第12章「記憶の深淵」

壁の鏡が淡く輝き始め、八枚それぞれが異なる光景を映し出した。

それぞれが、ルカのさまざまな記憶の一片を映している。

父がカメラを教える姿、母が笑顔で写真を見せる光景、チヨと駆け回った夏の日。

そして両親の葬儀の日の暗い記憶も。

耳を澄ますと、鏡の奥から時間の軋む音が響き、写し世の気配が強まる。

空気は重く、部屋全体が息をするように膨張と収縮を繰り返しているようだった。


「チヨの時計が…私の感情を呼び覚ます」


ルカは胸ポケットの懐中時計を握りしめた。針は七時四十三分。封印の瞬間からわずかに動き始めたそれは、彼女の記憶の回復を告げていた。だが、心の奥ではまだ恐れが蠢く—チヨを忘れた10年間の孤独な夜、写真館で一人涙した記憶。光と影のバランスが鏡面に映り込み、彼女の記憶の断片が浮かんでは消えていく。


「ここは時の狭間の入口だ」


クロミカゲの声が風のように響いた。彼の姿は見えないが、壁に映る九つの尾の影が揺らめく。右目の青い紋様と左目の金色が交互に輝き、二つの意識の間を行き来しているのが感じられた。


「写し世の記憶が、お前の巫女の力を呼び起こしている」


「何が…」


鏡の一つが大きく輝き、その表面が波打ち始めた。まるで液体のような揺らめきの後、表面から何かが現れ始めた。それは霧のような、光のような存在。形を変え、次第に人の形になっていく。光は青から白へ、そして虹色へと変化し、明確な形を結んでいった。


「チヨ…?」


現れたのはチヨの姿だった。純粋な白い光で形作られたその姿は、封印される前のチヨそのものだった。白い小袖と赤い袴、優しい笑顔。父の面影を感じさせる穏やかな目元と、母譲りの凛とした立ち姿。しかし、それはクロミカゲとは別の存在として立っている。


「姉さん…本当にあなたなの?」


「わたしはあなたの心の中の記憶よ」


チヨの声は、母の子守唄のように温かい。その声色には、ルカが子供の頃に聞いた安心感と強さが混ざり合っていた。


「お前の写祓が、時の狭間の扉を開いた。すべての写祓には『結晶化』と『具現化』の二段階がある。結晶化は記憶を写真に定着させ、具現化はその記憶に形を与える。あなたの感情の解放が、具現化を可能にしたのよ」


クロミカゲが驚いて後ずさり、右目の紋様が強く瞬いた。彼の姿が揺らぎ、一瞬チヨとクロの二つの姿が重なって見えた。


「これは…錯覚か」


クロミカゲも困惑した様子で光の姿を見つめた。声が震え、二重音が強くなっている。時間の軋む音が室内に響き、空間そのものが波打っているかのようだった。


「いいえ、違うわ」


チヨの姿が口を開いた。その声は確かにチヨのものだった。母が子守唄を歌っていた時のような、心に染み入る優しい響き。現像室の空気が振動し、壁に写真が揺れるほどの存在感がある。


「わたしは記憶よ、ルカ。あなたの心の中にある、わたしの記憶」


「混乱しているようね、クロミカゲ」チヨの姿が彼に向き直った。「わたしは、ルカの中に残っていた私の記憶が形となったもの。あなたの中のチヨの意識とは別の存在。ルカの巫女の力が私を呼び出し、現像室の魔方陣が私に一時的な形を与えたの」


クロミカゲはゆっくりと頷いた。「理解した。お前は記憶の結晶化…写し世に閉じ込められた記憶の一部が解放されたものなのだな」


ルカは震える手で影写りの粉を取り出した。佐助が残したそれは、微かに青い光を放つ。


「この粉が…写し世の光を結ぶの?」


彼女が手に持つと、粉が光の糸となり、チヨの姿を鮮明にする。触れた指先から、懐かしい感覚が全身に広がる。幼い頃にチヨに手を引かれて歩いた記憶、共に笑った日々の鮮明な感覚。父の肩車で祭りを見た夜、母の手ほどきで初めて写真を撮った朝。


