第2話 不慣れな優しさは毒のように

「まあ、上がれよ」

 少女を連れてきたのは、購入したばかりの自宅マンションだった。

 3LDKという単身者には余裕のある間取りだが、結婚の予定はない。あくまで自分ひとりが快適に暮らすためである。他にこれといって金をかけることもないので、住まいくらいはと思ったのだ。

 子供のころ窮屈なところにいた反動もあるかもしれない。あのころは常に他の誰かと一緒で、ひとりになれる場所などどこにもなかった。それゆえ自分だけの広い家というものに憧れたのである。

 念のために買っておいた来客用のスリッパを靴箱から出して、彼女の前に置く。つい数日まえにタグを切ったばかりの新品だ。こんなに早く使う機会が来るとは夢にも思わなかった。

「おじゃまします」

 彼女はぎこちなく会釈してサイズの合わないスリッパを履き、千尋のあとをパタパタとついて歩く。遠慮がちにチラチラとあたりを見まわしていたようだが、残念ながら扉はすべて閉めてあった。

 突き当たりの扉を開けるとリビングダイニングだ。日当たりがいいので晴れた昼下がりにはかなりの熱がこもる。千尋はビジネスリュックを背負ったままリモコンを取り、エアコンを入れた。

「そこに座れ」

 四人掛けのダイニングテーブルを示しながら言うと、彼女は素直に従った。その表情や仕草からは緊張がありありと見てとれる。千尋は冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぎ、彼女に出した。

「それを飲んでろ。すぐに戻る」

 そう言い残してリビングをあとにし、寝室に向かう。

 北側の寝室もそれなりに暑いが、長居をするつもりはないのでエアコンはつけない。背負っていたビジネスリュックを下ろし、上着をハンガーに掛けて、カジュアルな半袖シャツとジーンズに着替えた。

 会社には午後から有給休暇を取ると電話で伝えてある。今日中に片付けなければならない仕事はないし、以前から有給休暇を消化しろと言われていたので、急ではあるがすぐに了承された。

 リビングに戻ると、彼女はちょこんと座ったまま所在なげにしていた。グラスはすっかり空になっている。

 千尋も冷蔵庫を開けてオレンジジュースをグラスに注ぎ、その場で飲み干した。空のグラスを傍らの流し台に置くと、冷蔵庫にもたれて腕を組み、不安そうにしている彼女をじっと見つめる。

「おまえ、暇ならちょっと手伝え」

「はい……?」

 せっかくなので役に立ってもらおう——そう思い立ち、今度は彼女を連れてリビングをあとにした。


「引っ越してからまだ二週間くらいでな」

 書斎には、いくつもの段ボール箱が無造作に積んであった。

 中身はすべて本だ。仕事関係の本はすでに荷解をして本棚に収めてあるので、段ボール箱に入っているのはほとんどが漫画と小説である。3LDKのマンションを買った理由のひとつがこれだった。

 本棚は用意してあるが、そう急いで片付ける必要がないだけに腰が重い。休日もなんだかんだと理由をつけて後回しにしていた。だが、その気になればさほど時間はかからないと思う。

「段ボールには本が入っている。おまえは箱を開けてそれをすべて出してくれ。シリーズものは順番に積んでくれるとありがたい。本棚にはオレが入れる」

「わかりました」

 彼女は素直に応じて、重たい段ボール箱をよろよろと下ろし、素手でガムテープをはがし始める。カッターナイフを渡そうか迷っていたが、なくても大丈夫そうだ。万が一を考えると刃物は与えたくなかった。

 仕事ぶりは一貫して真面目だった。細腕で重いものを持つのに難儀しながらも、文句も言わず指示どおりにこなしていく。見やすいようにタイトルをこちらに向けるなど、細かい配慮もしてくれた。

 その本を千尋が黙々と本棚に収めていく。どこに何を収めるかはだいたい見当をつけていたが、実際にやってみるとうまくいかないこともある。入れ替えたり悩んだりして思いのほか時間がかかってしまった。

