけの口。目や鼻のような器官は見当たらないも、確実に獲物を認識しているその殺気。全体的に流線形な身体と器用に動く尖った長い尻尾。一つ一つが目に焼き付いて、嫌という程死の感覚を智尋に伝えていた。

智尋とシェルターの間に、魔獣が一体現れたのだ。幸か不幸か、シェルター側を向いた状態で。


それらを智尋が認識すると同時、時間は動き出したように感じた。後はどう行動するかだ。

誘導員は無理矢理に避難民をシェルターへ詰め込み始める。獲物の数が多いシェルター側へ魔獣がやって来ると踏んでの行動だろう。実際、魔獣の基本的な行動パターンを考えればそれは正しい。


……しかし、魔獣にはさらに優先される行動がある。

「こっちだ、間抜け!」

智尋が渾身の力で放り投げたそこらの瓦礫が、魔獣の頭に当たる。魔獣の最優先行動。それは敵対行動を取った人間への攻撃。

脅威への対処というより、軟弱な下等生物に侮られたことによる怒り。それが要因だろうと考えられる攻撃だ。どの参考書にだって書いてある。



智尋が鍵士になりたいのは、英雄的行為への憧れでも、幼い頃交わした約束のようなロマンチックな理由でもない。

数年に一度の襲撃を凌げば、後は訓練をしているだけで大金が舞い込んでくるからだ。数年に一度人類を救うために働いているという信用から、ローンの審査もクレジットカードの審査も通り放題。異性にもモテるし、親も周りに自慢する。そんな職業だからだ。


……だから、大勢を助けるために今ここで死んでは元も子もない。智慧の女神から与えられた人間的機能である理性では、そう分かっている。

だが、気付いたら智尋は瓦礫を投げていた。そうすべきだとか、すべきでないとか、そういう事ではなく。そして自分でも情けないことに、瓦礫を投げる判断をするより速く、逃げる判断をし駆け出していた。


元来た道を引き返し、全速力で駆ける智尋。幸いにも魔獣は後を追いかけて来ていた。後悔しながら瓦礫を投げつけて、それでもなおシェルターの人々を助けられなかったのでは格好がつかない。智尋は目の端に玉となる水滴を無視しながら、がむしゃらに走った。

「クソ、クソ、クソ……!」

魔獣は智尋を弄ぶように、つかず離れずの速さで追いかけてくる。侮られていることに少しも憤りを感じず、寧ろありがたさすら感じながら智尋は四肢が弾け飛ばんばかりに走った。


だが、こういう時こそ今まで勉強してきた鍵士の知識を活かすときだと、智尋は走りながら考えをまとめようとする。

強化ガラスやモルタルの壁は容易に破壊する膂力を持った巨躯。半端な強度の壁に隠れれば、逆に命取りになりかねない。こういう時、真っ先に探すべきと参考書に書かれていたのは———


「あった、防火扉……!」

原則、魔獣が来た際は閉めることとされている防火扉。その強度はかなり高く、次の手を考える時間稼ぎくらいにはなってくれるだろう。

防火扉に向けスパートをかけた智尋に気付いたか、魔獣が速度を上げる。廊下を遮る大きな防火扉についた、人が通るための小さな扉。智尋はそこに突進する形で扉の向こう側に行き、急いで扉を閉める。

