青い目の竜が語るもの

佐霧(ウ)

本文

竜と目が合った。

青みがかった鱗をまとい、しなやかな身体を丸めていた。

その瞳は済んだ水底のような青。怒りも恐れもなく、木々の向こうから静かに彼女を見つめていた。


ローランは逃げなかった。

怖くなかったわけではない。ただその目に、まるで遠いところからこちらを見ているような、不思議な距離を感じていた。森の奥底を覗き込んだような、そんな心持ちだった。


竜は身体を少しだけ起こした。翼が森を押し、枝が軋む。彼女の首は上へと向けられたが、それは人間の大人を見上げるときとさして変わらない高さだった。これが大人の竜であったならば、村で一番大きい家の屋根についた鐘を見上げるほどになる。それでも、竜の姿には山々の精霊のような威厳があった。


「……怪我してるの?」


ローランが声をかけると、竜の頭がわずかに傾く。若葉の間から指す陽光が、その鼻先の鱗を艶めかせる。

森を包む沈黙の中、彼女は一歩だけ竜に歩み寄った。


竜が、立ち上がる。

四肢はまだ細く、飛ぶには頼りない。だが、葉を踏む音だけを残して、一歩ずつ彼女との距離を詰めてきた。

「……あ、待って」


ローランは思わず声を上げた。後ずさる足元から、割れた枝が音を立てる。

その音に竜は反応した。翼が開き、尾が伸びあがる。彼女は突き出した手をゆっくり手元の籠へと動かし、覆っていた布をめくった。そこに入っていたのは赤い実。斜面に自生するトゲだらけの草がわずかにもたらす御馳走だった。


竜は鼻先を僅かに震わせ、猫のように地面を滑らせていた首を持ち上げて籠を覗き込んだ。ローランは恐る恐る歩み寄りながら、ひとすくいの蛇苺を竜の足元へと差し出した。彼女の恐怖はいつの間にか、目の前の竜よりも、採ってきた量が少ないことを尋ねてくる母親へと向いていた。けれど、後悔はしていない。


竜はローランに何度か視線を向けながら首を伸ばし、彼女の一刻ほどの努力をひとなめで平らげた。

竜は首をわずかに捻り、そして再び首を持ち上げた。


そのとき、森の向こうで何かが割れる音がした。枝を蹴る、いくつもの足音。


ローランの背筋が凍る。

それは、竜を捕らえるための音。

人間の、それも余所から来た者。”争う人”、里ではそう呼んでいる。

野生の竜は希少であり、彼らは竜を価値ある武器だと思っている。それは今や、この隔絶された山里にも届き始めた現実だった。


竜は音の方向を向いて、先程よりもさらに身体を低く構えた。彼女が微かに漏れ出す唸り声に気づいたとき、竜は巻き上がった落ち葉を率いて駆けだしていた。


森の空気が変わった。

そっちは崖に続いてるからダメ――ローランはそう伝えたかった。

視界の遠くで跳ね上がった竜が乾いた枝を踏み折った直後、風を切る音と共に太い幹のひとつに矢が突き刺さった。


「いたぞ、そっちだ!」

男の怒鳴り声が木々に反響する。ローランもすぐさま駆け出していた。矢にはあるべきはずのやじりがなかったが、それに貫かれれば竜も自分もひとたまりもない。


毛皮のポンチョに野趣のある服装。森に生きる者の装いは野山では目立たない。

ローランは籠をひしと抱えて山林を下るほうへと走る。

しかしその足元を、矢の一閃が駆け抜けた。


「なんだ、獣か」

「なんだじゃねえよ、今夜のメシだ」


声は近い。違う、私は人間だ――そんな言葉で通じる相手ではないと身体が告げていた。


逃げなきゃ。


獣道すらない、踏まれたことのない緑の海をかき分け、木の根を越えて駆ける。いくら森の民とはいえ、年端もゆかぬ娘。屈強な”争う人”たちの足音を遠ざけるには至らなかった。


心臓の鼓動が耳の裏で響くほど、走った。


飛び越えようとした木の根に足が掛かる。咄嗟に腕を伸ばしたので、籠も顔も無事で落ち葉の中に投げ出された。立ち上がって走っても追いつかれてしまうと考えたローランは、地面を這って木々に身を寄せた。


争う人たちは見落としてくれるだろうか。籠を服で隠し、息を潜める。


横ざまに伏せた彼女の背を、殺気が刺した。肺の空気が押し出され、ローランは呻き声を上げてしまう。

しかし、その声は男たちに聞かれることは無かった。


森が吠えた。


地の底から湧き上がるような咆哮。風が逆巻き、枝が裂ける。争う人のひとりが叫び声を上げかけたが、根元から折られた樹とともに大人しくなった。人間たちは、その意志を理解するより早く蹂躙された。


青い巨陰が身体を立ち上がらせる。ローランは蔦の中から、曇天で雨を探すときほど視線を上げた。空を打った翼から重たい鐘のような音を響かせると、竜は力任せに足元の何かを前肢で踏み潰した。悲鳴を上げて散る鳥たちも大人しくなり、ただ獣のような血の匂いがゆっくりと広がった。


その竜は首を傾け、木々や蔦をも貫いて、ローランを見た。


青く縁どられた、燃えるような金の瞳だった。

怖くなかったわけではない。ただその目を見て、彼女は子竜のことを思い出していた。


息を整えながら暫く視線を合わせていた彼女だったが、木々の中走る青い影を見つけ、そちらに目を向けた。


竜もそちらへ首をやる。小竜が木々を縫って、母親のもとへと走り寄っていた。


青い小竜は母の傷跡を見て、次にローランを見た。


再び、竜と目が合った。

森の静けさが戻る中で、何も語らず、ただ風が通り過ぎた。


小竜は竜の翼にもぐるように身を寄せた。母竜の大きな呼吸が、森の鼓動のように溶けていく。

傷つきながらも、青竜は立ち去ろうとしなかった。ここが安全な場所でないことは知っているはずなのに。


ローランは草影から這い出し、静かに立ち上がった。

翼の影から、小竜が頭を持ち上げた。


問いかけるようなその目に、ローランは頷いた。

風がそっと森を抜けていく。その風に従うようにローランは森を進み、できたばかりの荒れた道を歩き出した。


遠い未来、互いの名も知らぬふたりの間に生まれる絆を、いつか出会うふたりを、静かに祝福する風だった。

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青い目の竜が語るもの 佐霧(ウ) @draconidum

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