「やっと終わったな」

「はい」

 彼女はほっとしたように息をつく。

 エアコンを入れていたので汗だくというほどではないが、さすがに千尋も疲れた。そういえば昼ごはんを食べ損ねていたなと空腹で気付く。彼女も学校帰りなら食べていなかったかもしれない。

「メシにするか。疲れたからレトルトでいいか?」

「私は、何でも……」

 まだ外は明るいし、夕食にはいささか早い時間ではあるが、昼食を抜いているのでちょうどいいだろう。畳んだ段ボールを廊下の収納スペースに押し込むと、彼女とともにリビングへ戻った。


 夕食はスパゲティとポタージュにした。

 スパゲティは乾麺を茹でてレトルトのソースをかけただけ、ポタージュは粉末に湯を注いでかきまぜただけ。しかしながら馬鹿にはできない。特にこのパスタソースはそこそこ値が張るだけあってクオリティが高いのだ。

 ダイニングテーブルに食事の準備をして向かい合わせで席に着く。千尋がスパゲティを食べると、彼女もぎこちない手つきでおずおずと口に運んだ。その一口でびっくりしたように目を見開き、皿を見つめる。

「うまいか?」

「うん……こんなおいしいの、食べたことない……」

 きっと外食などしたこともなく、給食レベルのものしか食べていなかったのだろう。千尋自身がそういう境遇だったのでよくわかる。

「冷めないうちに食えよ」

 感情を抑えてそっけなく言ったつもりだったが、声には笑みがにじんだ。


 彼女が食べ終えるのを待って後片付けを始める。

 その後ろで、彼女は何か物言いたげにうろうろとしていた。邪魔だからテレビでも見ていろと言うと、しゅんとしてテレビ前のクッションに座ったが、テレビはつけずにこちらをチラチラと窺っている。

 さて、そろそろどうにかしないとな——。

 彼女のいるリビングに背を向けて皿を洗いながら、思案をめぐらせる。

 いまにも死のうとする人間を放ってはおけず、しかし簡単に思いとどまらせることもできず、誘拐などと嘯いて家に連れてきてしまったが、さすがに犯罪者になる気はない。落ち着かせてからきちんと説得するつもりでいた。


「なあ、おまえやっぱりここを出てけよ」

 後片付けを終え、隣のクッションに腰を下ろしてそう切り出すと、彼女は一瞬にして愕然としたように凍りついた。そのまま声もなく振り向く。千尋を見つめるその目には絶望の色しかなかった。

「いや、親のところに帰れってわけじゃなくてな。ここにいたところで何の解決にもならないだろう。警察に助けを求めたほうがいい。さっきの現状を話せば多分保護してくれるはずだ。オレが連れて行ってやるから」

 説得を試みるが、彼女はふるふると首を横に振るだけだった。

 千尋にとって都合がいい方法であると同時に、彼女にとっても最善の方法ではないかと思うのだが、まだ冷静に考えられる段階ではないようだ。だからといってこれ以上待つわけにもいかない。

「このままじゃ、オレが犯罪者になっちまうんだよ」

「もう誘拐してるじゃないですか」

 彼女は責めるような縋るような目を千尋に向けた。スカートの上でギュッとこぶしを握りながら、おずおずと言葉を継ぐ。

「誘拐したんですから、ちゃんと責任を持ってここに監禁してください。無理やり警察に連れて行ったりなんかしたら、私、おにいさんに誘拐されてたって訴えます。そうしたら犯罪者になってしまいますね」

 まさか、この年端もいかない少女が脅してくるとは——。

 もっとも、こういうことが平気で出来るような人間ではないのだろう。全身をこわばらせたまま、うっすらと汗をにじませつつ上目遣いで様子を窺っている。慣れないことをしているのが丸わかりだ。

