みんなの1か月

@Iiniku456

第1話「さよならまでの一か月」

申請が受理されたのは、雨の午後だった。

 病室の窓を叩く雨音と、スマートチップに届いた通知音が重なり響いた。


 ──申請番号:D-09342。"国家管理型終末選択制度申請"、受理されました。



実施予定日:1ヶ月後。



 枕元で目を閉じていた父は、その音に気づいて目を開けた。



 窓の外は灰色の空。6月の空はこんなにも重いものだったろうかと、

葵(あおい)は思う。


「……来たか」


 父の声は静かで、どこか諦めに似ていた。

 葵は唇を噛んだ。何度も反対した。泣いて頼んだ。

 けれど、末期の膵臓癌は、もう痛み止めすら効かなくなっていた。


「立会人を……決めなきゃいけないんだろ?」


 葵はうなずいた。義務教育のカリキュラムで習う。

 安楽死法の制定以来、死亡までの猶予期間は“人生最後の自由”として保証されている



 ただし、その“自由”には監視と責任が伴う




「……私が、なるよ。立会人」


 葵の声は震えていた。父の視線が、少し驚いたように動く。


「いいのか? 一緒に、全部を見ることになるんだぞ。最後まで、逃げられないんだぞ」


「逃げたくないよ。……お父さんのこと、ちゃんと見てたい」


 父の頬がゆっくりと緩む。

 初めて笑ったような気がした。




父の申請が受理された翌朝、病院のベッドは空っぽだった。

 看護師に聞けば、午前6時には退院の手続きを済ませたという。


 自宅のチャイムが鳴ったのは、朝7時ちょうど。

 玄関先に立っていたのは、病衣ではなく、ジャケット姿の父だった。

 痩せていた。目の下にうっすらと隈があり、背筋はわずかに曲がっていた。

 それでも、その表情は……なぜか少し、晴れやかだった。


「おはよう、葵。朝ごはん、一緒に食べないか?」


 葵は驚いて、すぐにうなずいた。


 久しぶりに湯気の立つ味噌汁と、炊きたての白ごはんの匂い。

 病室ではもう感じられなかった“日常の味”が、キッチンに広がっていく。

 父は黙って箸を持ち、静かに、そして丁寧に朝ごはんを口に運んでいた。


「……こうやって、朝起きて、飯を炊いて、湯を沸かすだけで、もう……満足だな」


「……なんでそんなこと言うの。まだ、時間あるじゃん」


 葵は、思わず言葉を荒げてしまった。

 父は少し目を細めて、微笑んだ。


「そうだな。時間はある。だから、今日一日を“生きよう”って思ったんだ」


 その日の午後、ふたりはかつて住んでいた古い団地に向かった。

 10年前に母が亡くなってから、父は仕事に明け暮れ、娘は思春期の孤独に閉じこもった。

 埋まらなかった心の距離。

 でも今は、不思議と話せた。些細なことが。


「……あのとき、ごめんな。きっと俺、逃げてたんだよな」


「ううん。……私も、ちゃんと話せてなかった」


 錆びた階段を上り、懐かしい景色を見下ろす。

 そこには“何もなかった”のに、“すべてがあった”。


 ──申請から1日目。

 彼は、確かに生きていた。





──治療用の薬の投与をやめたので、少しだけ父の体の痛みがなくなった。


しばらくたったある日、父と葵は、古本屋の帰りに喫茶店に入った。

 駅前の古びた店。


母とよく通ったと言って、父が急に立ち止まったのだ。


 店内にはジャズが流れ、窓からは夕日がオレンジの光を落としていた。


「……母さんも、ここ好きだったの?」


「コーヒーが飲めないくせにな。よく“雰囲気がいい”とか言ってたよ」


 父は笑いながら、窓際の席に腰を下ろした。

 そして、ゆっくりと鞄の中から一通の封筒を取り出した。

 大学のロゴが入った封筒。差出人欄には、父の名前と肩書きが書かれていた。


「……これ、推薦状?」