「どうして…あなたがここに?」


「あなたの写祓が、わたしを呼び出したのよ」


チヨの姿が微笑んだ。その笑顔に、ルカの目から涙があふれた。背後では、八枚の鏡が共鳴するように輝き、互いの光が複雑な模様を描いている。


「夕霧村の記憶が、お前を呼んでいるわ」


ルカは混乱した表情で周囲を見回した。チクワが彼女の足元で鳴き、光の糸に触れ、金色のオーラを放った。


「夕霧村…あの村のことなの?」


「そう」チヨの姿が頷いた。「十年前、狐神の暴走を封じるとき、村の記憶も封印の一部とした。村人たちは自分が誰なのか、どこから来たのかを忘れた。公的記録からも消され、その存在は霧の中に消えていった」


ルカの脳裏に、霧に包まれた小さな村の断片的な映像が浮かぶ。村の井戸、古い神社、そして混乱する村人たち。彼女は深呼吸して問いかけた。


「私が行くべき場所…それが夕霧村なの?」


「ああ」クロミカゲが一歩前に出た。彼の体からも青白い光が放たれている。


「封印の代償として、村の集合的記憶が犠牲になった。残りの欠片—心、霊、封印の欠片は、村に眠っている」


「けれど…」ルカが眉を寄せた。「その村へ行くことで、私の失った記憶はどうなるの?それがさらに薄れていくリスクは?」


「その危険は常にある」チヨの姿が真剣な面持ちで言った。「巫女の道を進めば進むほど、現世の記憶は薄れやすくなる。だからこそ、あなたを現世に繋ぎとめる錨が必要なの」


クロミカゲが頷いた。「蓮の存在が、お前を現世に繋ぎとめる役割を果たすだろう。彼の記憶と科学的視点が、お前が完全に写し世に引き込まれることを防ぐ」


「蓮さんが…?」ルカはその言葉に少し驚きながらも、どこか納得していた。蓮の祖父は記憶の研究者だったという。彼もまた、写し世と現世を繋ぐ存在なのかもしれない。「彼の祖父も特別な人だったのね」


「そう」チヨの姿が答えた。「風見家の人々は代々、現世の科学で写し世を理解しようとしてきた。蓮の祖父は特に優れた観察者で、写し世の気配を科学の言葉で記録しようとした。その血を引く蓮は、あなたにとって重要な存在になるわ」


ルカは依然として混乱していた。目の前にいるのは姉なのか、それとも単なる記憶の残影なのか。そして、鏡の中に映る両親の姿は…実際に彼らも具現化できるのだろうか。


「混乱しているのね」


チヨの姿が優しく微笑んだ。その周りに虹色のオーラが広がり、現像室の壁に色鮮やかな光の模様を投げかける。


「説明するわ。クロミカゲはチヨとクロが一つになった存在。狐神の力の器として生まれ変わったの。一方、わたしは純粋な記憶。あなたの中に生き続けてきた、チヨの記憶そのもの」


「つまり…二人のチヨが?」


「そうではない」クロミカゲが言った。彼の声は再び落ち着きを取り戻し、チヨの声との調和が感じられた。


「二つの側面だ。わたしは『力』としてのチヨ。こちらは『記憶』としてのチヨ」


ルカはようやく理解し始めた。写し世と現世の狭間に、さまざまな形で存在が継続する。それが「夢写し」の真髄なのだろう。「すべては記憶の波紋のように繋がっている」と蓮の祖父の言葉が思い起こされた。


「だけど、なぜ今…」


「あなたがこれから始める旅のために」


チヨの姿が言った。光の粒子が彼女の周りで舞い、その言葉に呼応するように明滅する。


「記憶をすべて失った村を探すのね? その旅には、『記憶』と『力』の両方が必要よ」


クロミカゲが頷いた。


「だから、最後の儀式を行わねばならない」


「最後の儀式?」


「ああ。写し世と現世を繋ぐ儀式だ」


チヨの姿とクロミカゲが、ルカを中心に円を描くように立った。クロミカゲの両手から青い光の糸が、チヨの両手から白い光の糸が紡ぎ出され、それがルカを包み込み始める。二種類の光が交差し、複雑な幾何学模様を形作る。チクワも光の輪の一部となり、その金色の瞳から淡い光が放たれ、「夢写師の記憶を守る存在」として魂写機の方向に爪を立てた。


