第10章「狐神の真実」

真実は鏡のようなもの。

向き合えば自分自身が映り、背を向ければ何も見えない。

けれど、その存在は常にそこにある。


写真館に戻る道すがら、久遠木の町は暮れていくように静まり返っていた。街灯が一つ、また一つと灯り始め、人々は家路を急いでいる。何か予感めいたものが町全体を包んでいるようだった。この静けさはあの異変から始まったのだろうか—影写りの祭りの夜、写し世との境界が揺らいだあの時から。


「みんな、おかしいわね」


ルカが呟いた。確かに、町の人々の様子がいつもと違う。戸締りを念入りに確かめ、早々に店を閉め、誰もが何かから逃げるように急いでいる。風に乗って、遠くから子供の泣き声と母親の慰める声が微かに聞こえる。ルカはその声に、記憶の奥底で何かが震えるのを感じた。母の声だろうか。胸ポケットの懐中時計を握りしめると、チヨからの唯一の形見が普段よりも冷たく感じられた。


「写し世の影響かもしれません」


風見蓮が周囲を見回しながら言った。彼は薄いノートを取り出し、震える手で何かを書き留めている。


「祭りの記憶を失いつつも、何か不安な感覚だけが残っているのでは。祖父の記録にも似たような記述がありました。『意識は忘れても、身体は覚えている』と」


彼は小型の測定装置を取り出し、空気の状態を調べた。「驚くほど高い粒子濃度です。これは祖父が『記憶の残響時間』と呼んだ状態に一致します。写し世からの漏出が尋常でないレベルです」


クロは黙ったまま歩いていた。彼の姿勢にも、いつもより緊張感が感じられる。右目の紋様が月明かりに反応して、微かに青く輝いていた。その光が時折強まり、彼の仮面の下からは苦しげな吐息が漏れる。通りに面した窓ガラスに、一瞬、九つの尾を持つ狐の影が映った気がした。


「急ぎましょう」


三人は足早に写真館へと向かった。途中、植え込みの中から目が光るのを見て振り返ると、チクワが忍び足で後をついてきていた。


「チクワ? どうしてついてきたの?」


猫は返事をする代わりに、低く唸った。その金色の瞳は異様な光を放ち、写真館の方角を何度も見つめている。耳を澄ますと、チクワの喉から発せられる唸り声に、かすかな女性の囁きが重なっているように聞こえた。「時の狭間の入口が開いている」という言葉が風に乗って届いたような錯覚さえある。


「この子も何か感じているのね」


写真館に近づくと、チクワが先に走り出し、玄関で興奮した様子で鳴いた。


「どうしたの?」


猫は玄関から離れず、何かを訴えるように続けて鳴いている。その金色の瞳が月光に反射し、一瞬だけ青く輝いた。チクワのシルエットが月明かりで伸び、壁に映る影は大きな狐のように見えた。その尾が九つに分かれ、壁面を這うように動いている。チクワの震える体に触れると、冷たい時間の波紋が指先を走る感覚があった。


「誰か来たのかしら…」


写真館の中に入ると、客間の灯りが点いていた。ルカたちが出かける前には消していたはずだ。そして、そこには一人の老人が座っていた。


「静江さん!」


ルカは驚いて声を上げた。影向稲荷の老婆、静江がソファに座り、杖を膝に置いていた。彼女はルカたちの姿を見て、ゆっくりと頷いた。その表情には、長い間待ち望んでいたものを見る喜びと、重い決断を前にした厳粛さが混ざっていた。空気には香木の匂いが漂い、何か儀式めいた雰囲気を醸し出していた。


「帰ってきたか。すべての欠片を集めたようだな」


「はい…でも、なぜここに?」


「時が来たからさ」


静江はゆっくりと立ち上がった。年齢のわりに背筋は伸びていた。彼女の目には、若い頃の鋭さが戻っているようだった。振り返った瞬間、窓ガラスに映った彼女の姿は、若い巫女のようにも見えた。


「欠片を見せてごらん」


ルカはポケットから五つの欠片を取り出した。声の欠片、願いの欠片、時の欠片、光の欠片、そして影の欠片。青い結晶がそれぞれ、微かに輝きを放っている。欠片同士が近づくと、共鳴するように光が強まり、耳をすませば、時間の軋むような低い音が響いているのが聞こえた。欠片の光が照らす静江の顔に、巫女としての厳しさと慈愛が交錯している。