 だからといって脅しに屈してやるつもりはない。彼女が警察よりここにいたがるのは居心地が良かったからに違いない。千尋を優しい人間だと誤解しているのだ。それなら出て行きたくなるよう仕向ければいいだけのこと。

「どのみち犯罪者ってことか」

 千尋はこれ見よがしに溜息をついて、苛立たしげに言う。

 思惑どおり彼女はビクリとした。それでも目をそらすことなく緊張ぎみに次の言葉を待っている。もちろんこれしきのことで劇的に気持ちが変わるとは思っていない。ここからが本番だ。

 威圧するように冷たい目を向けると、その小さな体をラグの上に押し倒して、膝立ちでまたぐ。彼女は言葉もなくただ混乱した顔を見せていた。それでも構わず胸のささやかなふくらみをつかむ。

 ん——?

 どうも下着をつけていないらしく、薄地のセーラー服を通してダイレクトに感触が伝わってきた。思わぬことに内心ひそかに焦ったものの、ここで手を引っ込めるという選択肢はない。逆にグッと力をこめる。

「せめて楽しませてもらわないと割が合わない」

「……私なんかじゃつまらないと思いますけど」

「それを決めるのはオレだ」

 今度は膝からスカートの中へと徐々に手をすべらせていく。

 彼女は反射的にビクリと体を震わせて表情を硬くしたが、逃げようとはしなかった。スカートがまくれて色気のない下着が露わになっても、そのままじっと堪えている。まるですべてを受け入れようとしているかのように。

「オレが何をするつもりかわかってるのか?」

「保健体育で聞いたくらいの知識はあります」

「……悪いが、避妊の準備なんかないぞ」

「平気です」

 そう迷いなく答え、うっすらと自嘲するような笑みを浮かべて言葉を継ぐ。

「妊娠はしないので好きにしてください」

 それは、どういう——。

 千尋は怪訝に眉をひそめた。さきほどの生々しい言葉とはあまりにも不釣り合いな、まるで小学生のような幼げな顔を見下ろしたまま、頭は無意識に様々な可能性をはじき出していく。

「どこか悪いのか?」

「さあ、病院で診てもらったことがないのでわかりません。あのひとは女として欠陥品だとなじるだけで連れて行こうともしませんから。でも中学生にもなって大人の体になれないのはやっぱりおかしいですよね」

 そんなことを無感情に淡々と話す少女を見て、何も言えなくなった。

 急速に頭が冷えて、まくれ上がったスカートを戻して彼女を起き上がらせると、セーラー服の襟とスカーフをそっと直してやる。彼女は何か思いつめたような顔をしてうつむいた。

「あ、あの……」

「オレの負けだ」

「えっ?」

 千尋は前髪をくしゃりとかきあげ、溜息をつく。

 下手な脅迫をして、体を差し出して——彼女はなりふり構わずここに居座ろうとしている。ここしか居場所がないのだと、ここが最後の砦だと、そう盲目的に強く思い込んでしまったかのように。

 もし、ここで無理に追い出せばまた死のうとするかもしれない。不本意だが責任の一端は千尋にもある。そのことに気付かないふりをして己の都合を優先させるほど、非情にはなれなかった。

「おまえ、名前は?」

「……ハルナ」

 すこし思案してから答えたので、もしかしたら本当の名前ではないのかもしれない。それでも構わなかった。気まずげに揺れる瞳を真正面から射るように見つめ、落ち着いた声で告げる。

「ハルナ、おまえをここに監禁する」

 それが千尋の出した結論だった。

 見捨てられないのなら腹をくくるしかない。もうしばらくここを居場所として提供しよう。現実に立ち向かう勇気が持てるそのときまで。それが軽率に関わった自分の取るべき責任だと思った。

「あ、りがとう、ございます」

 彼女は感極まったように肩を震わせながらうつむいていく。泣いているのか堪えているのかはわからない。千尋は何も言わず、子供のような後頭部の丸みにただそっと手を置いた。

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