本編⑥(ラスト:無抵抗のまま暮らすという地獄)
それからの毎日は、不思議なほど何事もなかった。
美咲はよく笑い、よく働き、よく眠った。
朝には味噌汁を作り、夜は黙ってシャワーを浴び、眠るときには微動だにしなかった。
食卓には、彼女の好きなものが並び、
リビングには、彼女が選んだインテリアが増えていった。
彼は、ただそれに合わせていた。
違和感を抱くことも、疑問を持つことも、いつの間にか減っていった。
いや――もしかすると、
違和感を覚えるという行為すら、すでに忘れてしまっていたのかもしれない。
⸻
ある日、美咲が何気なく言った。
「ねえ、来月で3年目だね。同棲して」
「……うん、そうだね」
「初めて一緒に住んだ日、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
どんな部屋だったか。
どんな家具を最初に買ったか。
どんな些細なケンカをしたか。
彼の口から出るのは、彼女が“そうだったよね”と言ってくれることだけだった。
自分の記憶は、すべて彼女の“同意”によって補強されていた。
それ以外のものは、曖昧で、ぼんやりとして、どこか夢みたいに遠かった。
⸻
夜。
彼女が眠りについたあと、悠真は静かにベランダに出た。
街の灯りが、淡く滲んでいた。
風の音も、どこか遠くにしか聞こえなかった。
「……俺は、いつからこうなったんだろうな」
その言葉に、返事はなかった。
彼自身ですら、それが“独り言”であることに確信が持てなかった。
⸻
翌朝、彼は目覚ましの音で起き、
台所に立つ美咲に「おはよう」と声をかけた。
彼女は振り返り、いつものように笑った。
「おはよう、悠真」
彼もまた、笑った。
そしてその日も、何事もなかったかのように始まり、何事もなかったかのように終わっていった。
第3話『おかえりなさい』 ぼくしっち @duplantier
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