「よし。そして、これがあるはずだ」


静江はルカが胸ポケットに入れていた封筒を指さした。チヨからの手紙だ。


「あなたは…予言者ですか?」


蓮が驚いた様子で尋ねた。彼は眼鏡を直しながら、静江の一挙手一投足を観察していた。ノートにメモを取りながら、その手が微かに震えているのが見える。


「いいや」静江は首を振った。「ただの年寄りさ。長く生きていると、物事の流れが見えるようになる」


彼女は薄く笑い、蓮を見つめた。


「君の祖父もそうだった。目に見えないものを感じる力がね」


蓮は驚いたように目を見開いた。


「祖父と…?」


「風見柊介は真摯な科学者だった。写し世の研究に命を懸け、夕霧村の真実に迫った。彼は『記憶の波紋』が町を広がる様子を天候図に記録していた。だが、あまりに深く真実を求めすぎた」


静江の声は低く沈み、哀しみを帯びていた。


「彼は写し世の深淵に飲み込まれた。だが、君の旅で彼の真実も見つかるだろう」


蓮の目に決意の色が浮かぶ。彼は急いでバッグから古ぼけた測定器を取り出した。


「祖父の遺した『記憶振動計』です。これが今、激しく反応しています。まるで時間が渦を巻いているような数値を示しています」


彼がその装置を指さすと、針は振り切れんばかりに振れていた。「これは祖父が失踪した日の数値と同じです。彼は何を発見したのでしょうか...」


蓮の顔に決意の色が浮かび上がる。祖父の夢を見つめる瞳に強い光が宿った。


静江はルカを見つめた。


「さあ、封筒を開けなさい。チヨからのメッセージを読む時が来た」


ルカは震える手で封筒を取り出した。「ルカへ」と書かれた姉の筆跡。これまで彼女は約束通り、三つの欠片を集めるまで開けなかった。そして今、五つ全てを手に入れた。封筒を手にすると、懐中時計が脈打つように温かくなった気がした。まるで姉の鼓動が伝わってくるような感覚に、胸が締め付けられる。


「読みます…」


封を切り、中から一枚の手紙を取り出す。それは薄い和紙に、美しい筆跡で書かれていた。インクの香りがかすかに残り、ルカの鼻をくすぐる。父が写真館で使っていたインクの香りに似ている。手紙を広げる手が震え、記憶の奥から抑え込んでいた感情が湧き上がる。


『愛するルカへ


もしこの手紙を読んでいるなら、あなたはすでに多くの真実を知ったことでしょう。そして、欠片を集めているはず。私が記憶から消えると予感したとき、この手紙を書きました。


あなたには本当に辛い思いをさせてしまったね。ごめんなさい。でも、あなたが私を忘れても、いつか思い出す日が来ると信じていました。あなたは強い子だから。


さて、欠片について説明します。それらは狐神の力の分身です。九つで一つ。そのうち五つは「記憶」に関わる欠片(声、願い、時、光、影)。残りの四つは「力」に関わる欠片(心、形、霊、封印)です。心は絆を、形は存在を、霊は魂を、封印は均衡を司る。あなたの集めた五つの欠片を使えば、封印の鍵が見えるでしょう。


そして選択の時が来ます。封印を強化するか、解くか。もし強化するなら、私はこのまま写し世に留まり、記憶の守護者となります。もし解くなら、私は現世に戻れますが、代わりに狐神の力が解放されます。どちらを選ぶかは、あなた次第。私はどちらでも後悔しません。


ただ、忘れないでほしいのは、すべての選択には代償が伴うということ。力を使えば使うほど、自分の記憶が霧に飲まれる危険があることも知っておいて。


残りの欠片は、記憶を失った村で待っています。それを見つけるのは、あなたの使命かもしれません。


そして最後に——あなたを心から愛しています。感情を表に出せなくても、それはあなたの弱さではなく、強さなのだと知っていてほしい。私の妹、ルカ。あなたの選ぶ道が、あなたの幸せにつながりますように。


チヨより』


ルカの声は最後の方で震え、次第に涙で曇った。手紙を読み終えると、彼女は言葉を失ったように立ち尽くした。チヨの言葉、手紙に込められた思いが胸に迫る。幼い頃、チヨが髪を撫でてくれた温かさが手のひらに甦る。