 父は少しだけ目を伏せ、しかしはっきりと答えた。


「お前が美大に行きたいって言ってたろ? 俺...昔、芸術系の専門学校で非常勤講師やってたことがあってな。今も、何人か恩のある教授と繋がってるんだ」


 葵は驚いた。

 父がそんな経歴を持っていたことを、初めて知った。


「……でも、なんで黙ってたの?」


「教えても、お前はきっと夢を重ねたろ。俺みたいに“挫折”した人間に。でも俺は、それを見せたくなかった。……同じ苦しみは、お前に味わってほしくなかった」


 幼いころ、葵はよく母の似顔絵を描いていた。

 白い画用紙に大きな目と優しい口元。

 母はそれを見るたびに、何度も何度も笑った。


「“葵の絵は、みんなを笑顔にする”って、母さんよく言ってたよな ……

俺も、そう思ってたよ」




 母は病に倒れ、枕元で葵の絵をずっと見つめながら息を引き取った。

 それでも父は、娘に絵を続けさせようとはしなかった。

 ただ“生きていける道”だけを与えようとした。


「……でも、この前さ。病室で、お前が俺の似顔絵を描いてくれて……思い出したんだよ。母さんの笑顔を」


 父の言葉に、葵の目に涙が滲む。


「だから、せめて……俺がいなくなったあとでも、“お前の描くもの”を信じてくれる誰かが、そばにいればと思ってな」


「……なんで今になって、そんなこと……」


「お前に“夢を見る自由”を残したいんだ。俺が奪ったままじゃ、終われないから」


 葵は下を向いたまま、紙ナプキンを握りしめた。

 涙が落ちる音が、静かなジャズの中で溶けていく。


「……やめてよ、そういうの」


「そういうのって?」


「なんか……もう、お別れみたいにするの。まだ半分以上あるんだよ?」


 父は、ほんの少しだけ目を潤ませたが、優しく笑った。


「……そうだな。じゃあ今日は、泣くの禁止な」


 夕日がゆっくりと傾く中、ふたりのカップが静かに鳴り合った。





身の回りの整理整頓がひと段落ついた後にふたりは、郊外の墓地にいた。

母の眠る場所へ、手を合わせに来たのは久しぶりだった。



 空は澄み切っていて、春の光が降り注いでいる。

 手土産のカーネーションと缶コーヒー。母が好きだった“甘いやつ”。


「……お母さん、久しぶり」


 そう言って、葵はそっと手を合わせた。 

お父さんはいつものように黙って立っていた。でも、今日は花を整える手が丁寧だった。


「進路のこと、報告しに来たの。まだ受かるかわかんないけど、美大目指すって、ちゃんと決めた」


 風がふわりと吹き、枝の先に咲いた白い花が揺れた。 



返事はない。でも、なぜか聞いてくれている気がした。


「……お父さん、コネがあって推薦状まで書いてくれたんだよ」 


「おい、言い方」

 隣で、お父さんがぽつりと言う。



 思わず吹き出した葵に、お父さんも笑った。


 そして――ふと、お父さんが墓に向かって言った。


「……そろそろ、そっちに行くからさ。待ってろよ、あんまり急かすなよ?」


「……ちょっと!」


 葵は肩を叩いた。


「そういう冗談、今は笑えないから」


「冗談か本気かは……お前次第かな」


 その言葉に、葵はしばらく何も言えなかった。 風がまた吹き、カーネーションの花弁がひとひら、地面に落ちた。


「お母さん、お願いがあるの。……お父さんを迎えに来るなら、もうちょっとだけ待ってあげて」


 それが願いなのか、命令なのか、自分でもわからなかった。 



でも――母が横で小さく「了解」とつぶやいたのを、確かに聞いた気がした。




父の施行日が刻一刻と迫る中、葵は一心にキャンバスと向き合っていた。描いているのは、父の肖像画だった。無骨で、不器用で、でもどこか優しさを隠しきれない、その表情を。納得のいくまで筆を動かし、色を重ねていく。



