第11話 剣の印

 一日を終えて寝床に入っても、サナエはあまりよく寝つけなかった。目を閉じるたび、あの怨霊の姿や、肉の腐り落ちた黄泉神よもつかみの腕が浮かんでくるのだ。

 全身が冷える。胸が痛む。しとねの上で何度も寝返りをうち、まぶたを閉じてはまた開けることを繰り返した。黄泉の星空は動かないが、ようやく眠りに落ちたのは、おそらく現世でいう暁ごろだったろう。


 その夜の夢には火垂ほたるが出てきた。彼はサナエの顔を見て、何かがあったことをすぐに見抜いた。


「落ち込んでいるね」

「ふふ……火垂に嘘はつけないなあ」


 サナエは力なく微笑い、清めの儀式の顛末を話した。


「……だからもっと修行をして、怨霊が現れても対応できるようにならないと、って思ってるところ」

「なるほど」


 火垂は東の空に視線を向ける。地平線がすでに朱の色に染まり始めていた。

 彼は軽く眉根を寄せ、サナエに向き直った。長い黒髪がさらりと揺れた。


「あまり時間がない。一度だけ見せるから、覚えてくれ」

「え?」


 きょとんとするサナエの前で、火垂は両の手を複雑に組み合わせた。


「両手の薬指、小指を右が上になるように組む。残る指の先を合わせ、中指の第一関節と第二関節に当てる」

「え、え? こう?」

「そして唱える。『あまつるぎあだ災事わざごと、斬り捨てよ』」

「――それって」


 確か黄泉神よもつかみが唱えていた呪言ではなかったか。もたもたと真似をしようとするサナエの背後から、朱い陽が並ならぬ速さで昇り始めた。

 サナエは驚いて振り返る。火垂が表情を硬くして、サナエの肩に手を置いた。


「サナエ、もう行きなさい」

「で、でも、まだ覚えてないのに」

「君なら大丈夫。さあ」

「……火垂」


 朱い朝日に照らされる彼の顔が、燃えるような光の中でぼやけていく。ぐらり、と頭の中が揺れた。

 そのまま周囲が暗くなった。


  ***


 はたと目を覚ますと、黄泉の宮の天井が見えた。

 ゆっくりと起き上がる。全身に汗をかいていた。小袖の襟の合わせに指を入れ、軽く煽いで空気を入れる。大きく息をついて目を閉じ、また開けた。


 白い手たちや犬たちはまだいない。もしかすると黄泉神よもつかみの方へ行っているのかもしれない。

 ――今のうちに、と思った。

 ふすまをはねのけて立ち上がる。暗い中、白い手たちがいつも衣を出し入れしているひつを手探りで開け、赤いはかまを取り出してさっと着つけた。

 室内の灯台をつけるのももどかしく、袴の裾をたくし上げて簀子すのこえんへ出る。常時灯っている松明の火を頼りに、火垂に教わった印を組み始めた。


「薬指と小指を組んで……他の指の先を、合わせる……」


 こうだろうか。完全には自信がない。そして呪言は――何だったか。


「天つ剣……斬り捨てよ。ダメだ、途中が抜けてる。何だったっけ……」


 しばらく頭を絞った。けれど、どうにも思い出せない。

 ざわざわと焦りが募る。せっかく教えてもらったのに。

 強く唇を噛みしめた、そのときだった。


「――あだ災事わざごと、だ」


 低い声に、サナエは驚いて振り返った。

 黒い衣。星々を抱いた長い黒髪。彫像のように整った白いおもて

 この空間で見ることもひどく稀な姿に、サナエは目を円くした。


「……黄泉神よもつかみ様。あの、お怪我は?」


 黄泉神よもつかみは、異なことを訊く、とでも言いたげな表情で左の腕を見下ろした。


「大事ないと言ったろう」

「でも、あんなひどい傷だったのに」


 すれば黄泉神よもつかみは小さく溜め息をつき、肩までほうの袖をまくり上げて見せた。昨日の朝、肉が溶け落ちて骨だけになっていた部位は、すっかり元通りになっていた。


「……よかった」


 サナエはほっと安堵の息をつく。他方の黄泉神よもつかみは軽く眉根を寄せた。


「そのようなことはどうでもよい。つるぎの印を使おうとしていたな。外へ向かって立ち、もう一度やってみろ」

「っ、はい」


 サナエは慌てて庭へ向き直り、印を組みなおして呪言を唱えようとした。

 そのとき、背後から大きな手が伸べられ、サナエのそれに重なった。


「印の細部が違う。右の指を上にしろ。そしてこの指はこちらの関節に添えるのだ」


 長い指がサナエの手を握り、剣の印を整えていく。背中に黄泉神よもつかみの体温を感じる。声の余韻が耳元でこだまし、静かな呼気さえ感じられる。


「心を強く持て。怨霊に取り込まれれば、燎原の果てへと連れていかれ、二度と帰れなくなるぞ」

「……はい」


 予想もしていなかった展開に、心の臓が激しく脈打ち始めた。冷えていた指の先にぽつぽつと熱が灯り始めた。


 長い時間だったか、それとも一瞬だったか。黄泉神よもつかみが離れる。振り返るサナエに、やってみろ、と言わんばかりに目配せをした。

 サナエはしばらく、組まれた印をじっと見つめた。それから目を閉じ、呪言を口にした。


「――天つ剣。敵災事、斬り捨てよ」


 とたん、旋風が湧いた。サナエと黄泉神よもつかみの背を押し、袴の裾を巻き上げて、庭へと吹きつける。庭の木の葉を大きく揺らし、そのまま空へと駆け抜けていった。


「……できた……?」


 サナエは印を解き、振り返る。そしてきょとんと瞬いた。

 そこにはもう、黄泉神よもつかみの姿はなかった。


「あれっ?」


 きょろきょろと辺りを見回すサナエに、愛らしい声がかかった。


つま巫女みこ様!」

「おはようござりまする」

「……黒輔くろすけ白丸しろまる


 犬たちは庭先にちょこんと座り、いつもの上機嫌な顔で尾を振った。


「ささ、今日も元気よくまいりましょう」

「朝のお支度にござりまする!」

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