「姉さん…」


彼女の手が震え、手紙を強く握りしめた。蓮が彼女の肩に優しく手を置き、静かに支えた。その手から伝わる温もりが、彼女をこの場に繋ぎとめる。


「あの地下鉄建設跡での出来事…」ルカは落ち着かない様子で言った。「鉄川さんの言葉『選択を誤るな』が頭から離れないの。チヨの手紙の重みを改めて感じる…」


青い欠片が照らす蓮の表情には、深い共感が浮かんでいた。両親を亡くしているという点で、二人には共通した喪失感があった。


「選択が人生を決めるんですね」蓮は静かに言った。「祖父も選択を迫られたのかもしれません。彼が最後に残した言葉は『時を越える選択』でした」


彼の科学者らしい冷静さの奥には、ルカと同じような心の傷が隠されているようだった。


静江は沈黙していたが、やがて静かに言った。


「それが、チヨの最後の言葉だ。彼女は選択をお前に委ねた」


クロが一歩前に出た。彼の体からは緊張感が伝わってくる。右目の紋様が強く輝き、彼の声は微かに震えていた。蓮の手元の装置が反応して針が大きく振れる。


「選択の時が来た。だが、その前に真実を知るべきだ」


「真実?」


「ああ。狐神の真実、そして…私の正体について」


クロは黒い面に手をかけ、ためらいがちに触れた。面の下で、彼の表情が複雑に変化しているのがわかった。そして彼の後ろの壁に映った影が、人の形から九つの尾を持つ狐の形へとゆっくりと変容していくのが見えた。光に照らされた影は青い霧を纏い、時折揺らめくように不安定な姿に変わる。


「私は…初めてお前に会った時から、真実を知っていた。だが、それを言うことができなかった」


彼の言葉には痛切な後悔の色が混じり、右目の紋様が不規則に明滅していた。面の下から漏れる声には、次第に女性の調子が混ざり始めていた。


緊張が部屋を満たした。クロはゆっくりと狐の面に手をかけたが、すぐには外さなかった。部屋の空気が重くなり、耳の奥で時間の軋むような音が響き始めた。蓮のノートが震え、ページがめくれる。彼の測定器の針は振り切れ、一部は機能を停止していた。


「待って」


静江が声を上げた。


「ここではない。影向稲荷の奥宮へ行くべきだ。すべての始まりの場所へ」


「奥宮?」蓮が訊ねる。


「影向稲荷の中心、時の狭間の結節点だ。現世と写し世の境界が最も薄い場所。写し世の記憶が最も強く現れる神聖な空間」


部屋の空気が変わり、時間がゆっくりと流れるような感覚があった。遠くで鐘の音が鳴り、それは記憶の奥底に眠る何かを呼び覚ますようだった。蓮が困惑した表情で尋ねた。


「奥宮? それは…」


「影向稲荷の奥、一般には知られていない秘密の神域だ」


静江は窓の外を見た。夜の闇が深まり、満月が昇り始めていた。その光が異様に強く、部屋の隅々まで銀色に染め上げていた。窓の外には青白い霧が立ち込め、月の周りには薄い青いリングが現れ始めていた。時の狭間が開き始める前兆だ。


「今夜は特別な夜。月の力が強まる。奥宮へ行き、そこで真実を確かめるのだ」


蓮はノートに何かを記し、静江に尋ねた。


「その奥宮では、何が起きるんですか?」


彼は測定器の数値を確認しながら言った。「この数値は異常です。空間の歪みが発生しているようなものです」


「それは行ってみなければわからない」


静江は謎めいた笑みを浮かべた。


「ただ、君の祖父も見たことのない光景になるだろう」


ルカは手紙を胸に抱き、頷いた。彼女の目に迷いはなかった。母親から教わった「真実は恐れずに向き合うべきもの」という言葉が心に響く。


「行きましょう」


四人は写真館を出た。チクワも一緒だ。猫は今夜、ルカのそばを離れようとしなかった。月明かりの下、その白黒の毛並みが淡く輝き、時折青みを帯びて見えた。チクワが歩くたび、その足音が不自然に大きく響き、まるで大きな獣が歩いているかのように聞こえた。猫の瞳には不安と期待が混じり、何かを予感しているような光が宿る。