「これは…」


「あなたが両世界を繋ぐ橋となるための儀式よ」


チヨの声が優しく響いた。母の子守唄の調べが混じったような、懐かしく温かな声色。


「これまであなたは写し世を写すだけだった。だけど、これからは写し世と現世を繋ぐの」


光の糸がルカの体に絡みつき、次第に締め付けが強くなる。彼女は息苦しさを覚えた。光の糸が肌を通して体内に入り込み、血管を流れるように全身を巡っていく感覚。室内に時間の波紋が広がり、チヨの囁き声—「選んで、ルカ」—が反響した。


「痛い…」


ルカが呟くと、チヨの表情に心配の色が浮かんだ。


「耐えて。これは必要な過程よ」


クロミカゲが厳しい表情で言った。「力を受け入れるためには、代償が必要だ。欠片は使用者の最も強い未練を選ぶ」


光の糸が次第に速度を増し、ルカの体内を駆け巡る。同時に、彼女の記憶の断片が押し寄せてくる。幼い頃の思い出、両親との日々、父のカメラを初めて手にした日の興奮、母の温もり、写祓の訓練、そして…チヨの封印の瞬間まで。あまりの情報量に、ルカの意識が揺らぎ始めた。


「これ以上感じたら、私の記憶が…散らばってしまう…」


彼女は膝をつき、頭を抱えた。光の渦に飲み込まれそうになる感覚に、恐怖が押し寄せる。記憶の断片が混濁する感覚に、彼女は一瞬意識が遠のきかけた。10年間の喪失に続き、さらに記憶を失うことへの恐れが彼女を捉えた。


「自分の力を信じて」


チヨの声が心の奥深くから響く。


「あなたは強い子よ。感情を恐れる必要はない」


クロミカゲも近づき、彼女の肩に手を置いた。


「チヨの愛が、俺を形作った。ルカ、俺はお前を守るために生まれた存在だ」


その言葉に、ルカの中に決意が芽生えた。巫女としての責任と人間としての願いの葛藤が彼女の心を揺さぶるが、チヨの写祓の技術が彼女の手を導くのを感じた。「私が影写りの巫女の継承者なのか」という問いが浮かんだが、今はただ前に進む決意だけが必要だった。


「姉さんのために…そしてクロのために…この力を受け入れる!」


彼女は叫んだ。光の糸が一斉に彼女の瞳に向かって収束していく。そして、最も強く集まったのは、ルカの目だった。彼女の灰銀色の瞳が、徐々に金色に変わっていく。痛みを伴う変化だったが、ルカはそれに耐えた。


視界が変容し、世界が違って見え始めた。光のスペクトルが広がり、これまで見えなかった色彩が見えるようになる。人や物の周りに、微かな色の靄が見える—それは記憶のオーラだった。父のカメラのレンズ越しに世界を見るような、鮮明で豊かな色彩。記憶を見る目、心を映す瞳。これが影写りの巫女の真の力だと本能的に理解した。


「これで…見えるようになるわ」


チヨの姿が言った。


「写し世だけでなく、記憶の流れそのものが」


「影写りの巫女は記憶のオーラを視覚化し、写し世の記憶を現世に定着させる力を持つ」とクロミカゲが説明を加えた。「金色の瞳は記憶の流れを直接見る能力。これからお前は人々のオーラから感情や記憶を読み取れるようになる」


チヨの姿とクロミカゲの間で、光の糸が複雑な結び目を作り、それがルカの心臓のあたりに収束した。


「この結び目が、お前と私たちを繋ぐ絆だ」


クロミカゲが説明した。「これにより、お前は私たちの力を借りることができる」


儀式が終わり、光が消えた。ルカは自分の体に変化を感じた。より軽く、より敏感に。そして何より、視界が変わっていた。人や物の周りに、微かな色の靄が見える。それは記憶のオーラだった。影向稲荷の札を手に持つと現像室の光が安定する感覚があった。


「これが…記憶の色」


彼女は呟いた。クロミカゲのオーラは青と金が混ざった複雑な色合い。チヨの姿は純粋な白い光に包まれている。そして、彼女自身の周りにも、父譲りの深い藍色と母譲りの優しい桜色が混じったオーラが広がっていた。


「すごい…」


ルカは新たな視覚に圧倒されながらも、同時に不安も感じていた。これほどまでに世界が鮮明に見えることは、これまでの彼女には想像できなかった。感情を抑え込むことで、世界の色彩も抑え込んでいたのだろうか。「記憶の色を見ることは、時に重い負担となるだろう」と予感した。


