鶴来しろは恩返しのために僕の部屋を占拠した
半那りと
プロローグ
大学からの帰り道、コンビニでレトルトカレーを手に取ったところまでは覚えている。
まさかそれが、最後の自由な夕食になるとは思わなかった。
僕の名前は夜森悠一(よもり・ゆういち)、都内の私立大学に通うごく普通の大学生だ。大学から電車で十五分、駅から少し歩いた場所にある木造アパートの二階、103号室が僕の住処。
親元を離れ、平穏で静かな一人暮らしを満喫していた。
それが今日、あっさり終わった。
部屋のドアを開けた瞬間、まず漂ってきたのは、玉ねぎを炒める甘い匂いだった。
次に、キッチンから聞こえてくる包丁の音。手際のいいリズムだ。
……。僕はそっとドアを閉めて、もう一度表札を確認した。
「103号室、夜森……うん、間違いなく僕の部屋だよな」
見慣れた表札、見慣れたドア。ここは僕の部屋、間違いない。
だけど中には、僕の知らない“誰か”が、当たり前のように暮らしていた。
リビングの照明はついていて、テーブルにはランチョンマット。箸が二膳並べられていた。
スリッパも二足。しかも片方は妙に女子力が高い。可愛らしい水玉模様だった。
僕は息を潜めて靴を脱ぎ、そろりとキッチンを覗いた。
「おかえりなさいませ。夕食、もうすぐ出来上がりますよ」
くるりと振り返ったのは、見知らぬ女の子だった。
栗色の髪をゆるくまとめて、白いエプロン姿で笑っている。
その姿は、どう見ても“彼女面”だった。
「えっと……どなた、ですか?」
「……ひどいです」
彼女は包丁を置き、少し唇をとがらせた。
「命を救っていただいた身として、“どなた”は少し寂しいです」
救った……? 最近、そんなことあったっけ? 僕が……彼女を?
でも、そんな記憶はまったくない。
道で困ってた子を助けた? 落とし物を拾ってあげた? それとも、もっと昔……?
「……ごめん、ちょっと混乱してる。助けたって……どういう話?」
「覚えていらっしゃらないんですね。でも、私はちゃんと覚えていますよ。雪の中で凍えていた“わたし”を、あなたが助けてくださった夜のことを」
僕はぽかんと口を開けたまま固まった。
雪の中? いつだよそれ。僕が人助けなんてした覚えは、思い出そうにも微塵もない。
「……凍えてたって、どういう意味……? 動物とかじゃないよね? 鶴の恩返し的な?」
ニコッと、彼女は笑った。
「鶴です」
即答だった。即答すぎて、逆に怖い。
「冗談、じゃないよね?」
「はい、冗談ではありません。冗談なら、もう少し笑えるように言います。たとえば、“実はあなたの子を身ごもってます”とか」
「それ、ホラーだからやめてくれ」
苦笑いする僕に、彼女は小さくお辞儀をした。
「鶴来しろ(つるぎ・しろ)と申します。恩返しに参りました」
……やべーやつが来た。
冷静なふりをしながら、僕の頭の中では警報が鳴りっぱなしだった。
これはヤバい。事を荒立てたら余計に面倒なタイプだ。
できれば穏便に、静かに、何事もなくお引き取り願いたい――そんな願望が浮かんで、すぐに打ち消される。
だってこいつ、すでに僕の部屋に侵入して、エプロン姿でハンバーグ焼いてるんだぞ。
「……恩返しって、具体的に何をするつもりなんだい?」
「今日の夕食は、ハンバーグとコーンスープです。それから、サラダと、デザートにチーズケーキも用意してあります」
「いや、待って。いったん、ちゃんと説明してもらっていいかな?」
「お肉は合い挽きですが、脂が出すぎないように玉ねぎを炒めて水分を飛ばしてあります。味見もしてありますので、大丈夫ですよ」
いや、ハンバーグの説明じゃなくてさ……! そうツッコミたくなるのをぐっとこらえる。それにしても、部屋中に広がる香ばしい匂いが腹に響く。
……いや、待て。ここで食べたら、通報できないんじゃないか?
いやでも、もう匂いが脳に染みてきてるし……冷めたらもったいない。
せめて食べながら考えよう。そう、冷静に、合理的に。
その夜、僕はハンバーグを食べながら、この“鶴”を名乗る侵入者と向き合うことになった。
彼女は料理の合間に、自分がどれだけ僕に感謝しているかを淡々と語った。 数年前の冬、雪の日。僕はどこかの公園で傷ついた鳥を見つけたらしい。放っておけなくて、マフラーを外して包み、近くの動物病院に連れていった。寒かった。そうだ、首筋に冷気が差し込んだのを覚えている。……そんな記憶が、ある。
でもそれが、鶴だったとは。
「あなたに助けてもらってから、わたしは人の姿をとれるようになりました。だから、こうして来たんです。あなたに恩返しをするために」
「……で、勝手に部屋に入ったわけだ」
「はい。窓が開いていたので」
なんで開けてたんだ僕……!
「……それ、普通に不法侵入だからね」
「大丈夫です。あなたに害を与えるつもりはありません。むしろ、生活の質が向上するはずです」
「そういう問題じゃないと思うけどな……」
あまりに堂々としていて、逆にこちらの言葉が通じない気がしてくる。
「明日の朝ごはんも用意しますね。早起き、苦手ですよね?」
――こうして、鶴来しろとの奇妙な同居生活が始まった。
命を救ったはずが、日常を占拠された僕。
この物語は、恩返し系ストーカー系女子との、少しズレた“愛”の記録である。
鶴来しろは恩返しのために僕の部屋を占拠した 半那りと @Dry5448
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