道中、町は不気味なほど静まり返っていた。窓という窓に明かりがともり、戸という戸に鍵がかけられている。人々は無意識のうちに、今夜何かが起こることを感じ取っているのかもしれない。空気は冷たく、呼吸のたびに白い息が漂い、それが青い光を帯びているように見えた。


「この世界には二つの側面があるんだ」クロが静かに話し始めた。「現世と写し世。私たちが普段目にする世界と、記憶や感情が実体化する世界。多くの人はその境界に気づかない」


彼の声には痛みと覚悟が混じり、右目の紋様は揺らめくように明滅していた。右手が微かに震え、何かを抑え込もうとしているようにも見えた。


蓮が熱心に聞き入る。「祖父の理論通りだ…『現実は波動であり、観測者の意識によって固定される』と言っていました」


彼は装置を調整しながら言った。「この『記憶波動計』は祖父の最後の発明品です。通常の電磁波とは異なる波動を測定するよう設計されています。その数値が今、振り切れています」


「ほぼ正しい」クロが頷いた。「だが、その波動を操作できる存在もいる。それが狐神と、影写りの巫女だ」


その言葉にルカは自分の胸元に手を当てた。自分もまた、そうした存在になり得るのだろうか。


影向稲荷に着くと、境内は静寂に包まれていた。普段なら神主や巫女たちがいるはずだが、今夜は誰もいない。代わりに、境内のそこかしこに青白い霧が漂い、足元を這うように動いていた。鳥居の影が月明かりで伸び、九本の線が地面に刻まれているように見えた。


「神主は?」


「私が帰るよう言っておいた」


静江は本殿の方へ歩き始めた。彼女の足取りは若々しく、まるで長年の重荷から解放されたかのようだった。


「今夜の儀式は、私たちだけで行う」


「儀式?」


「ああ。真実を知るための儀式だ」


本殿につながる石畳は月光に照らされ、その輪郭が青く浮かび上がる。まるで青白い炎で縁取られているかのようだ。静江が歩くたび、石から微かな青い光が立ち上り、彼女の足跡を追うように動いていた。


蓮は測定器をかざしながら歩いていた。「驚異的な数値です。空間の歪みが最大値を示しています。これは祖父の『時の結節点』の理論に一致します」


彼のノートには複雑な数式が並び、波形のグラフが描かれていた。科学者としての冷静さと、未知への畏れが入り混じった表情で、彼は現象を記録し続けていた。


一行は本殿の裏へと回った。そこには小さな祠があり、その向こうに細い山道が続いていた。道は普通の目には見えないはずだったが、今夜は月光に照らされてはっきりと浮かび上がっていた。


「この先が奥宮だ。神社の創建以来、特別な者だけが訪れる場所。時の狭間の中心だ。この地は現世と写し世が重なる特別な場所。感情の波動と月の光が結びつき、土地の記憶が最も強く現れる」


山道は暗く、細い。蓮が持参した懐中電灯の光だけが彼らの道を照らしていた。しかし、その光はやがて不必要になった。道沿いの木々が、葉から淡い青白い光を放ち始めたのだ。空気は湿っており、苔と古木の匂いが鼻腔をくすぐる。場所全体が神秘的な気配に包まれ、足を踏み入れるたびに時間の流れが変わるような感覚があった。


「写し世の光?」


ルカが問うと、静江は頷いた。


「ここは現世と写し世の境界が最も薄い場所。特に今夜は」


蓮は数値を確認しながら歩いていた。「これは科学では説明できない現象です...計測不能な領域です」彼は装置をしまい、代わりにスケッチブックを取り出した。「祖父の最後の日記には『計測できないものこそ、最も大切なことがある』と書かれていました。今、その意味が分かります」


道は山の中腹へと続き、やがて石の鳥居が見えてきた。それは本殿の鳥居より古く、苔に覆われている。その上部には九つの小さな窪みがあり、欠片を納める場所のようだった。鳥居の周りでは、時間が歪んでいるようだった。耳を澄ますと、子供の笑い声や大人の囁き、ときおり鈴の音が聞こえた。過去の残響だ。ルカの耳に両親の囁き声が聞こえる錯覚がある—「おいで、ルカ」という母の声と、「選択の時だ」という父の声。


