30

「銀子さん、僕も傍に置いてください」


 きなこが驚き目を見開いている横を、落ち着いた姿のまま蒼司は歩み始めた。


『ソージ‼』

「うん、きなこさん、大丈夫だから」


 横を通り過ぎるとき、蒼司は大きなきなこの顔をふわりと撫でた。きなこは心配げな目を向けるが、落ち着き微笑む蒼司を止めることは出来なかった。


「おい‼ 彌勒堂‼」


 堀井も叫ぶが蒼司が足を止めることはなかった。

 銀子は黒い影の合間からチラリと見えた蒼司の姿に、一瞬眉間に皺を寄せるが、大きく溜め息を吐くと身体を激しく震わせ上空に向かい高く跳躍した。


『この馬鹿者が』


 舌打ちでもしそうな口調で悪態を吐いたかと思うと、銀子は上空を駆けるように風を巻き上げ蒼司の横へとふわりと降り立った。


「銀子さん、僕があの黒い影の意識をこちらに向けますから、あの子を黒い影から引き剥がしてください」

『…………ハァァ、お前は本当に馬鹿だろう』

「フフ、すみません」


 大きな狐姿の銀子の首元を撫でながら真っ直ぐ見詰める蒼司の姿に、銀子はこれでもか、というほどの深い溜め息を吐いた。


『怪我でもしたら許さないからね』

「怖いなぁ」


 一度こうと決めたら蒼司はそれを覆すことはない。アハハと楽しそうに笑う蒼司に、銀子は諦めたのか鼻先を蒼司の頬に摺り寄せると、再び黒い影に向き直った。蒼司も再び黒い影へと視線を向ける。


「ねぇ、君は誰なのかな? 君の本体はここにはいないよね。どこにいるの?」


 蒼司はゆっくりと黒い影に近付く。銀子は警戒しながらもそれを見守っていた。きなこも銀子とは反対側に蒼司の横に並ぶ。


『ウルサイ‼ ウルサイ‼ オマエタチノセイダ‼ ヤットミツケタ‼ カエセ‼ カエセ‼』


 黒い影は大きく広がると蒼司の元まで一気に伸びる。蒼司の目の前までやって来た黒い影はまるで観察するように、蒼司の顔へと近付いた。


「彌勒堂‼」


 堀井の叫び声が響くが、蒼司は取り乱すことなくその黒い影を見据えた。銀子ときなこは蒼司に纏わり付こうと飛び込んで来た黒い影に鋭い爪を振りかぶり霧散させる。


「返せって一体なにを?」


 蒼司はひたすら冷静に言葉を続ける。動揺してはいけない。動揺するとそこに付け込まれる。蒼司はどれほど目の前に黒い影が近付こうとも、一歩も後退ることなく黒い影を見据えた。

 霧散した黒い影はすぐさま再び集まり出し、黒い塊となると再び一気に蒼司の目の前に顔を突き出すかのように一点に集まり出した。そしてそれは次第になにやら形作っていく。


「銀子さん」


 それに気付いた蒼司は視線を黒い影から離さず、小さく銀子の名を呼んだ。銀子はそれに気付くと躊躇いながらも、音もなくその場を離れ、一気に黒い影の背後へと飛んだ。


『オマエタチハアノカタヲコロシタ‼ ワタシノコトモフウジタクセニ‼』


 黒い影は叫んだと同時にはっきりと顔と思われる姿を形作った。黒い影は揺らめきながらではあるが、ひとのような形となり、頭と思われる場所にははっきりと顔が見て取れた。鬼の姿のような角の生えた黒い影。


「あの方を殺した? 君を封じた?」


 一体誰のことだ、と蒼司は考えるが、思い付くはずもない。そもそも蒼司はあやかしを祓う力も封印する力もないのだ。しかし、目の前のこの鬼らしき黒い影は、明らかに蒼司に憎しみの感情を向けている。今まで憑いていた男に怨み辛みの言葉を投げ掛けていた黒い影が、今は蒼司に対して言葉をぶつけている。思い当たることもなにもない。一体なぜなのかが理解出来なかった。しかし、今黒い影が蒼司に集中していることで、銀子が行動しやすくなる。蒼司は黒い影の向こう側に今にも倒れそうになっている男の姿を見た。そこに銀子がふわりと音も立てずに降り立ち、男の首根っこに齧り付き引っ張り上げるところが見える。銀子は男を口に咥えたまま再び跳躍すると、音もなく空を駆け、そして堀井の元へと男を放り投げた。


「おい! ちょっ!」


 堀井は慌てて男を抱き止めるが、非力でも細い訳でもない堀井ですら体格の良い男を放り投げられると支えるだけで一苦労だ。下手をすると堀井のほうが潰される。なんとか抱き止めることの出来た堀井は、一言銀子に文句を言ってやろうかと見上げたが、すでに銀子は蒼司の元へと跳躍していた。

 堀井は小さく溜め息を吐くと男を地面へと座らせようとしたが、男は堀井の肩を掴み自力で踏ん張った。踏ん張り項垂れていた頭を上げると、今まで憑かれていたことが嘘のようにギロリと鋭い目で黒い影を睨んだ。

 目の下に隈は広がるが、しかしそれでも眼光の鋭さは損なわれていないようで、周りに威圧感を与えるほどの目をしていた。


「くそっ! ふざけんな!」

「え、ちょっ、おい!」


 男は怒りを露わにしながらずんずんと蒼司の元まで歩いて行く。先程まで倒れそうになっていたとは思えないほどだ。堀井は慌ててそれを止めようと男の腕を掴むが、男はそれを振り払い進む。堀井は茫然としてしまい、ハッと我に返るがすでに遅かった。男は蒼司の横に並んだかと思うと、拳を振り上げ殴りかかろうとする。


「⁉」


 蒼司は驚き男に振り向くと慌てて男の腕を抑え付け止める。


「離せ‼」

「いやいやいや‼ 殴ったところで霧を殴るようなものだから‼ 祓う力がなければ素通りするだけだよ」


 蒼司は必死に男を止めようとするが、男は「一発殴ってやらないと気が済まない」と暴れる。その顔はまるで鬼の形相のように眼光鋭く睨み付けていた。


『ブッ』


 我慢出来ずに噴き出したのは銀子。蒼司を守るように寄り添っていたが予想だにしていない男の行動に、思わず噴き出しクックッと喉を鳴らす。まさか実体のないものに殴りかかろうとするとは――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る