……間一髪間に合った。小さな扉を魔獣が外から殴りつける音が聞こえる。智尋は恐怖を押さえつけるかのように、手のひらが痛くなるほど扉を押さえていた。


「……やっと、行ったか?」

汗でぐっしょりと濡れた真っ赤な手を服で擦りながら、智尋は状況を確認しようとようやく振り返る。

だが、背後に待っていたのは絶望と諦観だった。ほんの数メートル先には壁。防火扉と壁に囲まれたこの廊下には、消火器と服屋しかない。

要するには、魔獣が防火扉を突破してこようとも、対抗は愚か逃げることも出来ないのだ。

「…………クソっ…どういう造りだよこのショッピングモール……!」

悪態をつきながら、智尋は自身の起こした行動に再度驚いていた。人々を守るために自らを犠牲にしたのだ、自分は。

智尋自身、自分はもっと冷徹で、効率重視で、省エネルギーな生き方を好む人間だと思っていた。まさかこのような一面があったとは。

死の間際に、少し自分のことが好きになれたことだけが僥倖だったと言っていい。


智尋が絶望しているのは、魔獣に殺されるからでは無い。いや、もちろんそれも文字通り死ぬほど嫌なのだが。

この状況に陥った鍵士ないしその志望生は、自死を選択しなければならない。その事が嫌だった。


魔獣は共食いにより強くなることは前述の通りだが、それは同胞を糧として成長するという意味では無い。食することで相手の「情報」を奪うのだ。

食された魔獣の特性を含む遺伝情報、敵性生物との戦い方などの記憶や知識、無意識までをも継承する。だからこそ、魔獣は共食いによってより強くなっていくのだ。


……こんな話がある。かつて、数十年もの間難攻不落とされた要塞があった。しかし、その要塞の弱点まで知り尽くした建築士が魔獣に食われた結果、その要塞がものの数日で陥落したのだ。

ゆえに、鍵士としての戦い方を少しでも知る者は、魔獣に食われてはならない。死体からは得られる情報量が格段に落ちるとの研究結果から、鍵士及び鍵士候補生は魔獣に食われる前の自死が推奨されている。

……まあ、それを抜きにしても生きたまま食われるなどまっぴらごめんだが。


「……道具があるだけいいか。」

智尋は服屋を見て自嘲気味に笑う。紐やベルトならいくらでもあるだろうし、ちょうど天井に梁のような装飾がある。首を吊るにはうってつけだろう。

智尋とて、自死を選ぶのは嫌だ。大袈裟に、軽い風に振舞っていないと今にも泣きながら駄々をこねそうであった。


鼻歌を歌いながら、台に乗って頑丈そうなベルトを梁に括りつけていく。遠くからは何か大きなものが防火扉に激突する音が聞こえる。リズミカルなその衝突の音で拍をとりながら、曲が盛り上がったところで準備が完了した。

「こういうのは、勢いが大事だよな!」

あれこれと余計なことを考えてしまう前に用意した台に上り、ベルトの下端、輪っかの部分を首にかけた。

死ぬのは嫌だが、自分のせいで人間という種族を更なる窮地に追い込むのはもっと嫌だ。それに死体を見られれば、遺失物から智尋が食われたと一目瞭然だ。残った家族は恥さらしの戦犯の家族だと責められるだろう。


ベルトを握る手に力が入る。余計なことを考えてしまった。家族の顔が思い浮かぶ。いざ死が目の前に迫るまで思ってもみなかったが、ことのほか智尋は家族が好きだったらしい。

目頭に熱いものを、頬に冷たさを感じる。ああ、死にたくない。


と、その時。防火扉が轟音と共に破られるのを視界の端で確認した。その音に驚いた智尋は、心の準備も決まらぬうちに乗っていた台を蹴飛ばしてしまった。

息苦しさと共に視界が暗転していく。首元のベルトを強く握り締めながら、激しくもがく。

突入してきた魔獣は、やはりと言うべきか先ほど智尋を追ってきた個体。ジタバタ動く智尋に気付き、ゆっくりと近づいてくる。吊り上がった口角は、あたかも智尋を嘲笑っているかのようだった。


智尋は悔しさと苦しさでより一層激しくもがく。すると、不幸にも梁がベルトを結んでいた部分から折れ、智尋は落下し臀部を地面に強打した。所詮は装飾、梁と言えどそこまで頑丈には作られていなかったのだ。


目前に迫る魔獣。智尋を照らしていた煌々とした商業区の照明が、魔獣の影で真黒に染まる。息づかいまで感じる距離。あまりの恐怖と首が絞まった事により、智尋は無意識のうちに失禁していた。本屋で催した腹痛のおかげで脱糞は免れたのがせめてもの救いか。

死のうとするも死ねず、魔獣の前で失禁するしかない。情けないやら恐ろしいやらで、智尋は声もあげず号泣していた。


だが、救いは唐突に訪れる。

「伏せろ!」

聞き覚えのない男の声が、破られた防火扉の方から聞こえる。辛うじて残っていたなけなしの理性で無理矢理に体を捩り、声の通り伏せる。

魔獣も声の方に振り返ったようで、智尋の頭上に光が差す。刹那、たった今光明が差したばかりの頭上から、大量の血が降り注ぐ。身体を魔獣の血でべっとりと濡らしながら、声の方を見やる。

