芸術と偏執の犯罪

森本 晃次

第1話 緊急事態体制

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和6年5月時点のものです。お話の中には、事実に基づいた事件について書いていることもあれば、政治的意見も述べていますが、どちらも、「皆さんの代弁」というつもりで書いております。今回の事件も、「どこかで聞いたような」ということを思われるかも知れませんが、あくまでもフィクションだということをご了承ください。


 H県には、仙人峡と呼ばれる、屋外レジャー施設があった。

 この場所は、県民の憩いの場になっているだけではなく、県外からも、数人のアウトドアが好きな人たちが集まってくる。中には、学校の遠足や、野外学習に利用する人も多く、最初はなかったが、キャンプ施設も造営されたのだった。

 この辺りは、おいしい水が豊富で、しかも、川が流れるあたりは、そんなに険しいところでもないことで、

「子供連れでも危なくはない」

 といわれ、逆に、そこから隣の登山口の方は、山肌を大きな岩がゴロゴロと転がっていて、

「まるで、秋吉台を思わせる」

 といわれたほどであった。

 秋吉台というのは、言わずとしれば、山口県の名所であるが、地下には鍾乳洞が広がっていて、日本で有数の鍾乳洞として有名なところである。

 仙人峡には、鍾乳洞もあるが、さすがに、秋芳洞ほどの規模であるわけもなく、逆にそれだけの規模の自然が残っているのであれば、

「キャンプ場」

 であったり。

「県民の憩いの場」

 ということなどできるわけはない。

 下手をすれば、

「県にとっては大切な資金源」

 ということで、県の税金を使ってでも、大々的な宣伝をしないといけないということになるであろう。

 それを思えば、

「これくらいの規模がちょうどいい」

 と思っている人も決して少なくはないだろう。

 確かにこの県には、そこまで国内有数と呼ばれるような観光地があるわけではない。

 だから、今から数十年前の昭和末期の、

「バブル期」

 といわれた時の、

「テーマパークブーム」

 に則って、今でいうゆるキャラのようなテーマパークができたのだが、結果は、他の県の類に漏れず、悲惨な状況になり、わずか5年ともたっずに、閉園という憂き目に甘んじることになったのだ。

 だから、それ以降は、その時の失敗を教訓に、

「無謀なことはしない」

 ということに徹していたのだ。

 実際に、その時の負債は、いまだに解消されていない。これは、H県に限ったことではないが、負債額的には、そもそも、予算自体が少なかったことで、そこまでひどくはなかった。

