シュレディンガーの殺人者

魚市場

1 夜の探偵

 春の気配はとうに過ぎ去り、街はまるで、灼けた鉄板の上で喘ぐ猫のように、じりじりと音を立てていた。

 ロサンゼルスの暑さは容赦なく、空も街も人の心も、ひと夏の幻のように滲んでいた。独立記念日から三日が経っていた。祭りの余韻も、煙のように消え失せ、今や街を包むのはじっとりとした湿気と、何かが弛緩したような空気だった。

 昼間の熱気がまだ夜のうちに残っている。それでも、街は眠りにつこうとしているのか、あちらこちらで車の音や人々の足音が遠くで響き、時折、それらが途切れると、静けさが街にしみ込んでいくような気がした。

 その日も、俺は事務所の椅子に腰を沈め、窓の外で遠くに雷鳴を聴きながら、湿気を吸った新聞を読んでいた。ページの隅で、どうでもいい記事が踊っていた。株価が少し戻っただの、銃を売りさばいていたギャングが捕まっただの。読んでも心に引っかかることなど、何一つ無かった。これが俺の日常だ。誰かが仕組んだ芝居の脚本みたいな文句ばかりが並ぶ、そんな日々に慣れてしまった自分が嫌になる。意味もなくぼんやりと過ごしている自分に、無力感さえ覚えた。

 壁に掛けた、ひび割れた時計がチクタクと空虚を刻んでいた。その音が、部屋の中でひときわ大きく響いて、俺の周囲の無音を引き裂くように感じる。ラジオから流れる司会者の声が、無理に明るさを振り絞って「新しい夜明け」などと言っていたが、その言葉はすぐに空へと消えていった。うわの空を撫でるだけで、俺の足元までは届かなかった。外で鳴り響く雷の音が、静かな部屋の中に響き渡り、ひとときの音の波が空気を振動させた。

 煙草の煙だけが、天井を希望のようにゆっくりと漂っていた。ひときわ空虚な空気の中、煙がねじれ、さながら人々の夢が折れ曲がって流れるように見えた。街の喧騒は遠く、今やただ無力に流れる時間だけが俺を支配している。外では風が吹き、そして何かを思わせる音がすれ違う。けれど、その音もどこかで止まる。動きがなくなっていくような感覚を抱えて、俺は何もしていなかった。

 近頃のこの街は、まるで吠えなくなった犬みたいだ。大暴落がまだ生々しく記憶に残る数年前、その余波で数えきれないほどの希望が砕け、今ではその跡地に新しい何かが無理に足場を作っている。通りを歩けば、未だにひび割れた夢の破片が落ちているのが目に入る。崩れた銀行の跡地に生えている雑草、閉鎖された工場の鉄錆、浮浪者たちの群れ。焦げたスープの匂いが鼻をつく。希望というものが、昔どこかで踏み躙られて、今ではもう拾うことすらできない。

 ウォール街の亡霊はハリウッドにまで忍び寄り、フィルムの中じゃ明るく笑うスターたちも、実際にはドラッグと嘘で命を繋いでいる。映画の中では光が満ちているけれど、現実はどうだ。禁酒法が終わっても、密造酒の匂いは消えちゃいない。今度は合法の顔をして、もっと巧妙に酔わせてくる。裏路地じゃ失業者が日雇いの列に並び、メキシコから来た労働者たちは指を潰し、黒人の少年たちは夢を見ることさえ罪にされた。ギャングは「市民の友」として振る舞い、悪徳警官は夜になると彼らと同じテーブルで酒を酌み交わしていた。正義は札束の重さで決まる。

 酒場の女たちは眠ったふりがうまくなり、男たちは酔うことで現実に蓋をしていた。どいつもこいつも、空っぽの酒瓶を胸に抱いて、ただ今日をやり過ごしているだけだ。空を見上げれば、かつての夢が霞のように広がっているが、やがて、すぐに崩れて消えるだろう。人々の心の中に埋もれていたかつての情熱も、もはや見当たらない。どうしてこうなったのか、誰もが知っているような気がしたが、誰も口にはしない。暗い街で、ただ時が過ぎていく。