そこには、ビジネス用のものより一回り大きなアタッシュケースのようなものを持つ男性の姿があった。アタッシュケースの側面には目のようなモノが一つついている。そして開いたアタッシュケースの中からは、成人男性の太腿ほどの銃身が顔をのぞかせる。

よく見れば、その男性は先ほどの誘導員であった。

世間知らずや赤子ならいざ知らず、この世界の人間であれば見覚えのあるその異様。そう、あのアタッシュケースのようなものこそが「鍵」であり、それを操るあの男性のような仕事こそが「鍵士」なのだ。


男性は急いでこちらに近付いてくると、嫌がる素振りもなくこちらに手を差し伸べる。

「すまない、対応が遅れてしまって…!よく生きていてくれた!」

鍵士の男の声を聞き、智尋は安堵から再び零れそうになる涙をグッと堪え、手を取り立ち上がる。血まみれになったおかげで失禁はバレずに済みそうだ。

男性は周りをざっと見渡す。

「自死用の痕跡……?

…君、鍵士志望か!民間人を守るために1人囮になるその姿勢、まさに鍵士に相応しいよ。」

無事に帰ったら強く推薦しておくからな、と言いながら男性は血反吐を吐く。



「え…?」

唐突の出来事に、智尋の頭はついにパニックを起こしていた。

笑顔で智尋に語りかける男性。その胸部を貫くは、鋭い尾。完全に息の根の止まっていない魔獣が、返しの一手として打ち込んだものだ。

通常、鍵による攻撃を受けた魔獣は否応なく絶命する。だというのに尾を動かせたということは……分析が済んでいなかったのだろう。

過去の類似魔獣用の武装を使い、ダメージを与えたに過ぎないということだ。

「……!」

男性は無理矢理に振り向き、鍵による砲撃を何度も放つ。みしみしと、骨の軋む音が聞こえる。無理矢理に振り向いた体は遂に砲撃の反動によってとどめを刺される。男性の胸部から上はそれ以下の胴体と別れを告げることとなったのだ。

いくつかの臓物のみで繋がる男性の上下を前に、智尋は本能的に嘔吐した。


吐いたからか、智尋の頭の中は妙にスッキリしていた。周辺の状況がよく目に入り、考えがまとまっていく。

とめどない砲撃を受けた魔獣は、いくら完全に適応した武装でなくとも大きなダメージを負ったようで、力無く倒れている。が、それももって数時間だろう。


だが幸いにも鍵がある。鍵士は死んでしまったが、多少は使い方に覚えがある。鍵士で無い者の鍵の使用は法律で固く禁じられているが……

……なに、今は非常時だ。万事上手く行きさえすれば、情状酌量の余地もあろう。何より、どんなに重い罰が下ったとて、生きたまま魔獣に食われるよりは幾分かマシなはずだ。

溢れ出るアドレナリンに任せ、いつもの数段上の速度で智尋は思考する。


「……」

そんな智尋の思考を、恩人の小さな呟きが止めた。恐らくは、彼の最期の言葉。救われた命として聞き届けねばならないと、智尋は口元に耳を近づけ一言一句聞き逃すまいと構えた。

「…サーバー……接続解除……セキュリティロック……」

その言葉が聞こえた途端、アタッシュケースは縮こまり、側面の目がゆっくりと閉じた。


全ての鍵は、今まで集積した魔獣のデータをクラウドからいつでも引き出せるようになっている。独自のネットワークを鍵同士で築いており、これは後から人間が付け足した機能だ。

また、鍵の能力が魔獣に奪われることを恐れ、いつ食われてもいいようにセキュリティロック———鍵の機能を制限する機能も付け足した。

そして、クラウドサーバーへの接続やその解除、鍵のセキュリティのロックやその解除は、個々の鍵に紐づけられた鍵士にしか行えない。

つまり、今この鍵は智慧の女神から受渡されたままの状態。いや、それ以上に扱いづらい代物になってしまったのだ。


「クソ!何してくれてるんだよアンタ!」

激昂するも、怒りの矛先は既に事切れていた。揺さぶっても反応は無く、ただぴちゃぴちゃと血液が音を立てる。

再びの吐き気が智尋を襲ったが、怒りとともに飲み込んだ。

……ここは冷静に、この後どうするかを考えなくては。依然最悪な状況だが、先程までよりは少しマシだ。



さて、鍵とは唯一にして最強の対魔獣兵器である。このアタッシュケースの目に対象の魔獣の行動や特性を観察させ、蓋を開き体組織を食わせ、分析させる。すると、鍵が対象の魔獣特効の武器を生み出すのだ。