突然、写真館の外から声が聞こえた。ドアをノックする音と、風見蓮の声。


「ルカさん!何があったんですか?」


チヨの姿が薄れ始めた。


「もう行かなきゃ。でも安心して、わたしはいつもあなたの中にいるわ」


「姉さん…」


「さようなら、ではなく、またね」


チヨの姿が完全に消え、鏡も元の状態に戻った。部屋には再びルカとクロミカゲだけが残された。ドアが開き、風見蓮が慌てた様子で入ってきた。


「大丈夫ですか?光と音が…」


彼の手には小さな測定器と、祖父の遺した古いノートがあった。空気が一瞬震え、蓮の周りで時間が緩やかに流れる感覚があった。蓮の周りに青みがかったオーラが広がり、科学と神秘の間で揺れる彼の心が映し出されていた。祖父の形見のノートを握る手に強い思いが宿っているのが見えた。


「あっ…」


蓮はルカの金色に変わった瞳を見て、言葉を失った。彼のオーラからは驚きと好奇心が波のように放射している。彼は「科学と神秘の間で揺れる心」を持っている—ルカはそれを直感的に理解した。


「これで準備は整った」


クロミカゲが言った。蓮には聞こえていないようだが、ルカにははっきりと聞こえる。


「何が起きたの? 私の目が…」


「お前は『影写りの巫女』として真に目覚めた」


クロミカゲの説明によれば、橋爪家の夢写師は代々「影写りの巫女」の血を引いているが、その力が完全に目覚めるのは稀だという。感情を抑制してきたルカは、その力の一部しか使えていなかった。しかし今、すべての感情と記憶を受け入れたことで、本来の力が目覚めたのだ。


「影向稲荷はチヨの封印の結界」クロミカゲが付け加えた。「そして今やお前の力の源となる」


蓮は黙って測定器を操作し、数値を確認していた。


「祖父の記録にあった…」彼は興奮した様子で古いノートをめくった。「『記憶の波動が人の目の色を変える現象』!祖父は『記憶の集団喪失』を研究する過程で、こういう変化を予言していたんです」


彼はルカに近づき、金色の瞳を観察した。その眼差しには恐れではなく、純粋な好奇心と尊敬の念が宿っている。青みがかったオーラが彼の周りを包み、純粋な探究心と知性を映し出していた。


「素晴らしい…科学では説明できない現象を、目の前で見ることができるなんて」


彼は震える手でノートを閉じ、眼鏡を直した。「祖父は科学で真実を測ろうとしたけれど…」と呟き、ルカのオーラに触れるように手を伸ばし、「僕はその向こう側を見ている」と感嘆の声を漏らした。その瞬間、ルカは蓮の記憶の一端に触れた気がした—幼い頃に祖父に連れられて星を見上げた夜、初めて気象観測器を手にした日の高揚感。それは彼女にとって新鮮な感覚だった。これが巫女としての新たな能力なのだろうか。


「これからはどうなるの?」


ルカはクロミカゲに尋ねた。


「お前の選んだ道次第だ」


クロミカゲは窓辺に向かい、朝日を浴びた。その姿が朝日に透かされ、半透明に見える。光の粒子が彼の周りで舞い、彼の言葉に呼応するように明滅した。


「だが、忘れるな。力には代償が伴う。『影写りの巫女』としての力を使えば使うほど、お前自身の記憶が危うくなる」


「でも…姉さんは私の中にいるんでしょう?」


「ああ。それがお前の錨となる。ルカの巫女の力で私のチヨの意識が安定する」


「つまり、私たちは互いに支え合っているのね」


ルカは微笑んだ。その笑顔は以前より柔らかく、感情に満ちていた。それは彼女が自分自身とついに和解し、両親から受け継いだ感情表現の豊かさを取り戻したことの証だった。しかし、彼女の中には新たな不安も生まれていた。金色の瞳によって見える世界は美しくも、時に恐ろしいものになるのではないかという予感が、彼女の心の片隅に残っていた。


蓮はルカの言葉を聞いて、首を傾げた。彼にはクロミカゲの姿も声も感じられないようだ。しかし、彼はノートに何かを書き留めていた。


「ルカさん、もしよければ、その変化について詳しく聞かせてください。祖父の研究を完成させるためにも…」


「ええ、もちろん」


ルカは微笑みながら答えた。蓮の周りに広がる淡い青色のオーラが、彼の純粋な好奇心と正直さを表しているのが見えた。彼の存在は、失われた10年間の記憶と引き換えに得た新たな絆の温かさを感じさせた。