 そんな時代に生きる俺は、探偵というより、ただの観測者だった。社会のひび割れを覗き込み、そこから垣間見える人間の底を観測する男だ。俺はマービン・カーディナル。薄汚れた帽子と、答えを持たない質問ばかりを抱えている男。今日もまた、事務所の中で、そんな自分を眺めていた。目の前の灰皿に、未だに燻る煙草が小さな炎をあげている。こんな街では、生きているだけで息苦しくなる。たまに、煙草の煙が消えた後に残る熱さに、ほんのわずかな安心を覚えることもあるが、それも一瞬のことだ。


 事務所の電話が鳴った。ラジオから洩れるジャズの音色をかき消すように、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。その音が耳に入ると同時に、何か不穏な予感が胸を締めつけた。受話器を取り上げると、くぐもった声が耳に届いた。何度も耳にしたことのある声だ。ラングレーだ。以前、第十三分署で一緒だった後輩の刑事。今では確か、警部補として名を上げているはずだ。

「……マービン・カーディナルさん。まだ、探偵業を続けていらっしゃいますか?」

ラングレーの声は、どこか少しわざとらしく、ぎこちなく笑っているようだった。

俺は、少しだけ意地悪く笑いながら答えた。

「なんだよ、ラングレー、今さら他人行儀だな。まさか電話の相手を間違えたんじゃないか?」

「いえ、失礼しました。ただ、こうしてあなたに連絡を取るのも久しぶりなので……」

ラングレーは少し間を置いてから続けた。

「最後に顔を合わせたのは、あの倉庫火災の時か。あの時、お前がハンカチ噛みながら咳き込んでいたのを思い出したよ。随分立派になったな。警部補だろ?」

「一応、肩書きだけは、ですが……中身はまだまだですよ」

「で? そんな未熟な警部補様が、深夜に元同僚の探偵を思い出したってわけか。俺との酒が恋しくなったか?」

「実は、ちょっと変わった出来事がありましてね。あなたに意見を伺いたくなったんです」

「変わった出来事、ね。変じゃないことの方が珍しい時代だが……それはつまり、事件ってことか?」

「たぶん。いえ、間違いなく事件だと思うんですが……少し事情が入り組んでいて。念のために、話を聞いてもらえたらと思いまして」

「警察には山ほど人がいるだろう。俺もこう見えて意外と暇じゃないんだ。何せ、全部一人でやらなきゃいけない。猫の手も借りたいくらいだ」

「ええ、分かっています。でも……時々、昔のやり方が必要なこともあるんです。あなたのような、足で稼いで煙の中に入っていく人間が」

「買いかぶりだな、ラングレー。今の俺は、もっぱら、素行調査をしているだけだ。それでもいいなら、話ぐらいは聞いてやるよ」

俺は灰皿に煙草をねじ込んで、指先の灰を払った。

「明日の朝、マクダフィーでどうだ? 例の角のソファ席。今も座るとギシギシ鳴くあれだ」

「……ありがとうございます。助かります。やっぱり、あなたに相談してよかった」

「まだ何もしてねぇがな。でも、話くらいは聞いてやるよ」

電話の向こうで、小さな呼吸の音が間を繋いだ。

「明日、十時。コーヒーはおごれよ」

「もちろんです」

 ラングレーの声が切れると同時に、受話器からも静けさが戻った。外は、まだ夜の熱がうねっていた。だが、俺の胸の奥で、遠く雷のような音が鳴り始めていた。


 翌日の朝七時。

 マクダフィー・ダイナーのガラス扉をくぐると、コーヒーとベーコンの匂いが空気の重さに混じって、肌にまとわりついた。ジャズともブルースともつかない旋律が、レコードから垂れ流されている。

 角のボックス席にはラングレーが座っていた。ネイビーのスーツに黒のネクタイ。髪はきっちり七三分け、皺のないワイシャツの襟元が神経質なほどきっちり閉じている。だが、目の奥に浮かぶ憔悴が、連日ろくに眠っていないことを物語っていた。

「ラングレー、お前が朝メシ付きで人を呼び出すなんて珍しいな」

「マービンさん、遅いです。約束の時間から七分、あなたの時計では誤差かもしれないが、警察じゃ遅刻です」

「悪かったな。目覚ましのベルより、この街の空気のほうがよっぽど不快で目が覚める」

 俺はコートを脱ぎ、向かいの席に腰を落ち着けた。ウェイトレスが無言でマグカップに黒い泥水を注ぐ。安いコーヒーの苦味は、ある種の真実みたいなものだ。口をつけるたびに、過去に置き去りにした記憶が、うっすらと舌の上に蘇る。

