第13話 『コレジャナイ王国の栄光、ここにあり(別になくても困らない)』


 さて、ここで一年ほどさかのぼり、御前会議の後からの話となる。


 国王陛下が街道整備計画を中止したとの噂は、御前会議の日の夕方には王都を駆け巡る。

 防諜体制がザル過ぎないかと内務大臣が頭を抱えてしまったくらいに、会議内容の詳細は外部に流れ出してしまった。

 この日国王陛下がようやく諦めたかと、庶民一同しぜんと盛り場に集まり、遅くまで乾杯の声が途切れる事は無かったという。


 一か月後、国王陛下からの御言葉がるという事で、王都の方々に設置された拡声器の前に集まるように通達があった。

 ファリスも様子見を兼ねて、近くの市場に設置された拡声器の前に集まる群衆に溶け込む。

「ウン・レーニョ・ドゥヴェ・レ・スフィ・スペリコラーテ・スィ・リベラノ・ブオネ・ペル・カーゾ王国の臣民に告げる……」

 指定の時間となった後、少し聞き取りにくい音声で国王陛下の声が広場に響き渡る。国王陛下も正式国名間違えるんだなと、ファリスはどうでもいい事に気を取られてしまう。

 広場に集まった人々は神妙な面持ちで耳を傾けている。内容については草稿を宰相殿と共に纏めたものがベースなので、「今更聞いてもなあ……」というのがファリスの本音だ。


 国王陛下は結構強い感じの表現がお好きだという事で、ファリスは小難しい語調の強い言葉を並べてみた。判りやすく言うといわゆる厨二病というやつである。

 草稿を目にした国王陛下は「わかっているではないか」とご満悦で、修正もなく一発で了承したそうだから、まあ求めていたものではあったのだろう。

 拡声器から聞こえてくる演説は情感に溢れ、国王陛下は感情移入も随分している。聴衆も結構聞き入っているようだ。


 少し広場から離れ、街路を散策しながら歩く。

 交差点に置かれた拡声器の前では、薄汚れた格好だが明らかにお貴族様という一団が演説を聞いてむせび泣いていた。

 多分彼らは破綻した小領主地帯のどこかの領主や家臣なのだろうなと思う。なぜだかファリスは後ろめたい思いに襲われて、ふいと彼らから目を逸らす。


 ファリスは自分が成し得た事は何なのか、改めて考える。没落小領主たちの更なる不幸を止めたのかもしれないし、もっと上手く立ち回れば、彼ら彼女らが路頭に迷う事すらなかったのかもしれない。


