第2話 『いない夏』



そういえば、今年は蚊が少ない。


灼熱地獄のこの都会に、適応できなかったんだろう。

夜になっても気温は下がらず、アスファルトの熱気がまとわりついてくる。

家にも帰れず、汗が引くこともない熱帯夜。

日焼けしてざらついた手に握った缶ビールも、もうぬるくなっていた。


公園のベンチに沈みながら、最後に会った日のことを思い出す。

「じゃあね」って言ったときの声のトーンと、あの時、俺がどうしても言えなかった言葉。

情けなくて、ほろ苦い後悔が、口の中いっぱいに広がる。


昔から、言葉をうまく繋げられなかった。

何を思っても、口にするまでが遠すぎる。

しまいには、自分が何を思っていたのかすらわからなくなってしまう。


引っ込み思案なわけじゃない。気が弱いとも思っていない。

舐められるのは腹が立つし、喧嘩になれば自己防衛の言葉だけはスラスラ出てくるこの口。

でも、大切な人の前では、なぜかいつも言葉を失ってしまう。


だから、あのときも。

もう何ヶ月もまともに話していないってわかっていたのに、何も言えなかったんだ。


「カズマ、明日仕事、何時に終わるの?」

狭い部屋の奥から、あいつの声が聞こえる。

肉体労働を終え、そこにさらに数時間のパソコン作業。体はとっくに限界だった。


「ねえ、聞いてる?」

ようやく仕事から解放されたばかりだ。少しぐらい放っておいてくれ。


「……わかんない。」

目を合わせず、スマホを触る指先だけが動いていた。


「わかんないって……夜ご飯、どうするの?」

明日の気分なんて知るかよ。とにかく今は、息抜きさせてくれ。


「…。」

俺の顔を覗き込むのをやめ、あいつは小さなため息をついて洗面所へと消えていった。



同棲を始めて数ヶ月。なぜかずっと、イライラしていた。

最初は彼女の荷物が増えたことが嬉しかったのに、今では窮屈になったクローゼットが疎ましい。

細々とした物があふれる洗面台。靴箱に収まりきらない、二人分のスニーカー。

そして今週は、彼女が立てる生活音までが耳障りだった。



愛していないわけじゃない。

……いや、わからない。

そもそも俺は、 “愛” を知っていたんだろうか?



無口で、何を考えているかわからない背中。

そんな父親とは正反対に、母はなんでも察して、言葉にする前から世話を焼いてくれた。

気づけば、俺は「伝える」ことを一度もしてこなかった。

言われたことをやって、決められた道を進むだけ。

上司の指示を淡々とこなす毎日。

想いを表現する努力なんて、産まれてから一度もしてこなかったと、今さら気づく。


雨の日、自分なりに考えて、駅まで迎えに行ったことがある。

ぶっきらぼうに傘を差し出して、照れ隠しのようにコンビニに立ち寄り、タバコを買った。

少しはしゃいだあいつの笑顔を見て、こっちが恥ずかしくなった。


帰りが遅い夜も、なんとなく寝ずに起きていた。

でも、玄関の鍵が開いた瞬間に、「男が帰りを待ってるなんて情けない」と思って、布団をかぶって寝たふりをした。


「ねえ、なんでも言ってくれなきゃ、わかんないよ」

喧嘩になるたびに、そう言われた。


伝えるって、なんだったっけ。

素直になるって、どうするんだっけ。

俺はずっと、それがわからなかった。

……いや、違う。

わからないふりをしていた。プライドが、邪魔をしていただけなんだ。


キャリーケースがふたつ。音を立てて、玄関に降ろされる。

涙が乾いたあいつの頬を、見ないようにして見送った。

あのとき、腕を掴んで心のうちを吐き出せていたら。

そんな後悔も、いつもその瞬間になると、体が動かなくなることでしか味わえない。



チノパンもTシャツも、汗で肌にへばりつく。

まとわりつく空気が、不快さを倍増させる。

こんな夜だから、少しだけ期待してしまうんだ。



この胸の苦しみも、切なさも、

今なら――全部、あいつに話せる気がする。



でももう、クローゼットは空っぽで、洗面所の雑貨も減ったあの家に、

伝える相手なんて、どこにもいない。



音のしないあの部屋に、帰れない日が続いている。


「一人になりたい」――そう願ったのは、他でもない、あの夜の俺だったのに。




『いない夏』

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