第21話 ひとり
起き上がれば、深い暗がりを朱い炎がぼんやりと照らすのが見えた。その灯りを受けて、乱れもつれた黒髪が鈍く光っている。
――腐臭。腐った肉の臭い。泥と汚物にまみれた着物。こちらを見つめる淀んだ瞳。
かつては美しかったであろう女。息も詰まるような孤独の気配。
「あなたが……イザナミ様」
露姫がつぶやくと、女神の爛れた口が笑みの形を描いた。
「よくぞ来た。露姫よ」
怖気立つような姿に反し、女神の声は穏やかだった。
腐乱した手が伸べられ、露姫の髪をそっと梳く。細い絹のような髪に触れるだけで、崩れた指先の肉が
それでもその手つきは、母が愛し子にするかのような優しいものだった。
「ああ――
イザナミの目が細められる。白い骨の覗く手が、今度は露姫の頬を撫でた。
「欲しいものがあれば与えてやろうとも。美しい衣がよいか? あるいは甘い
言ってイザナミは地から何かを拾い上げる。微笑みと共に差し出されたそれは、どう見ても崩れた腐肉の塊だった。
露姫は小さく唾を呑み込んだ。目の前の女神の心は、長年の悲嘆と怒りのあまり、常を逸しているのに違いなかった。
それでも――それであればこそ、彼女には言わねばならぬことがあった。
「お招きには感謝を申し上げます。されど、
「なにゆえ?」
「……夫が、待っておりますので」
露姫が言ったとたん――イザナミの腐乱した顔が歪んだ。
黄みを帯びた目が見る見るうちに爛々と燃え始め、頬の傷から膿まじりの血がだらりと垂れて滴った。
「夫! 夫など!
猛然たる怒りと共に女神は吐き捨てる。夫イザナギのことを言っているのだろう。彼女の経験においては、この言葉は正しすぎるほど正しい。
露姫は静かに頭を垂れた。
「そのお痛み、想像して余りあります、イザナミ様。しかし恐れながら、すべての男神がそうだとは、私には申せません」
女神が震える息を吐く。濁った目がじっと露姫を見つめた。
「――
「申し訳ございません。私は帰らなければ」
露姫は顔を上げ、イザナミをまっすぐ見つめ返した。
ここを去らねばならぬのは事実だ。だがこの孤独な女神のために為せることが、もしかすればあるかもしれなかった。
「イザナミ様、共においでくださいませ」
「……何?」
「このような悲しい場所にいらっしゃってはいけません。私と
ざわ、と闇が揺れた。暗黒を形づくる数多の手が、痙攣するように動いている。
イザナミがこちらを凝視する。目元から腐った血がどろりと流れ出た。
「ここで二度と――
女神の逆鱗に触れたのだ。
闇の手が迫り来る。露姫はとっさに印を組んだ。
「
ごう、と風が吹いた。数多の手を吹き飛ばし、微塵に切り刻む。先ほどは不意を突かれて使えなかった印。だが今回は先手を打つことができた。
「おのれ……おのれ!」
引き攣れた声が闇に響き渡る。骨を揺さぶり、砕かんとするような怒り。足元が滑る。片膝が屈し、ぬかるんだ地面に埋まる。その瞬間を見逃さず、闇の手が一斉に迫る。
呑み込まれる。取り込まれる。それでも印を組んだ手を離さなかった。ただ一心に、
――ふと、周囲の怨嗟が大きく爆ぜた。
荒い息をつきながら、露姫は辺りを見渡す。いつの間にか、彼女の周りには
おそらく
だがこれは、たまさかの運だ。あの女神が脱出を許すはずはない。火垂も言っていたではないか――戻ることはほぼ不可能だ、と。
果たして、禍々しいものが迫ってくる気配がした。考えている間はない。露姫は
炎の中に飛び込み、まっすぐに駆けてゆく。黄泉の宮のある方へ。彼がいるはずの方角へ。
冴え冴えとした
それでも走る。走り続ける。熱い。痛い。それでも、先へ。彼の元へ。彼の元へ。彼の元へ。
――ふと、体が浮いた。
いや、体はもうない。
もはや彼女になすすべはない。この先に待つものは輪廻。怨み、憎しみ、嘆き――愛、何もかも忘れ去り、まっさらになって生まれ変わるさだめ。
もうないはずの頬を、もう落ちぬはずの涙が伝う。
形のない手を伸ばし、遠ざかってゆく燎原に向かって空を掻く。
(……火垂様)
ごめんなさい、愛しい人。今の『私』はここまでのようです。
どれだけの時がかかっても、もう一度会いにゆきたいけれど――あなたは待っていてくれますか。
その想いを最後に、『露姫』は消えた。
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