「風見さんのおじいさまはどんな方だったんですか?」ルカは蓮の手元のノートを見ながら尋ねた。


蓮の表情が柔らかくなった。「祖父は天文物理学者でしたが、晩年は『記憶の科学』という独自の研究に没頭していました。宇宙の法則と人間の記憶の間に、共通の波動パターンがあると考えていたんです」彼はノートの一ページを開いた。そこには複雑な数式と星空の図が描かれていた。「祖父は星の光が届くまでの時間と、記憶が形成されるまでの過程に類似性を見出していました。彼は生涯、科学で測れないものを測ろうとした人でした」


現像室を出る準備をしながら、ルカは現像した写真を大切に鞄に入れた。彼女自身の記憶の結晶。写真の中の家族の笑顔—父の温かな眼差し、母の優しい手、チヨの守るような背中。それは今後の旅で、彼女の心の支えになるだろう。


「行きましょう」


二人は現像室を後にした。写真館の一階では、静江が朝食の準備をしていた。彼女の周りには穏やかな紫色のオーラが漂っている。経験と知恵の色だ。ルカはその色を見て、静江がただの老婆ではないことを改めて実感した。


「おはようございます、ルカさん」


静江が振り返り、彼女を見て微かに目を見開いた。


「目覚めたようだね」


彼女は何も驚かない様子で言った。おそらく、この変化を予期していたのだろう。


「ええ。私は『影写りの巫女』として…」


「説明は不要だよ」静江は微笑んだ。「朝食を食べなさい。長い旅の前に、体力をつけておくことだ」


三人で朝食を取りながら、ルカは今日から始まる旅について説明した。記憶をすべて失った村を探す旅。チヨの手紙に村の地図の断片が記されていたのだ。それは単なる場所の探索ではなく、失われた記憶を取り戻す旅になるだろう。


「私は『影写りの巫女』として、記憶を取り戻す手助けをするつもりです」


静江は穏やかにお茶を飲みながら頷いた。


「お前の選んだ道だ。迷いはないようだね」


「ええ。初めて、自分の進むべき道がはっきりと見えたの」


蓮は熱心にメモを取っていた。金縁の眼鏡の奥で、彼の目が輝いている。


「僕も全力でサポートします。祖父の記録によれば、記憶喪失の村は霧梁県北部の山間にあるはずです。祖父は『記憶の波紋』という現象を研究していました。気象観測データと写し世の活動に相関関係があるようなんです」


彼は熱心にノートを開き、祖父の残した地図と気象データを広げた。


「祖父は最後にこの村を訪れ、そして姿を消しました。彼が見つけた真実を、僕も知りたいんです」


蓮の祖父の物語は意外な展開だった。彼は単なる観察者ではなく、夕霧村の謎に深く関わっていたのだ。蓮はその祖父の旅を継ごうとしている。「科学と神秘の邂逅」という言葉が、ルカの心に浮かんだ。


静江はふと窓の外を見て、「心、霊、封印の欠片は霧梁の彼方に眠る」と呟き、「欠片の旅はまだ続く」と付け加えた。ルカはその言葉に、心が踊るのを感じた。


朝食を終え、荷物をまとめた三人は、写真館の前に立った。ルカは魂写機をしっかりと鞄に収め、現像した写真も大切に持った。チクワも一緒だ。猫は彼女の足元で鳴き、旅に連れて行くよう訴えていた。その金色の瞳が輝き、魂写機の写真を守るように前足を置いた。


「もちろん、あなたも一緒よ」


ルカは猫を抱き上げ、頭を撫でた。チクワの毛並みに、淡い金色の光が宿っているのが見えた。この猫もまた、ただの猫ではない。「影向稲荷の使者」として、彼女の旅を見守り、導くのだろう。


ルカの金色の瞳が朝日に輝いている。彼女は振り返り、写真館を見つめた。そこには見えない存在—クロミカゲが立っていた。朝の光が作り出す影のなかに、九つの尾を持つ狐の姿が一瞬映り込んだ。