「マービンさんがこの手の話を嫌いでないことを、祈っておりました」

「俺の仕事は“嫌な話”を集めることだからな。ところで、報酬はあるのか?」

 俺は金で動くような器じゃないつもりだが、冷蔵庫には氷すらなく、ポケットはタバコの箱より軽かった。

「正式な依頼というわけにはいきませんが……捜査協力という形なら、多少の謝礼はお出しできます。署の経費で、ささやかながら」

「なるほど。俺の価値も、経費で落ちる時代ってわけか。まあ、酒代くらいにはなるだろ。で、どんな事件だ?」

ラングレーはコーヒーに手をつけず、少し身を乗り出した。

「現場は、ヴァーモント・スクエアの815 E. 4番街にあるサンセット・ヴィラというアパートの二〇一号室です。被害者はハワード・ノーウッド。六十代の男性で、職業は画家。個展も年に数回開いていたようです。十年前に妻に先立たれてからは、男やもめで、家族はミスター・グリズウェルという名前のペルシャ猫だけです」

「で、その絵描きが殺されたのか?」

「ええ。恐らく……」

判然としない物言いだ。

「遺体が見つかったのはキッチンです。通報者は、同アパートの一〇一号室の住人、モリー・スロー、五十二歳。中年の女性で、天井から水が漏れているとかで文句を言いに二〇一号室のドアの前に行ったそうです。しかし、いくら声をかけても応答がなかったため、警察と救急に通報したそうです。現場に到着したのはダニー・ヘンドリックス巡査。配属からまだ半年の新米ですが、誠実な奴です。彼が部屋に入り、遺体を発見しました。額に銃弾を受け、即死と思われます。ノーウッドの頭がシンクの排水口を塞ぎ、血に染まった水がシンクから溢れて、床にまで流れていたそうです。殺人と断定できないので、不幸な事故という体で各部屋の住人に聞き込みを行いました。住人達は、夜八時半頃に銃声のような音を聞いていたそうなので、ノーウッドの死亡時刻は夜八時半頃だと思われます」

「銃声を聞いた奴は、なんですぐに通報しなかったんだ?」

「この日は独立記念日で、目の前の通りで花火を鳴らしたり、爆竹をあげたりしてる若者がいたそうです。その為、住人達も銃声だとは思わなかったそうです」

「死体が発見された時、部屋の鍵はどうだった?」

「施錠されていました。シリンダー錠です。部屋の内側からはツマミで、外側からは専用の鍵で閉めるタイプのものです。ヘンドリックス巡査が体当たりでドアを破壊しました。ちなみに、鍵は室内から発見されています。ノーウッドの寝室にある、壁に付けられた棚の上の小皿に置かれていました。部屋も荒らされた形跡は、ありませんでした」

「マスターキーは?大家ならマスターキーを持っているだろ?」

「大家は、オーリン・バーチという六十六歳の男です。この建物の一〇二号室に住んでいます。マスターキーを管理しているのは彼ですが、事件当時は外出中でアリバイがあります。孫の誕生日祝いで、息子夫婦の家にいたとのことです。その間、彼の部屋も施錠されていたので、マスターキーの使用は困難だったと見ています。それに、ノーウッドは芸術家にありがちな変わり者ではありましたが、温厚で人から恨みを買うタイプの人間でなかったようです」

「じゃあ、内側から鍵をかけて……自殺の線は?」

「遺書は見つかっていません。しかも、現場には拳銃もありませんでした」

「なるほど……」

と俺は低く呟き、重たい空気を吸い込むように息を吐いた。

「もし、ノーウッドが自ら命を絶ったのだとしたら、肝心の凶器である拳銃が忽然と姿を消しているってことになる。だが、仮に誰かがノーウッドを殺したのだとしたら――」

言いかけた言葉は、熱を持ったまま喉の奥で沈黙に変わった。

俺は灰皿に溜まった灰の山へ、くゆらせていた煙草の火を押しつけた。ジュッという短い音が、場の静けさを切り裂くように響いた。

俺は、天井へ向かって漂いはじめた煙を見上げながら、ぽつりと呟いた。


「――密室殺人、ってわけか」

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