 彼ら彼女らはあんなにボロボロになってまで貴族の矜持は捨てず、国王陛下への忠誠心を変わらず抱いている。

 ファリスも彼らに一定の敬意を抱いている。なのでこうやって純粋な忠誠心と献身を示されると、いいとこ取りな一庶民の自分の立ち回り方が、後ろめたく感じる事もあるのだ。


 しかしそれはそれ、これはこれ。そう割り切って後ろを振り返らずに前に進むのがコレジャナイ王国民のあるべき姿だ。

 転んでもただでは起きない国民性の本領発揮はまさにこれからと言える。

 取り敢えず今日の所はコミューネス領の館に立ち寄り、シャブナムと晩御飯でも食べに行こうと思いつつ、ファリスは足取り軽く歩みを進めた。


  *


 王都は来年の戴冠式に向けて王侯貴族が動き出し、様々な需要を満たすべく商人たちも活発な往来を始めた。

 つい先月までのお通夜の様な不景気な空気は一掃され、人々の表情も明るい。

「あのう、ちょっとお伺いしても良いですか?」

「なんだい嬢ちゃん、あんたみたいな美人が貧民窟なんざうろついていたら碌な事にならねえぞ」

「ご心配なく。腕の立つ護衛がいるから大丈夫です……それでお聞きしたかったのは、この辺りにルノアール子爵とホシノ男爵のご関係の方々がいると伺ったのですが?」

「あいつらか……別に教えてやっても構わねえが、情報ってのはタダで手に入るものに碌な物はねえよ。それがここでのルールだ」

「ああはいはい、心得てますよ」

 手にした小袋は銀貨数枚くらいかと男は計り、袋の中身をちらっと覗いて妥協してやったという顔になる。

 果たして男の言っていた場所には、身を寄せ合って煮炊きをしている一団がいた。

「ごめんください。ルノアール子爵様か、ホシノ男爵様はいらっしゃいませんか?」

「ホシノは私ですが…………どちらさまで?」

「ああ私、宰相殿の臨時文官をしています、ファリス・タリーズと申します…………」


 街道整備計画の頓挫の後始末と同時に、我らが宰相殿は失地領主と呼ばれるようになった、破綻した小規模領主たちの救済に心を砕く。

「領主にとって領地とはそれこそ我が身に変えても守るものなのだが……」

「気持ちはわかりますけど、家臣どころか家族も生活できないくらい細分化しては、意味がないと思いますが?」

「まあ、そうなのだがな……」

 彼らの旧領は規模が小さすぎ、まともな経済活動も出来ていない。

 そのため彼らの旧領は、出来る限り隣接している分割前の親戚や遠戚など、血縁者を中心に吸収合併するよう宰相殿は命じた。


「それで?陸で仕事をしていた者たちが、本当に海に出て役に立つのか?」

「コミューネス領で、仕事にあぶれていた人たちを鍛えて船乗りにした実績があります。小領主の皆さん、結構自分たちも領民に交じって仕事する方多かったですから、力仕事は大丈夫かと……」

 ファリスは彼ら失地領主に最近建造の進む快速船の船員として転職してもらい、ずたずたになった物流網を海から再建してもらう人材となるよう宰相殿に提案した。

 ファリスの説明によると、船乗りもある程度読み書きや計算が出来る必要があり、下級貴族とその家臣であれば、その点に問題はない。

 何より団結力が高いので、多くの人が機能的に動かなければならない船向きの一団という話だった。

 宰相殿も失地領主対策と国家再建のための妙手と思い、その案に乗った。


 幸いと言うか怪我の功名と言うか、失地領主とその家臣たちは王都に集まっており、声をかけて回るのに都合が良い。

 そして彼らが船乗りとして転職しやすい様に、ファリスの発案で宰相殿はもう一つの仕掛けを作った。

「船を領地に見立て、ある程度の自治権と特権を付与するとは……タリーズ君もよく考えたものだ……」

「あと、港ごとで免許制にして上限を設ければ、船の数や大きさが無尽蔵に拡大する事もないかと」

 宰相殿はその案も採用し、港の人口に応じて船の数に制限を設けた。


 のちに領地船と呼ばれるこれらの船は、元貴族とその家臣団という結束の高さから、安全性と信頼度の高い船として、諸外国からも数多の引き合いがくる船団となる。

 この施策は失地領主たちにとって相当な光明となったようで、声を掛けた彼ら彼女らは一も二もなく乗って来た。

 残念ながら離散して犯罪に走った者たちもいたが、服役して更生した者たちはこの領地船で優先的に雇われ、ようやく安堵出来た者も多かったという――――


 これら快速船は、当初ファリスが趣味と実益を兼ねて実験的に作ろうとしていたものに、コミュ―ネス領の領主が面白半分で乗って始まったものだ。

 その後ファリスが気前よくあちこちに建造時の資料やノウハウを提供したため、各地で快速船建造の機運が高まる。

 結果国王陛下が街道整備を断念した頃には、すでに快速船が各地の港に浮かび始め、船員の訓練が開始される所だったのだ。


 そこに大量の船員候補者が宰相殿の斡旋で現れたわけで、船団を編成中の各港でもろ手を挙げて歓迎された。

「しかし、タリーズ君の慧眼けいがんには全く恐れ入る。おかげで本来大いに頭を悩ませる問題だった失地領主の問題があっという間に片付いてしまった」

「まあこれも偶然ですからねえ……」

「ん?こうなる事を見越してあちこちの港に資料をバラまいたのではないのか?」

「いえその……酒の席で興が乗った時にお喋りしたくなってですねえ……文献で見た快速船が、舳先を並べて走る景色を眺めたいかなあ……って……」

「本当にそんな理由で、もしかしたらひと財産築けるかもしれない情報を?」


 申し訳なさそうなファリスの態度に、宰相殿もさすがに呆れる。

 要は人の金で自分の妄想を実現させた訳で、文官でなかったら稀代の詐欺師にでもなれたのではないかと思える。

 ファリスが権力や名誉に無欲な人物で本当に良かったと、宰相殿は胸を撫で下ろす。


「しかしまあ、船腹は広く、足は長くなったが……後は運ぶものだな」

「うーん、まあそちらは何とかなると思います」

「そんな簡単なものとは思えぬが……現に商人たちは何か売り物がないかと全国を駆け回っていると聞く」

「量の確保という意味では探したほうが良いのは確かですね。でもまあ、我が国自慢のお野菜をより遠くまで運べるようになったんですから、それだけで十分かもしれませんよ?」