生半可な攻撃では、魔獣に備わる回復力でダメージを無効化されてしまう。一撃で仕留められる武器でなければ、数に押し切られてしまう。

鍵が生み出すのは、それらを解決する必殺の一撃。魔獣との戦いにおいて、これよりも頼れるものはないのだ。


セキュリティロックによる機能の制限はクラウドからの切断だけでなく、この魔獣の体組織を食わせることで武器を造る機能の制限である。ただでさえ強力な魔獣に、相手を捕食することで適切な武器を生み出す能力を与えてはならないと、近年開発された。

魔獣の行動については、相手の反応を様々なシチュエーションで観察させる必要があり、そこまでの脅威と見なされなかった。

……まぁ、そんなことは今はどうでも良く。要するに、身動きの取れぬ魔獣という格好の獲物が居るにもかかわらず、鍵に食わせてやることが出来ないということだ。決死の攻撃によって、攻撃の源である頭部や手足、尾が破壊されているというのに。


……仕方ない、とにもかくにもまずは鍵に触れてみよう。智慧の女神がどこまでユーザビリティに気を遣ったかは分からないが、案外なんとかなるかもしれない。それに、様々な機能と共に鍵にはAIも付け加えられている。話せばわかる、はずだ。

内心ではそんな楽観視できる状況じゃないだろうとも思う智尋だったが、一度死ぬ覚悟をしたことで妙に肝が座っているのも事実だった。

とは言っても、ここで鍵を握れば生きて帰っても犯罪者。さしもの智尋も、少し呼吸を置いてから意を決して鍵の持ち手を持つ。


『未登録のユーザーを確認。現在セキュリティロック中です。』

どういう仕組みになっているかは不明だが、とりあえず智尋が鍵に触れたことは認識されたらしい。教本の内容を思い出しながら、智尋は鍵に話しかける。

「新規ユーザー登録。セーフティモードで起動。」


『申請を承認。ようこそ、ユーザー1528。キーナンバー9、セーフティモードで起動します。』

機能が制限された状態であれば、登録されたユーザーでなくとも使用可能。使い勝手は大幅に悪くなるが、これで生き残れる目も見えてきた。

再び開いた鍵の目と視線を交わす。余りに大きなその瞳に、智尋はなんだか恐ろしさを感じて目をそらす。


「……ナンバー9、そこで倒れている魔物用の武器を造って欲しいんだけど。」

この後の指示は教本に無かったため、あとは完全にアドリブである。たが鍵に搭載されたAIは最新式。一般に出回っているものより高性能とされ、適当な指示でもなんとかなると、以前鍵士がインタビューで語っていた。

『セーフティモードのため、捕食機能の使用不可。スタンダードプロトコルを開始します。』


スタンダードプロトコル。要するに、様々な行動に対する対象の反応を観察し、分析を行うプロセスのことだ。

大きな目が、魔物を捉える。

『対象の魔物が行動不能状態であることを確認。……ユーザー1528、こちらの液体を対象に添加してください。』

そう言うと、ナンバー9は大きく口を開く。すると、中には10種を超える様々な容器があった。そして、全ての容器には液体が入っている。

『危険物もございますため、ご自分では中身を触れないことを推奨します。』


強酸性の薬品に、強塩基性の薬品。アルコールに金属。いずれも人間に直接かければタダでは済まない高濃度。

ナンバー9の指示に従い、白い魔獣の硬い表皮に液体を吹きかけていく。


一通り薬品をかけ終えたが、魔獣の表皮には傷一つついていない。

……まさか、こんなことをいつまで続けさせられるのかと、智尋は焦る。

だが、ナンバー9はもちろん焦った様子もなく、淡々と言葉を並べる。

『表皮に対する常温の薬品による効果、認められず。続いて温度の検証に移ります。』


再びナンバー9は大きな口を開け、中からバーナーを出す。

『薬品添加部位を避け、こちらのバーナーで対象を加熱してください。』

バーナーが見えた瞬間智尋はすかさずそれを手に取り、魔獣に向けて放った。

『表面温度、摂氏60…70…80』

魔獣表皮の表面温度が上昇し続ける。その数字が1000を超えたあたりで、ナンバー9はカウントを止めた。

『1000℃まで効果なし。続いてはこちらをご利用ください。』


ナンバー9が口を開けるまでに、少し時間がかかる。ちらと魔獣を見やると、細かな傷が塞がり始めていた。一度は覚悟を決めた智尋だったが、遅々として進まぬ分析に冷や汗が止まらない。