 しかし、それでも、

「県が、運命を賭けてとまで考えての事業だっただけに、そのショックは大きかったことだろう」

 考えてみれば、

「あのバブルの崩壊というものを、誰も見抜くことができなかった」

 というだけに、テーマパークの失敗というのは、当たり前のことだった。

 それなのに、当時の県政としては、

「他の県に負けてはならない」

 という、身分にそぐわないことを考えたのが、そもそもの間違いだったといえるだろう。

 そういう意味で、その後の県議会は、

「慎重派」

 と呼ばれる人たちが主流派を占めたことで、それ以後は、

「比較的安定した県政」

 というものを歩んでいたのだった。

 それを考えると、今のレクレーションであったり、アウトドア、インドアに限らず、趣味に勤しむ人たちが、活動しやすいという環境を作り上げていたのであった。

 特に、

「今の県政で何がいいのか?」

 というと、

「有識者のいうことには素直に従う」

 ということからだったのだ。

 それがハッキリと分かったのは、数年前に起こった、

「世界的なパンデミック」

 というものの影響によるものであった。

 最初は、

「世界の誰にも、その正体が分からない伝染病」

 ということで、

「第二次世界大戦以来の、世界的な有事と言われたものだ。

 実際に、日本を含めて、どこの国でも、その影響は深刻で、毎日のように、世界各国、そして国内の情報が、どのチャンネルをひねっても、その話題で持ち切りだった。

 さすがにここまでくれば、どんなに政治に興味のない人でも、政府の政策に注目するというもので、

「日本には有事はない」

 といわれた、ここ80年近くにおいて、

「平和ボケ」

 というものがどれほど、ひどい状況だったのかというとこが証明されたかのようだったのだ。

 だから、政府は国民やマスゴミに対して声明を発表する時、

「有識者の判断を仰ぎながら、政策を立案し、進めてまいります」

 という言葉を繰り返してきた。

「そんな言葉、聞き飽きたわ」

 というくらい、毎日のようにそういう声明を出しているくせに、政府に対する長目が高ければ高いほど、国民もさすがにバカではない、それを聴いて、

「何を言ってやがる」

 と、ほとんどの人が感じたことだろう。

 というのも、政府の毎日の声明に慣れてくると、

「なんだい? 有識者のいうことを聴くっていってるくせに、実際には、都合の悪いことはまったく意見を無視してるじゃないか?」

 ということであった、

 それを聴いた人は、以前であれば、

「政府だって頑張っているだから」

 と政府を擁護するような発言をしていた人が多かったのだが、途中から、

「やっぱり、政府になど期待した自分たちが悪かった」

 ということに気づいた。

 特に、ひどいのは、

「最初は、国家的な非常事態」

 ということで、政府が医療費などのお金を出したり、ワクチン代も、国家持ちだったりしたのだが、途中から、それらを緩和するという話が出てきて、

「政府は、自分の命は自分で守れと言っているんだ」

 ということで、

「誰も政府のいうことなど聞かなくてもいい」

 という発想になった。

 しかし、それは政府がすぐに、

「言い方が悪かった」

 ということで、

「国民が誤解をしただけ」

 ということで、何もなかったかのように、それ以降は振舞ったのだが、どうも、政府のこの時の曖昧な態度に対して、それまでの、政府のお粗末な政策に対して、

「大概我慢していた」

 といわれた国民の緊張の糸が、

「プツンと切れた」

 ということなのだろう。

「いやいや、政府の言う通りで、自分の命は自分で守るしかない」

 ということを感じた国民は、

「もう政府のいうことなど聞けるか」

 と思ったに違いないということは、想像するにたやすいことであった。

 「今回のパンデミックはこれで何とかなるかも知れないが、次回、似たような事態に陥れば、政府のいうことを聴く国民がどれだけいるというのか?」

 ということになる。

「ワクチン問題」

 の時も、

「何かあれば、政府が責任を持つ」

 といっておいて、結局、

「接種後に死んだ人がいる」

 ということであっても、その責任を、

「因果関係が認められない」

 ということで、責任を一切持つことはなかった。

 確かに、平時であれば、

「因果関係」

 という言葉も言い訳にはなるだろう。

 しかし、

「世界大戦以降、最大の有事」

 と言われる事態であり、しかも、政府自ら、

「何かあった時は責任を持つ」

 と言った言葉が真っ赤なウソだったということになるのだ。

 しかも、

「人流抑制政策」

 ということで、飲食店などの店舗に、

「補助金を出す」

 といっていた。

 しかし、その額は、その店の、

「一日の売上よりも安い」

 ということで、一応、

「規模に応じての支援金」

 とは言っていたが、その実態は、ほぼ、そんなものは無視していて、調査をしたのかどうなのかもわからない状態での、

「不公平な支援」

 ということであった。

 さらに、その

「雀の涙」

 とも言われる支援金も、その手続きの複雑さであったり、

「行政の手際の悪さ」

 というか、

「お役所仕事」

 というもので、結果、支給されるまでに半年以上もかかるという、

「お粗末さを通り越した情けなさ」

 であったのだ。

 だから、ほとんどの店が、

「支援金が出る頃には、潰れていた」

 ということで、

「これだったら、政府のいうことなんか聞かなければよかった」

 と思っている人も多いことだろう。

 しかも、今では、その緊急性は、ほとんど収まっているといってもいい。ニュースなどで、その病名を聴くことはほとんどなくなってきたのだが、実際には完全に収まっていないのも事実だ。

 しかも、

「次にどんな伝染病が流行るか分からない」

 と、世界的に言われている状態で、

「今何をしないといけないのか?」

 ということを、政府は分かっていないということだ。

 それが何かというと、言うまでもなく、

「検証」

 というものである。

 会社などで、トラブルが発生した時に、どの会社だってするではないか。

 トラブル発生の時、まずは、

「復旧」

 ということが一番である。

 そして、

「二次災害を起こさない」

 という意味を含めて、混乱をいかに抑えるかということの問題。

 そして、復旧を行っている間に平行作業で行うのが、

「原因の究明」

 ということになるだろう。

 これはあくまでも、

「開発部門に課せられた義務」

 ということであるが、上層部などは、

「プレス発表」

 であったりと、説明責任を果たさなければいけないだろう。

 そして、その後で考えるのが、

「再発防止策」

 というものを考えることである。

 そこまで行って、初めて、

「トラブルの解消」

 ということになるのだ。

「世界的なパンデミック」

 というのは、

「形の上では、自然現象」

 ということだったので、

「原因というのは、ないといってもいい」

 しかし、発生してしまったことに対し、いかに、被害が拡大しないかということ、そして、広まってしまったことへの政策のまずさを考え直して、再発防止につなげなければいけない。