「ここからが聖域だ」


静江が言った。「心を清めなさい」


鳥居をくぐると、そこには小さな神殿があった。本殿よりもずっと古い様式で、屋根はこけむし、壁面には複雑な彫刻が施されている。壁には狐の姿や、九つの円を持つ幾何学模様が彫られていた。最も目を引くのは、過去の巫女たちの彫像—それぞれが異なる時代の衣装を纏い、共通して七時四十二分を指す懐中時計を手にしている。彫像の瞳から微かな囁きが聞こえ、記憶の残響が壁に反射するように響く。「記憶を守れ」「時を越えよ」「心を開け」と。


「ここが奥宮…」


ルカは息を呑んだ。場所全体から、強い力が感じられた。写し世との境界が極めて薄い場所だということが直感的に分かる。彼女の肌には鳥肌が立ち、一瞬頭痛が走った。耳元で誰かが囁くような、しかし言葉にならない音が聞こえる。「ルカ、忘れないで」—チヨの声だろうか。そして、もう一つ別の声も。「カメラを持って、ルカ」—父の声に似ている。奥宮の壁には無数の鳥居が重なるような彫刻が施され、その隙間から過去の音が漏れ出しているかのようだ。


「中に入りましょう」


神殿の扉は重かったが、静江がある場所を押すと、音もなく開いた。中は薄暗く、月光だけが天窓から差し込んでいた。湿った古木の香りと、仄かな香木の匂いが入り混じり、ルカの感覚を研ぎ澄ませた。


内部は予想外に広く、中央には石の台があり、その周りを九枚の鏡が取り囲んでいた。鏡はそれぞれ異なる方向を向き、複雑な反射が室内に光の模様を作り出していた。ルカには、鏡の中に人影が映っているように見えた。父と母の姿だろうか。彼らは優しく微笑み、そして消えた。肩に手を置く感触、髪を撫でる温もりを一瞬だけ感じる。父が「写真は感情の結晶だ」と語り、母が「記憶は水の流れのよう」と囁く声が聞こえた気がした。


「これが『記憶の門』」


静江が言った。「九枚の鏡が、九つの欠片に対応している」


彼女は中央の台に進み、彼らに続くよう手招きした。ルカたちが台の上に上がると、鏡の配置がよく見えた。それらは九角形を形作るように配置され、それぞれが中央を向いている。鏡の周りからは、時間の軋む音が強く響いていた。


「これは祖父の記録にあった『記憶の共鳴点』だ...」蓮は震える声で言った。「時間と記憶が交差する場所...祖父は最後にこの場所を求めていたんですね」


彼は小さな装置を鏡に向け、数値を確認した。「異常値です...時間の流れが複数層に分離しています」装置を手に取ったまま、彼の目に涙が浮かんだ。「祖父、あなたは見ていたんですね...そして何かを選択したんですね...」


「欠片を、対応する鏡の前に置きなさい」


静江はルカに言った。


ルカは五つの欠片を手に持った。それぞれが彼女の手の中で鼓動するように脈打っていた。


「どの鏡がどの欠片に…」


「感じるはずだ」


静江の言葉通り、欠片たちが反応し始めた。それぞれが微かに振動し、特定の鏡に向かって引かれるのを感じる。ルカは欠片の導きに従い、それぞれを鏡の前に置いていった。父の日記に記された写祓の技術が彼女の手を導くように、動作に迷いはない。


声の欠片を置くと、耳元でチヨの声が囁いた。「忘れないで」


願いの欠片を置くと、心の奥で誰かの祈りが響いた。「戻りたい」


時の欠片を置くと、ルカの周りで時間が歪み、一瞬彼女の姿が幼い頃の姿に戻った。父と母が彼女の両側に立ち、やさしく肩に手を置いている幻影が見えた。過去の時間の残響がルカの体を通り抜け、古い記憶が鮮明に甦る感覚に彼女は震えた。


光の欠片を置くと、欠片が青い光を放ち、魂写機を通して見たような七色の光に変わる。部屋全体がその光に包まれ、鏡の中に多くの顔が浮かび上がった。村人たちの顔、そして両親の笑顔。光の欠片が鏡に定着する力をルカは感じた—魂写機を手にしたとき、「チヨの写祓の技術が私の手を導く」感覚があった。