「ああ……まぁ……そう言われれば、そうなのか?」


 実際、そうなった。

 幸い街道整備は港に繋がっている場所が多く、陸上では整備された街道を、海上は新造された快速船が駆け回り、より安くより遠く、船は諸外国の港を巡って物流を活発化させ、莫大な富を各港にもたらす事になる――――


  *


 戴冠式の日、ファリスは街中にいた。

 普段は着慣れないワンピースのスカートを翻し、にぎやかに飾り立てられた通りを進む。王城には国内の貴族諸侯、そして周辺国から列席した国賓が式典に華を添え、礼装に身を飾る王国騎士団が槍を揃えて威容を示す。

 城下ではこの日のためにと振る舞い酒や炊き出し屋台が各所で開かれ、街に繰り出す人々で周囲はごった返している。

「よくもまあ、間に合ったなあ……」

 王都に溢れる食料品と酒は、次々に就航した快速船が王国の港に持ち込んだものも多々あった。


 屋台に並ぶ品々は、これまで市中で見かけたことも無い物も結構混じっている。

 それはご挨拶代わりにと、宰相殿が快速船の運んできた遠国の産品を大盤振る舞いで市中に流した結果だ。

 とはいえこれは慈善事業ではなく、タダ飯とタダ酒で胃袋を掴み、新たな需要を作る目的あっての振る舞いだ。

「何にせよ、楽しみにしてたんだよねー」

 物珍しすぎていまいち人気のない遠国の食べ物をつまみながら、ファリスはコミューネス領の館を目指した。


 館の前に居たシャブナムはファリスを見つけると、大きく手を振って小走りに近づく。

「お、今日はまた見違えたなあ……」

 その言葉にファリスは照れて目を伏せる。

 取り敢えず今現在の自分が出来る精一杯のおしゃれをしてきたつもりだが、道行く人々の着飾った煌びやかな装いも色々目にしてきたせいか、少々自信喪失気味になっていたのだ。

「どう、かな?」

「うん、めっちゃ似合ってる。連れ立って歩くのが誇らしいよ」

「ほんとにー?なんかほめ過ぎな気がするけど……」

 そう言いつつ照れて嬉しそうなファリスにシャブナムも相好を崩し、耳元を飾る髪飾りが自分の贈ったものと気付いてそれも褒める。

 なぜかファリスは髪飾りを手で隠して真っ赤になり、「もうかんにんして……」と消え入りそうな声で言うものだから、シャブナムまでその場で悶絶する事となった。


「いやあ……この程度の誉め言葉じゃ、ストレンデ・ハーフェンのメイドさんにまたダメ出し食らいそうだけどな……」

「あはは、メイドさんたち、元気かなあ?」

 取り敢えず歩き出して少し話題をそらし、シャブナムはクールダウンを図る。ファリスもその気遣いにほっとした表情を浮かべ、話に乗って来た。

「また遊びに来いって手紙もらってるんだっけ?」

「うん。でも行ったらまた着せ替え人形にされそうで、ちょっと怖いかなあ……」

 少し遠い目をするファリスに、普通は女の子垂涎の待遇の筈なんだがなとシャブナムは思ったが、これはこれでファリスらしいなあと思いもした。


「それで、今日はどうする?式典まであと二時間くらいあるけど」

「まあ、式典の模様は中央広場で聞ければいいかなって思ってる。我らが宰相様が頑張ってあちこちで炊き出し屋台をやっててね、それ巡り歩くだけで多分楽しそうだし」

「噂じゃ遠国の食べ物がたくさんあるって聞いてるけど」

「ここ来るまでいくつか見かけたけどさ、見慣れない食べ物の屋台はみんな警戒してあまり近づいてないから、今なら狙い目かも」

「美味かった?」

「私が食べたのは、だけどねー」

「よし、じゃあ今日は屋台巡りだな」

「うん」


 最近は手を繋ぐのにも躊躇ためらいが無くなり、たまに意識して互いのどちらかが赤面する程度になった。

 王都全体を覆うお祭り気分と、街のあちこちで行われているイベントや炊き出し屋台に舌鼓を打ち、振る舞い酒のある場所では出来上がった酔っ払いと乾杯を重ねて盛り上がっている。

