04 嵐の夜に
雨が小降りになるのを見計らってアシュレイは漣亭から自身の事務所兼住居へと戻ってきた。魔法障壁のおかげで高波や浸水などの被害を受ける心配はないが、窓から外を覗けばふだんとはようすの異なる海が見てとれた。
フリルドマーニュを訪れている観光客にとってはあいにくの天気だ。しかもこれからもっと強く降る。
――嵐になるかもしれない。
アシュレイは頬杖をつきながら空模様を読んだ。分厚い黒雲が広がり、大気中には密度濃く水の気配がある。
藍玉案内人の予約はちょうど入っていなかったのが幸いだった。こんな悪天候の日にフリルドマーニュの海に連れ出すわけにはいかない。仕方がないので事務仕事でも片付けるか、と机に向かった。
ある程度区切りがついた頃に「うわーびちゃびちゃ……」と顔をしかめながら、濡れ鼠になったミレットが訪ねてきた。タオルを持って来て渡してやるとくしゃみをしながら濡れた髪や服を拭い始める。
「雨除けの加護を付与した指輪はつけていなかったの?」
「漣亭を出たときはそんな降ってなかったし、いいかなって思ったらこれだよ。あれ結構値が張る魔鉱石使ってるしメンテナンスが大変だからって、外すんじゃなかったなあ」
髪を拭いながらミレットは嘆息する。激しい雨風が窓に吹きつけられているさまをぼんやりと眺める。今夜は漣亭まで出かけるのは難しいかもしれない。そう思ったとたんにぐきゅるる、と腹の虫が鳴いた。
薄く切り分けたパンとチーズのみという簡素な夕食を終えたアシュレイは事務所のソファでブランケットをかぶって横になった。「後生だからこの雨の中追い出さないで、泊めてくれ」と懇願したミレットに私室のベッドを譲ったからである。
硝子張りの天井を見上げると、波音と重なるように響く雨音が降って来る。
魔法障壁で守られているとはいえ、音までも遮断できない。ふだんのフリルドマーニュの雨は、しとしとと大地を湿らせる程度のものが多く、アシュレイは子守歌のように感じながら眠ったこともあった。
だがいまのこの暴風雨には心地好さなどなく、不安が掻き立てられるばかりだ。いっそ眠ってしまおうとして目をぎゅっと閉じたとしても濃密な雨夜の気配が室内にも漂っていた。
そのとき、アシュレイを呼ぶ声が聞こえたのだった。
「……ヨール?」
おおん、と波音に混じるようにして耳慣れた鳴き声が響いている。おおん、おおん、と何かを知らせるように声は雨音に潰されながらもアシュレイのもとに届いた。
居てもたっても居られずに桟橋に続くドアを開けると、勢いよく雨風が吹き付けてくる。腕で顔を庇いながら声のする方へと歩いた。
「どうしたのヨール」
アシュレイの姿をみとめて、ヨールは桟橋の近くへと寄ってきた。呼び出してもいないのにこうして姿を現すのは珍しいことだった。
水魔もとい魔獣は、ひととは異なる理の中で生きている。それを対魔獣契約という魔法によってひとの理のもとで縛っているようなものだ。
契約することによって人間に力を貸してくれる善き隣人となっても、種類によっては人間を襲い喰らうこともある――ひと昔前ではすべてが討伐の対象だったくらいだった。
ヨールは温厚でひとに親切な性質ではあるが、アシュレイが契約している水魔の中には気性の荒く気まぐれなものもいた。
「ヨール」
ヨールは、おおぉん、おぉんとアシュレイを呼んでいる。何事かを訴えているようだが、正確には読み取れない。差し出された首を撫でようとすると、はむとアシュレイの腕を甘噛みする。
「……乗れ、って言っている?」
おおん、と応えたヨールは早く、と促しているようにも思われた。このひどい雨の中を呑気に散歩したい、とかではないだろう。何かよほどのことが起きているのだ。
「わかった。行って、ヨール」
背に乗ると長い首を叩いて促してやる。いつにないスピードでヨールは嵐の海をぐんぐん泳ぎ始めた。どこかに連れていこうとしているようだ。闇雲にではなく、どこか目的地に向かって進んでいるような気がした。
ヨールが気をつけてくれているのはわかるのだが、眩暈がしそうなほどに速い。水魔が本気を出せば人間が振り落とされてしまうくらいの速度が出ることを思い知らされる。
「……あれは」
異変に気づいたのは空は分厚い雨雲に覆われ、漆黒の闇に染まった海をしばらく泳いだ頃だった。小型の水魔の群れがふよふよと海面近くまで浮上している。好奇心旺盛で生息域に見慣れないものがあると近づいてくる習性があった。
発光する水魔が群がる先に、何かの残骸が浮かんでいた。
他にも木箱や大きな木片のようなものがぷかぷかと海面に漂っている。
「もしかして船が転覆したのか――これを知らせたかったの、ヨール?」
おおん、と鳴いてヨールはアシュレイに応える。
生存者はいないか、と目を凝らしたがアシュレイにはよく見えなかった。散らばる木片を避けながら進んでいたヨールが、何かに気づいたように速度を上げる。振り落とされないように首に縋りついたときだった。
「っ!」
ざぶん、と大きな波を立ててヨールが潜水した。引きずられるようにしてアシュレイの身体も海中へと沈んでいく。
水除けの加護があるイヤリングのおかげで呼吸は出来たが、突然の行動にさすがのアシュレイも動揺していた。首を叩いて海面に戻るように促したが言うことを聞こうとしない。温厚なヨールには珍しいことだった。
――あれは。
揺らぐ視界の隅に、影が見えた。
ゆっくりと海底へと沈んでいく人影。
そちらに向かってヨールはみるみる加速していく。アシュレイは片腕でヨールにしがみつきながら、沈みゆく小さな身体にもう片方の手を伸ばした。
アシュレイが掴んだのを確かめるように振り返ってから、ヨールはゆっくりと浮上し始めた。
「っ、はぁ……」
海面にたどりつくとすぐ、溺れていた人物をヨールの背に引き上げる。
まだあどけなさの残る少年だった。体格からしておよそ十二、三歳といったところだろうか。身体はすっかり冷え切って、頬は青ざめている。
「ねえ、君! しっかりするんだ」
何度か呼びかけたが反応はない。うろ覚えの知識ではあったが、少し前に本で読んだことがあった人命救助の方法を試すことにする。
「――」
すう、と深く吸い込んだ息をこじ開けた唇から吹き込む。特に魔導士の吐息には魔素が溶け込んでいるから、治癒効果もあるらしい。それから……胸のあたりを強く押して心臓の鼓動を促そうとしたときだった。
ごほ、と少年は飲み込んでいた水を吐き出した。眼がうっすら開いている。
「気がついたか⁉」
「……」
はくはくと唇がわななく。
何事かを呟き、少年の意識は再び闇の中に沈んだ。胸に耳をくっつけて鼓動と呼吸の有無を確かめてから、アシュレイは安堵の息を洩らした。
「なあヨール……私の聞き間違いじゃなければ、この子『人魚』とかなんとか言ったような?」
まさかとは思うが自分たちのことではあるまい、そう考えたアシュレイだったが。
おおん、とヨールは首をかしげるばかりだった。
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