このまま分析が進まなければ、ただ延命しただけだ。何が何でも目の前の魔獣の命を奪ってやる。智尋の頭の中にはそれだけだった。


カチャリと、ナンバー9が開く音がする。中から出てきたのは容器に入った金属の粉末。智尋が首を傾げているとナンバー9が言葉を紡ぐ。

『容器を対象に乗せ、10m以上離れてください。周りから可燃物を除去してください』

そんなことをしている暇があるか、と智尋は言いたくなったが、鍵の言うことは絶対だ。

守らないと危険なこともあると、こちらもどの参考書にも書いてある。


不幸にもここは服屋。片付けるうちにも魔獣がどんどん回復しているのがわかったが、余計なことを考えぬよう智尋はひたすらに服を退かした。

結局10分ほどかかって10m以内から可燃物を退け、ようやく智尋は容器を魔獣の上に置いた。

「頼むぞナンバー9……!」


智尋が退くと同時、ナンバー9はカウントを開始した。

『点火まで、3、2、1、点火。』

カウントダウンが終わると共に、容器から眩い光が発せられた。突然のことに智尋は少し声をあげて目を背ける。

容器からは激しい火柱が立っていた。回復に専念し微動だにしていなかった魔獣も、苦悶からか呻き声のようなものを上げる。


『表皮の表面温度、2000……3000℃を突破。反応終了まで3、2、1、反応終了。』

ナンバー9の声と共に火柱が治まる。

黒色の粉末に点火、目が焼き切れるほどの火柱。間違いない、テルミット反応だ。

「ナンバー9、せめて事前に何をするのか教えてくれ……」

智尋が不真面目な人間であれば、指示の遂行をそこそこに準備の完了を告げていたかもしれない。魔獣に食われるのも御免だが、焼け死ぬのも嫌だ。


『……対象の様子を確認するため、近づいてください。』

無視された。指示通りにしていれば問題ないとでも言うのか。実際そうなのだろうが……

釈然としない思いを抱えながら、智尋はナンバー9を持ち魔獣に近づいていく。

「……お、穴が空いてる……」


テルミット反応を起こした周辺の表皮が溶け、肉が露出していた。どうやら耐薬性がかなり高くとも、3000℃の高熱には耐えられないらしい。

『表皮の溶融を確認。構造と耐薬、耐熱性から表皮の組成をジルコニアと推定。

続いて、対象の表面温度に空いた穴から、もう一度薬品を添加してください。』

セラミックの一種、ジルコニア。人間に創造可能な物質と知ったことで、急に魔獣が身近に感じられた。

さて、言われるがまま先程と同じように薬品を吹きかけた時だった。露出した肉は嫌な臭いを発しながら溶解する。

『タンパク質の急激な変性を確認。……分析完了。これより武装の作成に取り掛かります。』


少しの間の後ようやく聞こえたナンバー9の言葉は、まさに福音であった。これでようやく綱渡りをしている気分から逃れられる。

トイレの個室に座った時以来、久しぶりに一息つく。恩人の死体に、今にも動き出すかも知れない魔獣。そんなものの傍で一息つくのもおかしな話だが。

『エラー。エラー。合成に必要な材料が足りません。タンパク源を供給してください。』


まったく、この鍵という代物は。過大評価されすぎなのではないか。次から次へと問題を押し付けてくる。

智尋は教本の内容を思い出す。鍵が武器を生成するには材料であるところのタンパク質が必要である。どういった理屈でタンパク質が金属粉や酸性溶液になるのかはわからないが、とにかくそうなのである。

そして、そのタンパク質をどのように供給しているかと言えば、分析時に食わせる魔獣の体組織である。

…要するに、魔獣を食べさせることのできない今のナンバー9に、タンパク源の供給は不可能なのである。


「…いや、本当に不可能か…?」

智尋は振り返り、横たわる骸を見やる。あれは、魔獣でもなく意思もないタンパク源なのではないか?

