鍵のない密室

 その事故は、昼休みのニュースで報じられた。


 近所の商業施設で、エレベーターが突然停止し、数名が中に閉じ込められたという。幸い怪我人は出なかったらしいが、ニュース映像には不安そうな表情の利用客や、現場で対応する作業員の姿が映っていた。


「閉所恐怖症の俺からすれば、地獄だな……」


 教室の片隅で呟いたのは、新垣だった。少し蒼ざめた顔で、胸をさすっている。


「一種の密室空間だ。俺なら耐えられない」


 すると、廊下側の席で椅子を揺らしていた勝俣が、ふいに言った。


「密室ってさ、俺も一度経験あるんだよな」


 その言葉に、僕の耳がぴくりと反応した。


「密室……?」


 思わず顔を向ける。自称・駆け出しミステリー作家である僕にとって、その単語は強力な磁石のように心を引き寄せるワードだ。


「なんかあったのか?」


「いや、大した話じゃないんだけどさ。俺の住んでるアパート、ちょっと変で……」


 勝俣は、手を前に出してジェスチャーを交えながら話し始めた。


「ドア、押して開けるタイプなんだ。でもな、たまに押しても開かないんだよ。んで、しばらく放っておくと……なぜか開く」


「鍵は?」と僕。


「かけてない。ちゃんと開いてるはずなのに、押しても全然動かない。何かに抑えつけられてる感じ」


「へぇ……」と僕は唸った。


 頭の中にいくつかのトリックが浮かんでは消えていく。だが、どれもしっくりこない。


 そんな僕の隣で、東雲が静かに口を開いた。


「そのアパート、築何年?」


「え? あー、確か三十年くらいだったかな」


「じゃあ、多分それ、気圧差よ」


「気圧差?」


 東雲は前髪を指で整えながら、説明を始めた。


「平成十五年以降の建物は『シックハウス症候群』対策として二十四時間換気が義務化されたの。建築基準法の改正によってね。でも、古い建物はそれに対応してない。つまり、空気の出入りが少ない密閉空間になってることがある」


 勝俣はぽかんとしている。


「……で?」


「ドアの下に“アンダーカット”っていう隙間があるでしょ? 最近の家にはある。でも古い建物にはないことがある。その場合、室内と外の気圧差が大きくなって、ドアが物理的に開かなくなるの。吸い付くようにね」


「えっ、気圧で……?」


「そう。で、しばらくするとどこかの隙間から空気が入って、気圧が均等になる。すると、自然に開けられるようになる」


 勝俣は目を丸くしていた。


「マジかよ……怖っ。じゃあ俺、見えない“空気の壁”に閉じ込められてたわけ?」


「言い方がSFっぽいけど、そうなるわね」と東雲。


 僕はその会話を聞きながら、小さく笑った。


「密室のトリックって、もっとこう……隠し扉とか、糸とか、複雑な仕掛けを想像してたけどさ」


「意外と、空気一つで出来上がるものなのかもね」


 東雲の言葉に、僕は頷いた。


「トリックが分かると、密室も大したことないな」


 そう言いながら、僕はふと窓の外を見た。


 澄んだ空に、ひこうき雲が一筋、まっすぐ伸びていた。


 でも、“日常”という密室は、案外見えない壁に囲まれているのかもしれない。今日も誰かが、それに気づかないまま、扉の前で立ち止まっているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る