 これが、

「検証」

 というものである。

 検証というのは、その節目節目にあるもので、一つではない。

「病気になった人それぞれで状況やパターンが違っているのだから、それだけ限りない検証が必要だ」

 といってもいいだろう。

 それを考えると、

「世界的なパンデミックに対しての政府の検証は、まったくできていないといってもいいのではないだろうか?」

 なぜかというと、

「国民に対して。検証した内容を一切公表していないからだ」

 確かに、マニュアルというものは、パンデミックの最中に、あるのはあった。

 しかし、それはあくまでも、その時々で、状況によって変わるものであった。

 それだけに、spれは、

「検証におけるマニュアル」

 というわけではなく、

「緊急的なマニュアル」

 ということで、まったく、

「信憑性のないもの」

 といってもいいだろう。

 その信憑性というものがあるのであれば、

「ここまで被害が大きくなることもなかったであろう」

 といえるのではないだろうか。

 さすがに、H県は、

「世界的なパンデミック」

 の頃の政府に比べれば、検証は行っていた。

 確かに、

「被害の規模というところでのレベルが違う」

 と考えれば、その検証も、時間が取れるといえるだろうが、

 そもそも、

「やる気があるのか?」

 という意味で、

「正直、政府にその気があるとはとても思えない」

 というのが、国民の総意といってもいいだろう。

 実際に、パンデミックが去ってからというもの、波は以前ほど小さいとはいえ、数回の波は押し寄せている。

 しかし、すでに、

「伝染病レベルが引き下げられた」

 ということで、それこそ、

「自分の命は自分で守る」

 という状態となり、

「ワクチン代、医療費も、健康保険の範囲での治療代を取られる」「

 ということになり、完全に、

「国家はノータッチ状態になった」

 ということであれば、国民に、その対応に対してのマニュアルを、ハッキリと分かるように示す必要があるのに、簡単な説明を箇条書きにしている程度ではないか。

 それを思えば、

「何を検証をしているというのか?」

 ということだ。

 そもそも、非常事態の間でも、

「専門家の意見を参考にしながら」

 と言いながら、

「都合の悪いことは無視する」

 という状態だったのだから、

「検証もくそもない」

 といっても過言ではないだろう。

 H県も、国家に対しては閉口していた。

 確かに、あれだけの国家を揺るがす大事件ということであったのだから、政府だけでできないことは、自治体にも、責任を負わせるというのは当たり前のことであろうが、そのわりには、その指示体制がしっかりしていない。

「どういう時にはどうすればいいか?」

 というマニュアルもない状態で、

「政府の思惑も知らされないまま。ただ、形式的な話をされる」

 というだけでは、

「自治体ごとにまったく対応が違っている」

 と言われても、仕方がない。

 そうなると、ひいては。

「政府は差別している」

 と思われても仕方がないだろう。

 何しろ、

「どこまでが政府の仕事で、どこからが、自治体の仕事なのか?」

 ということを国民は知らないので、ただ、考えられることとして、

「国と自治体とで、まったく意思の疎通がなっていない」

 と思われるだけである。

 それこそが、

「役所仕事」

 というもので、このような、

「非常事態」

 に陥らなければ、なかなか国民が意識することにはならないだろう。

 それだけ、平和ボケした国なので、政治などの話題は、日常会話では、

「タブーだ」

 といってもいいだろう。

 今のように、

「インターネットが普及した時代」

 ということになってくると。

「SNS」

 というものが最盛期となり、文字や通話などで、コミュニケーションが図れるようになると、

「政治、宗教の話題をすれば嫌われる」

 ということで、特に、

「集団で行うチャットなどの会話では、政治、経済の話題に触れる人は入室不可」

 ということで、

「自分騙り」

 であったり、

「マウントを取る」

 というのと同レベルで、嫌われるということになるのであった。

 そんなネット社会を、政府は分かっているのだろうか?