だが、倫理的にどうなのかと智尋は逡巡する。命の恩人を材料のタンパク質扱いとは。…いや、鍵を使用した時点で既に犯罪者か。

思い直した智尋はナンバー9に尋ねる。

「ナンバー9。人体は摂取可能か?その…死体なんだけど。」


『可能です。タンパク源であることに変わりはありませんので。』

一先ずは、よし。ついでに智尋はナンバー9に搭載されたAIの性能に期待して、追加の質問に挑戦する。

「ナンバー9。わかったらでいいんだけど、人間の死体を鍵に食わせて武器の材料にするのは…何か罪に問われたりする?」

なんて質問だ。命の危機になく、自らも死ぬ覚悟をせず、傍らに魔獣がいなければしなかった質問だろう。

だが悲しいかな、今はそのどれもある。

『死体損壊罪に問われます。三年以下の懲役に処されますが、今回の場合は情状酌量の余地もあるでしょう。』

良かった。どうやら鍵も少しは使用者を安心させる言葉を言えるらしい。

『鍵の無断使用により10年以下の懲役もありますが。』

前言撤回。ナンバー9には性格の悪いAIが組み込まれているようだ。無事に帰れたらAIをアップデートするように進言しよう。獄中からにはなるが。

「…わかった。それじゃあ、さっさとやろうか。」

罪悪感を感じる作業は、手早く終わらせるに限る。


数分間、ナンバー9がバリバリと死体を食べる音を聞いていた。これはしばらく夢に出そうである。

幸いだったのは、こちらが手伝わずとも自主的に死体を口に運んでくれたことか。

少しずつちぎって口に入れろなどと言い出した日には、さすがにできなかったかもしれない。

『タンパク源補給完了。これより武装の作製を行います。5分から10分程度お待ちください。』

ナンバー9のその言葉を聞き、智尋は今度こそと大きく息を吐く。


一息ついたことで、思い出す。この区画に入ってから既に1時間弱が経過しようとしているが、外はどうなっているのか。

智尋はポケットから携帯を取り出し、現在のこの地域のニュースを確認する。

ネットワークが混雑しているのか、つながるまでにかなり時間がかかった。

…どうやら、苦戦しているようだ。今回の魔獣は群れで強いタイプ。本来であれば複数体の連携によって、分析どころではない。

恐らくは斥候として送り出された個体を、偶然が重なって上手く気づかれにくいこの区画に誘い込めたに過ぎない。

惜しむらくは、ナンバー9がクラウドから切断されていることか。データが共有できれば、今ナンバー9が作っている武器を他の鍵士も使えたというのに。

「言ってもしょうがない、か…」

言いながら、ポケットに携帯を戻す。

実に短期間であったが、いくつもの大きな選択を行ったのだ。日々をのうのうと生きていただけの青年に過ぎなかった智尋は、もはや歴戦の猛者かと見まごうほどの落ち着きようであった。


その時、ヴーッという何かバイブレーションのような低い音が聞こえる。着信かと思い、今しがたしまったばかりの携帯を再び手に取る。

特に携帯に異常はなし。そういえば、家族は無事だろうか。事態が落ち着いたら連絡を取ろう。

だが、今は何よりこの音だ。何が起きるかわからないこの状況では、少しの異常も見逃さない方がいいだろう。

「ナンバー9、この音は君か?」

段々と音は大きくなり、腹に響く重低音と化してきていた。

『いいえ。武器製造過程はほぼ無音です。』

その言葉を聞いて、本日はもう出し切ったと思っていた冷や汗が、再び滝のように流れ出る。急いで魔獣の頭部を見る。

あれほどまでにズタボロになっていた頭部だが、既に80%程度が回復していた。特に念入りに潰されていた喉———声帯の部分が治っている。

「————!!」

その事実に気付いたのと同時、魔獣は甲高い大きな鳴き声をあげる。


魔獣は同種の群れであっても、固体や役割によって異なる特徴を持つ。今目の前にいるのは恐らく動きの素早い斥候型。主な役割は、敵地を駆け巡り情報を集めてくること。そして、非常事態の際には特殊な鳴き声で仲間を呼ぶ。

