本編⑤(記憶の浸食と、同調するしかない男)
その夜、2人でリビングに座りながら、ふと美咲が言った。
「ねえ、最初にデートしたときの場所、覚えてる?」
「……渋谷、じゃなかったっけ?」
「違うよ。吉祥寺だよ。井の頭公園でボート乗ったでしょ?」
「……あ、そっか。そうだったか」
違う。絶対に違う。
最初のデートは渋谷で、映画を観て、そのあとパスタを食べた。
それは、自分の中で何度も思い出した大切な記憶だった。
けれど、彼女の目は揺らがなかった。
まるで、「間違った答えをした子供」を見つめるような、柔らかいけれど突き放すような目。
悠真は、それ以上何も言えなかった。
⸻
別の日。
ふたりの記念日についての話になった。
「うちらって、付き合い始めたのって、12月だったよね」
「え? 7月だよ。
……まさか、忘れてた?」
「いや……そんなわけないって……」
でもスマホのカレンダーには、記念日として7月に印がついていた。
自分が書いた覚えはない。
けれど、“彼女の正しさ”が積み重なっていくごとに、心の中の“確かだったもの”が揺らいでいった。
⸻
どこでどう間違えたんだ?
それとも、自分は最初から“何も覚えていなかった”のか?
否。
どれも確かに、自分の中では“本物”だったはずだ。
でも、もう言えなかった。
言ったところで、彼女は決して「間違ってた」とは言わない。
曖昧な笑顔と、強くない言葉で、でも確実に“彼女の正しさ”に塗り替えてくる。
そして――
自分のほうが、折れてしまう。
「そうだよね。俺が間違ってたかも」
その言葉を口にした瞬間、心の中で何かが静かに死んだ。
⸻
その夜。
ふとした拍子に、アルバムの中の昔の写真を見返した。
そこには、今の美咲の顔で、すべてが並んでいた。
あのとき、笑っていたはずの顔が。
泣いていたはずの顔が。
照れて、頬を赤らめていたはずの彼女の顔が。
全部、今の彼女の笑い方、今の目線、今の形で統一されていた。
――いや、違うだろ。
そう思った。
けれど、写真は嘘をつかない。
そう思い込んだ瞬間、喉が詰まり、息が苦しくなった。
「……どうしたの?」
後ろから、彼女が覗き込んできた。
「思い出ってさ、残すと、逆に苦しくなるよね」
その声は優しかった。
そしてどこか、勝ち誇ったようでもあった。
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