父は最初、少し照れたような様子でその絵を見ていた。


「そんなもん、描いてどうすんだ」


けれど、日を重ねるごとに、葵の描く自分の顔にじっと目を向けるようになり、

ついには、静かにこう言った。


「お前、本当に……絵が好きなんだな」


描き続けるその姿を見て、父の中で何かが少しずつ変わっていくのが、葵にも分かった。厳しくて、言葉の少なかった父が、ぽつぽつと昔話をするようになった。母のこと、若い頃の自分のこと、そして、絵を描く葵への思い。


「俺はな、お前の絵が好きだったよ。小さい頃から、よく似顔絵描いてたろ。母さんのも、近所の人のも……。あいつ、よく言ってたんだ。『葵の絵は、みんなを笑顔にする』って」


「うん……覚えてる。だから、私、美大に行きたいって思ったの」


そして施行日が目前に迫ったある日、美大の面接日程が届いた。

施行日と、面接日が重なっていた。


その事実を知った瞬間、葵は面接を諦めようとした。

「行かない。行けないよ……

そんな日じゃ笑えないし、ちゃんと話せない」


父は少し眉をひそめ、ゆっくりと座り直した。

「お前、それ本気で言ってんのか?」


「だって、お父さんの最期の日にそばに居れないなんて……」


「最期の日に誰がいようが、どうでもいい。そんなもん、自己満足だ」


「……!」


「俺はな……正直に言うと、今までお前の夢なんてちゃんと考えたことなかった。自分がどう死ぬか、そればっかりで。でもな、この一か月で分かったんだ。

お前の背中を、支えたくなった。遅せぇけどよ……」


葵は俯いたまま、唇をかんだ。


「でも……それでも、私、行かない。だって後悔する」


「だったら、行け。……後悔するのは、行かなかった方だ」


「……っ、なんでそんな勝手なこと言えるの?」


「親父だからだよ。……お前にだけは、前向いて生きてほしいんだ」


沈黙が流れたあと、葵がぽつりと呟いた。

「お母さんも、きっとそう言うよね……」


父はゆっくりと頷いた。

「だからこそだ。お前が、ちゃんと進んでくれたら、それだけで……俺は、もう十分なんだ」


施行の朝。


葵は、完成した肖像画を父に見せた。そこには、どこか母に似た、柔らかい笑みを浮かべた父の姿があった。


「……悪くないな」

父がぽつりとそう言って笑った。


「お母さんが言っていたように、みんなを笑顔にする絵、描けたかな」


「……ああ。母さんも喜ぶさ」


葵は大きく息を吸って、言った。

「じゃあ、行ってくる」


「行ってこい。自分の道を、歩け」


父はその日、政府の定めた手続きに従い、静かに旅立った。


面接を終えて戻ってきた葵が見たのは、父の部屋に飾られた自分の絵だった。


机の上には、一枚の封筒が置かれていた。


──推薦状。


何枚か用意してくれていたみたいだ。


封を開けると、そこには父の拙い文字でこう綴られていた。


『推薦できるような立場じゃないけど、あいつは本気で、絵を描いて生きていこうとしてる。

だから、頼む。どうか、あいつの夢を応援してやってくれ』


その下には、父のフルネームと捺印。


涙が止まらなかった。


その推薦状がどれだけの効力を持つかはわからない。

でも、葵にとって、それは世界で一番重みのある推薦状だった。


一か月という短い時間の中で、父は変わった。そして葵も。


美術大学の合格通知が届いたのは、それから少し後のことだった。


春の光の中で、葵はまた、新しいキャンバスを広げた。

筆を手に取って、思い浮かべたのは——母の優しい笑顔、父の不器用な愛情。


ゆっくりと、3人の家族が並ぶ絵を描きはじめた。

そこには、もう会えない二人と、確かに繋がっている未来があった。




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