そして恐らく、先ほどの鳴き声がその特殊な鳴き声だ。数分もしないうちに周囲の魔獣が集まってくる。

早く動かなければ。


『武器作製完了。使用可能です。』

声が聞こえるが早いか、足をもつれさせながらナンバー9に駆け寄る。

「武器展開!対象に向かって使用!」

『了解、武器展開します。』


言葉と共に、ナンバー9は口を開く。そして中から成人男性の太腿ほどの太さ、1メートル程度の銃身が姿を現す。

口径は大きく、中を覗くと拳ほどの大きさの何かが入っている。おそらくこれを魔獣に向かって射出するのだろう。

「使い方は?」

ナンバー9を持ち上げながら銃口を魔獣に向け、智尋は尋ねる。引き金のようなものは見当たらない。

『角度よし、風向きよし。爆風範囲外。射出します。』

ナンバー9は返答として、弾を射出した。こいつのAIは特に性格が悪いのかもしれない。

『対象に照準を合わせていただければ、後はこちらで実行します。ユーザー1528、貴方は私の移動だけお願いします。』

「はいはい…」


ナンバー9に対し適当に返しながら、智尋は魔獣の様子を確認する。射出物が体に刺さった後、何か高い音がしたと思ったら今度は苦しみ始めた。ここまで実に2秒。

今や鳴き声も止まり、ついには魔獣は動かなくなった。

「…ナンバー9、これはどういう武器なんだ?」

少し恐ろしくなり、防火扉から外の様子を確認しつつ智尋は尋ねる。

『テルミット反応で体表のジルコニアを融解させ、熱濃硫酸で体内のタンパク質を変質。内部に搭載されたドリルが体内を掘り進み、臓器を傷つけながら脳心を破壊します。』

脳心。俗にそう言われる魔獣の臓器は、人間の脳と心臓が一つになったような部位。魔獣唯一の弱点である。

弱点を責める方法が見つかったら徹底的に。これが鍵の恐ろしさであり、それを可能とするのが女神の智慧である。

遂に手にした実感のある優位性。油断をしないように智尋は気を引き締める。

「…よし。」


周囲に魔獣がいないことを確認した智尋は、廊下に躍り出る。

『鍵には周囲50mのスキャン機能が搭載されています。使用してから廊下に出た方が安全であったと提案します。』

もはや相手をする気にもならないが、命に関わるので一応釘を刺す。

「これから50m移動のたびに自動でスキャンを実行してくれ。ちなみに、今周囲に魔獣は?」

AIにイライラしていても生産性がない。智尋は落ち着いて大人の対応をすることを心がけようと決心した。

『了解、行動を設定。現在周囲50m以内に魔獣の反応はありません。』

よし、僥倖だ。牢獄へまっしぐらだが、ここから先ほどのシェルターまで逃げよう。



そう思い、慎重にゆっくりとシェルターまでやってきた。

道中魔獣はおらず、なんだか損した気持ちになったが、そんなことよりも。

シェルターは空で、誰もいなくなっていた。争った形跡や、死体が転がっていたりもしない。

このシェルターは放棄されたのだ。

「一体なんで…」

と、嫌な予感が思い当たり、急いで携帯を開く。

現在の状況を調べ、目立つ字で書かれた見出しを見てやっぱりかと肩を落とす。

【鍵士一名の生体反応消失。商業区放棄。避難民は居住区へ移動せよ。】



シェルターで水分を補給した智尋は、ナンバー9に話しかける。さすがに食事は摂れなかった。

「ナンバー9、さっきのやつはあと何発撃てる?」

少しの計算の間を空け、ナンバー9は答える。

『現在の資源量から射出できるのは、残り52発です。

一度の襲撃でやってくる魔獣の総数は回数に比例して増加しており、前回の3年前の襲撃では約500匹の魔獣が確認されました。』

多くの魔獣は本体や避難民が引き受けているはず。智尋が安全な場所に到着するまで、52発あればなんとかなるだろう。

「…頼むぞ、ナンバー9。無事に帰ろう。」

『人類の未来は貴方にかかっています、ユーザー1528。

貴方が失敗すると、人類は大きな不利を被ることになりますよ。』

全く、緊張をさせてくれないやつだ。

智尋はナンバー9をぽんぽんと優しく叩き、シェルターから出る。

今日は長かったが、これからもまだまだ長そうだ。だがナンバー9——鍵があれば、どうにか未来が開けそうな予感もするのであった。

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鍵士、未来を開く @azusacom

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