 もっとも、与党というのは、

「投票率が少ないと、自分たちが有利だ」

 ということを分かっている。

 だから、口では、

「投票率を上げないといけない」

 あるいは、

「国民に、もっと政治に興味を持ってもらわないといけない」

 と言いながら、

「どうせ、投票率が少なければ、その分、自分たちに票が入るのだ」

 ということになる。

 つまり、それだけ組織票が強いということで、投票率が増えて、

「間違って野党にでも野党に票が入れば」

 と考えると、やはり、確実なのは、

「投票率が低い」

 という状態になった時であろう。

 かつての、

「テーマパークブーム」

 というものにおいて、何といっても、

「事業を拡大すればするほど儲かる」

 と言われた、

「今では信じられないような時代」

 その頃が、

「テーマパークの建設ラッシュ」

 であったり、

「博覧会の開催」

 というものが、ブームと言われた時代だった。

 それはある種、

「都道府県の名誉にかけて」

 ということでもあっただろう。

「隣の県には負けたくない」

 であったり、

「地域一番の県」

 というプライドを持っていれば、隣の地域の、

「地域一番の県には負けたくない」

 という思いから、余計に、

「プライドをかけた戦い」

 というものがあってしかるべきだといってもいいだろう。

 だから、県によっては、

「自分たちでは、キャパオーバーと言われるような計画であっても、

「バブル景気を信じて疑わない」

 という意識から、

「事業拡大すればするほど儲かる」

 という神話を全面的に信用していたということであろう。

 そもそも、バブル崩壊のきっかけとなったのが、この、

「神話の崩壊」

 からであった。

 この神話というのが、

「銀行の不敗神話」

 ということで、

「過剰融資などが、なぜバブル崩壊につながるということに気づかなかったのか?」

 ということに尽きるわけだ。

 だから、実際に、

「バブルの負の遺産」

 と言われたテーマパークなどが、最終的に、

「負債」

 ということで、それ以後の県政で、問題が消えないということになるのだ。

 だから、それ以降は、

「実際に必要なものを、経済的に作る」

 ということで、

「経済的」

 というのは、

「最低の資金で、最大の利益をもたらす」

 ということが経済学の基本だということであるから、よくわかるというものだ。

 それを考えると、

「アウトドアのレクレーション」

 のように、今の時代、会社でレクレーションといった施設を作るだけの資金がないだけに、それを県民が利用してくれるのであればあ、これに越したことはない。

 県民としても、

「住民税を払っているのだから、その分、安くなっている」

 と思うと、福利厚生を会社が考えてくれないことを考えれば、

「利用しない手はない」

 といえるだろう。

 特に、

「山間の、キャンプ場」

 であったり、

「アスレチックなどの施設」

 というのは、半分は、

「自然環境の一部だ」

 と考えれば、それを使えば、加工するだけで一から作り上げるわけではない分だけ、予算を削れるかも知れないといえるだろう。

 それに目を付けた県も少なくはないだろうが、H県は、その中でも、結構早いうちに、

「自然を取り入れる施設建設」

 というものを手がけていたということで、

「先見の明があった」

 といってもいいだろう。

 一時期、

「世界的なパンデミック」

 のせいで、

「緊急事態」

 と言われた間は、休業の危機にあったが、逆に、それから抜けると、

「パンデミック期間」

 と呼ばれた数年間でも、比較的賑わっていたといってもいいだろう。

 なぜなら、

「パンデミック時期」

 というのは、

「人が密集してはいけない」

 ということでの、緊急事態の時には、

「店舗の休業要請」

 であったり、

「企業へのリモートワークの推進」

 ということを行っていた。

 だから、

「表に出ない」

 ということで、

「身体がなまってしまっている」

 という人が急増し、早朝など、マスクをした状態で、公園を散歩するという人が増えたのだ。

 だから、開業している間は、アスレチック施設やキャンプに人が来るというのは当たり前もことだった。

 ただ、

「パンデミックの最中」

 ということで、入場制限は当たり前にあり、

「人となるべく接触しない」

 ということも、エチケットとして当たり前のことであった。

 だが、そもそも、

「屋外」

 ということで、接触の機会もだいぶ和らぐということになるだろう。

 つまりは、

「自然環境の中で、しかも、適度な運動ができる」

 ということで、任期なのは当たり前であろう。

 ただ、それでも、

「少しでも人が密集すれば、キャンセル」

 という人もいただろう。

 そもそもが、

「身体に気を遣っている人が利用するのだから、伝染病に罹ってしまうのであれば、それこそ、本末転倒だ」

 ということになるだろう。

 それを考えれば、

「人数制限があるとはいえ、まだまだ他のところに比べれば、繁盛していた」

 といってもいいだろう。


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