 時折辛い物が苦手なファリスが匂いと物珍しさに負けて自爆し、シャブナムが笑いながら水を差し出す。

 振る舞い酒で二人で乾杯していると、周囲が混ぜろとすぐに杯を差し出すので、どこでもファリスはすぐに紛れていなくなりそうになり、そのたびシャブナムが捕まえる……


 そんな感じでお祝いムードを堪能しながら、大好きな考古学研究そっちのけで過ごす羽目になったファリスの怒涛の日々も、今日のこの日の祝杯で報われたような気がしていた。

「まだ式典前なんだから、あんまり飲みすぎるなよ?」

「だいじょうぶだよー。さすがに国王陛下の演説聞き逃すとか、ここまで関わってそういう不敬は出来ないや……」

「まあ、確かになあ……」


 二人であちこち歩きつつ、人の集まる中央広場に来たのは式典開始十分前だった。

 拡声器前の周囲は既に大量の人で埋め尽くされ、二人は広場の端の建物沿いの所に移動して、少し高い位置から広場全体を見渡す。

「王都にこんなに人がいる……」

「俺、もう二度とこんな数の人見る事無いだろうなあ……」

「次の戴冠式まで生きていればその可能性あるでしょ?」

「いやさ、その時王都にいればいいけどな?」

「あー、そっか」


 その言葉にシャブナムが今後時期は別として郷里に帰る気なのを察して、ファリスは寂しい気分になる。

 現実逃避から周囲を観察し始めると、視界の右側で家紋の入った旗を掲げる一団が目に入った。

「お貴族様がここに……なんで?……って、あー、領地船の人たちかぁ」

「え?なんだって?」

「うん、ええっと、タルカイに行った時、途中小領主地帯を歩いたでしょ?」

「覚えてる。関所は多いわ道は滅茶苦茶だわで大変だったよな、あそこ」

「あの辺りね、今回の街道工事の資金提供で百ちょっとくらいの数の領主さんたちが破綻して路頭に迷って、巡り巡って快速船の船員になったの」

「ああ、噂には聞いた事あるけど……じゃあ、あれが領地船の元貴族?」

「だと思う」

 彼ら彼女らは今のところ貴族位を継承できず、平民に降下されたままとなっている。ある程度の自治権が有るのに中途半端で申し訳ないのだが、身分としては曖昧なままだ。

 ファリスも宰相殿も彼ら彼女らの身分の扱いは心配しているのだが、検討は時間切れとなり、宰相殿の令息と新国王に任されることになった。


 その身分や世間の扱いに不満や不安はあるだろうに、誇らしげに旗を掲げる一団は、まっすぐ前を見て、その忠誠心に変わりはないように見える。

『あれは、真似できないな……』

 するつもりは毛頭ないが、貴族としての誇りと矜持を胸に秘め、誇らしげに整列する彼らを見ていると、自然と身が引き締まる。

「お、ファリス、始まるみたいだぞ?」

「ん」

 シャブナムに促され、音声の流れ始めた拡声器に意識を向ける。

 旗を掲げる一団が国家の斉唱を始めた。最初は驚いていた周囲の群衆も、やがて彼らに倣って声を合わせ、広場は大音響で国歌が響き渡る事となる。

 楽しそうな歌声につられて、ファリスもシャブナムも自然に歌に加わった。


 後日、その声が王城の戴冠式の会場まで響いており、参列していた一同を感動させたと聞く――――


  *


「ウン・レーニョ・ドゥヴェ・レ・スフィデ・スペリコラーテ・スィ・リベラノ・ブオネ・ペル・カーゾ王国が、国民にしらす。我はここに王太子にその王位を譲り、王国の更なる発展と恒久なる栄光をここに願う。我もまた新王の剣となり盾となって今後も国家国民を守護し、国家危急の折は進んでその矢面に立ち、この国の臣民を守らん――――」


 国王陛下の王位継承後の演説は、宰相殿渾身の力作にファリスが添削という名の誉め言葉の羅列で提出され、前国王陛下には『相変わらず宰相は固いのだよ』などとぶつくさ文句を言われつつ、大きな変更もなく了承されて読まれていた。