「準備はいいわ」


「ああ。行こう。記憶を癒すために」


クロミカゲの声が風のように彼女の耳に届いた。彼の姿が一瞬、太陽の光に溶け込むように輝いた。遠くからは、チヨの囁きが風に乗って届いてくるようだった。


「記憶をすべて失った村へ。そして、新たな写祓の旅へ」


「新たな写祓の旅…」


ルカは空を見上げた。金色の瞳に映る世界は、以前よりも鮮やかだった。彼女の心には不思議な確信があった—これからの旅は、単に記憶を取り戻すためだけではない。新しい記憶を創り出すための旅でもあるのだ。


「これからはただ記憶を守るだけじゃない。記憶を癒し、新たな記憶を創る。それが『影写りの巫女』としての私の使命」


ルカの言葉には、かつてないほどの確信があった。「影写りの巫女」としての自覚と責任が、彼女の立ち居振る舞いに現れていた。しかし同時に、彼女の心には微かな不安も残っていた。これから先、自分はどれだけの記憶を失っていくのだろうか。巫女の力を得たことで、自分自身も何かの代償を払うことになるのではないか。


「私の記憶代償の喪失は、それだけの価値があるものにしなくちゃ」


彼女は静かに決意した。蓮が不思議そうな表情で彼女を見ていた。ルカの独り言は彼には聞こえないのだろう。蓮の周りのオーラが彼の好奇心と誠実さを映し出している。


「形の欠片」は取り戻したが、「心の欠片」「霊の欠片」「封印の欠片」はまだ見つかっていない。それらを求めて、彼らの旅は続く。


ルカ、蓮、静江、そしてチクワ。彼らは新たな旅路に向けて、久遠木の町を後にした。クロミカゲの姿は直接見えないが、ルカには彼の存在を感じることができた。いつも彼女の傍らに、影のように寄り添っている。


「心の欠片は村人たちの絆の中に、霊の欠片は村の守護者の魂の中に、封印の欠片は...」とクロミカゲの声が囁く。「すべてが夕霧村に隠されている」


朝の光が彼らの背中を照らす中、ルカの心には確かな希望が宿っていた。もはや彼女は一人ではない。記憶の中のチヨ、現実と写し世の間に生きるクロミカゲ、そして彼女を現世に繋ぎとめる風見蓮と静江。


「他者の記憶を癒すことで、自分も癒される」


ルカは自分の金色の瞳に映る世界を見つめながら、そう思った。失われた村の記憶を取り戻すことが、彼女自身の癒しにもなる。代償として失った10年間の記憶の喪失は大きいが、それによって得た感情の解放と新たな絆の温かさが、その空白を埋めていくだろう。


彼女は空を見上げた。雲一つない青空。そこに一羽の鳥が飛んでいく。自由に、力強く、未来へと向かって。その飛翔に、ルカは自分の姿を重ね合わせた。記憶という翼を広げ、新たな物語へと飛び立つ自分自身の姿を。


蓮は興奮した面持ちで地図を眺めていた。「夕霧村への旅は、科学と写し世をつなぐ旅でもある」と彼は呟いた。祖父の足跡を辿り、同時に新しい発見を目指す決意が彼の青いオーラに現れていた。


「祖父は晩年、記憶の波動パターンが物理現象として測定できると信じていました」蓮はノートを開きながら話した。「彼は特殊な計測器を開発し、霧の濃度と記憶の強さの関係を数値化しようとしたんです。最後の記録によれば、夕霧村では異常な測定値が出たとあります。そして彼はそこで…」蓮の言葉が途切れた。「何かを発見したんでしょう。僕もその謎を解きたいんです」


「欠片を集めたその先に何が待っているのか...」クロミカゲは意図的に曖昧に言った。「それはお前自身が見つけるべきものだ。すべての欠片が集まったとき、最終的な選択が訪れる」


その言葉にルカは静かに頷いた。選択の道筋はまだ見えないが、一歩一歩進むしかない。巫女としての力に溺れることなく、常に記憶と感情のバランスを保ちながら。


「準備はできました」ルカは静江に向き直った。「旅を祝福してくださいますか?」


静江は微笑み、二人の額に軽く触れた。そのとき、一瞬だけ静江のオーラが若々しく輝き、昔の巫女姿が透けて見えた気がした。


「記憶は消えない」と静江が彼らを見送りながら呟いた。


「形を変えるだけだ」


そして新しい旅が、始まった。

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