 旗を掲げる一団が立ったまま号泣する様を眺めながら、気が付けば演説は終わり、戴冠式の会場の拍手が拡声器から流れる。

 広場の群衆もそれに合わせて拍手を贈るのだが、何やら拡声器から流れてくる音声に徐々に拍手が収まって行った。

『だから、私が望んだのはこんな結果ではないのだ!功績ではないのだ!』

『いい加減にしてください前王閣下、これだけ臣民に祝ってもらって退場できるならそれで十分でしょうが!』

『解っておらぬ。解っておらぬぞ宰相!こういった事業と言うのはだな……』

『へ、へいかー、まだお声が拡声器で流れております!』

『な、なんだと……』

 派手にブツンという音がして、そこで音声は途切れた。


 その後どう反応して良いかわからない群衆は、それぞれ自分たちの都合のいいように解釈してその場をお開きにする事とした。

 平民はこれぞコレジャナイ王国の国王だよなと妙に納得して飲み直す事にした。

 物見遊山の外国人はタダ飯とタダ酒三昧で観光できるのを思い出し、街中に繰り出した。

 領地船の貴族たちは前国王の功績を称える酒盛りをその場で始め、気を利かせた商人連中が差し入れを持って来てその輪に加わった。


 そしてファリスとシャブナムは――――


 傾き始めた日の光が、シャブナムの横を歩くファリスの左の頬を照らす。

 どこへ行くとも知らされていなくても、これから何があるのか心得ているファリスは黙ってシャブナムについて歩いていた。

 実はシャブナム、二回目のプロポーズをしようと思っていた場所を決めてはいたが、戴冠式で繰り出した群衆にその場所を埋め尽くされて途方に暮れてしまう。


 元々不案内な王都で気の利いた場所が思い浮かぶわけもなく、行先に迷っていた。

 そしてつい先ほど気が付いたのは、プロポーズの際渡そうと思っていた指輪を自分の部屋に置いてきている事だ。

 故に行先はシャブナムもファリスも行き慣れた王都のコミュ―ネス領の館……になってしまった。

 ただ、幸いと言うか何と言うか、門番以外の館の人たちは全員街中に繰り出して不在だったため、夕刻迫る館の中は人の気配もなく静まり返っていた。

「なんだかいつもと雰囲気違うね。知らない所に来たみたい……」

「……ファリス、ちょっと忘れ物・・・取って来るから、営庭で待っててくれるか?」

「うん、わかった」

 シャブナムの神妙な雰囲気に感化されたのか、ファリスもいつもの快活さは影を潜め、緊張をはらんだ面持ちで答えて、営庭に向けて歩き出す。

 シャブナムはその背中が見えなくなると、急いで自分の部屋に向かって走った。自分の部屋の机の上に鎮座した指輪の入った箱を手に取り、締まらない自分の迂闊さに舌打ちした後、気合を入れなおして営庭に駆け込む。


 営庭で夕日に染まるファリスは、どこかに溶けて消えそうな危うさと儚さを漂わせながら、シャブナムを見つけて笑顔を弾けさせる。

 それは普段から朗らかに笑う顔とは違う、誰か特別な人にだけ見せる笑顔に思え、シャブナムの背中にぞくりとしたものが走り抜けた。

 駆け寄るシャブナムは、そんなファリスに掛ける誉め言葉を表現できる語彙ごいが無い。結果待たせてごめんという飾り気の欠片もない言葉にしかならず、内心で地団駄を踏む。


 だが、それはそれ、これはこれと気合いを入れ直し、シャブナムはファリスと向き合った。

「今日はその、前の返事を、改めて聞きたくて、ここまで来てもらったんだ」

「うん」

「俺は、これまで一緒にいろんな仕事でファリスと過ごして、それでこの先も出来れば一緒に過ごしたいと思った」

「そっか」

「俺は、ストレンデ・ハーフェンのメイドさんが言っていたみたいに、あんまり思っていた事言葉にできるほど器用じゃない」

「うん、知ってるよ」

 そう言って優しく笑うファリスの顔に、ようやくシャブナムは勇気を得る。

「だけど改めてお願いする。俺と、結婚して欲しい…………その、難しい事は、後で一緒に、考えよう!」


 そう言って差し出される小箱を開けた中に、指輪がキラッと光る。

 確かにプロポーズを受けても、その後の自分の生きる場所がどこかを考えると、ファリスはこれを受けたものか考える事もあった。

 でも、シャブナムはそんなファリスの揺れる思いをちゃんと解ってくれている。

 それはファリスにとって、結果はどうあれ決定打と言える言葉だった。

 ファリスは差しだされた小箱を受け取ると、ゆっくり顔を上げるシャブナムの手を空いた方の手で握り、心の底からの笑顔で答える。


「ありがとう、よろこんで、お受けします」


 その後数秒後に答えの意味を咀嚼したシャブナムは大はしゃぎとなり、ファリスを抱き上げてぐるぐる回って、目を回したファリスに怒られた。


 黄昏時に差し掛かる空の下、一頻ひとしきり感情を爆発させて落ち着いた後、営庭にシャブナムの腕枕で寝っ転がる二人は、遠くに町の喧騒を聞きながら薄暮の空の星を眺める。

 そんなシャブナムの視界に先ほどファリスに渡した小箱が現れ、隣の愛しい人から声が聞こえた。


「それでこの指輪、私につけてくれないの?」


さいごにつづく

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