最後に影の欠片を置くと、壁に無数の影が現れ、踊るように動き始めた。中央には九つの尾を持つ狐の影がはっきりと映し出されていた。


しかし、欠片を置いていく過程で、ルカは微かな恐怖を感じていた。これほどまでに記憶の波紋に触れると、自分自身が失われてしまうのではないかという不安。姉を取り戻すことは、自分が何か大切なものを失うことを意味するのかもしれない—彼女の内側で、そんな予感が膨らんでいった。


五つの欠片が鏡の前に配置されると、それぞれが強く輝き始めた。その光が鏡に反射し、さらに強い光となって部屋中に広がる。そして、チヨの囁き声—「ルカ、選んで」—が空間に反響した。同時に、部屋の隅の彫像が囁く—「時の狭間の力を受け入れよ」


「残りの四つの欠片は?」


「それは既にここにある」


静江は床を指さした。よく見ると、残りの四つの位置にも何かが埋め込まれていた。「心の欠片」「形の欠片」「霊の欠片」そして「封印の欠片」。それぞれの文字が床に刻まれ、中央へと続く線で繋がっていた。


「封印の時から、ここにあったのだ。チヨが封印時に奥宮に預けた。ただ、あるいは封印の影響で村の記憶に宿った可能性もある」


静江が補足する。「それぞれが記憶の再構築、存在の安定、魂の調和、封印の再構築に必要だ」


全ての欠片が配置されると、鏡が一斉に輝き始めた。それぞれが異なる色の光を放ち、中央の台に反射して複雑な光の幾何学模様を作り出す。模様は宙に浮かび、ゆっくりと回転し始めた。奥宮全体が揺らぎ、写し世との境界が一瞬だけ消えたような感覚があった。


「始まるぞ」


クロが言った。彼は狐の面に手をかけ、ゆっくりと外した。その瞬間、部屋の光が強まり、壁の影がより鮮明になった。蓮は息を呑み、静江も一瞬目を見開いた。


面の下には、若い男性の顔。だが、その右目には奇妙な円形の紋様があり、左半分の顔は表情が変わらなかった。まるで仮面のようだ。彼の半身が人間で、半身が別の何かであるかのような不思議な印象だった。そして鏡に映ったクロの姿は、完全に九つの尾を持つ狐の姿になっていた。


「私の正体を話す時が来た」


クロの声が変わった。以前より柔らかく、どこか女性的な響きも混じる。彼の右目の紋様が強く輝き、言葉を発するたびに微かな二重音が聞こえた。その体の輪郭が揺らぎ、時折半透明になる瞬間もあった。今日の祭りと昨日の地下鉄での儀式が、彼の存在そのものを不安定にしているようだった。


「私は…狐神の片割れだ」


ルカは息を呑んだ。彼の正体についてはうすうす感じていたが、それを聞くのは衝撃的だった。部屋の光が不安定になり、鏡の反射が揺らめいた。蓮のノートのページが風もないのにめくれる。彼は急いでそれを開き、震える手でスケッチを続けた。「祖父が探していたものはこれか...」と彼は小さく呟いた。


「十年前、チヨが狐神を封印した時、その力は分割された。九つの欠片と…二つの意識だ」


「二つの意識?」


「ああ。一つはチヨの中に。もう一つが私だ」


クロは自分の顔、特に右目の紋様に触れた。その仕草には、自分自身への違和感が表れていた。右手が震え、彼の体は波のように揺らめいていた。


「私はチヨと対をなす存在。彼女が『記憶を守る』役割なら、私は『記憶を変える』役目を持つ」


彼は窓から射す月明かりに手をかざした。光が彼の手を通り抜け、壁に狐の影を作り出す。奥宮の鏡に、九つの尾の影が一瞬映り、部屋中の光が揺らめいた。


「最初はただ…混乱していた。自分が何者なのか、どこから来たのか、何のために存在するのか…」


クロの声には苦悩と孤独が滲み、彼の右目から一筋の涙が流れ落ちた。彼の体が震え、右手を握りしめて感情を抑えようとする仕草が見えた。面の下では表情が何度も変わり、男性の顔と女性の顔が交互に浮かんでは消えるようだった。


「冬の厳しい夜、ルカの前に現れたのは…偶然ではなかった。私は他の欠片と繋がりがあり、お前が姉を探していると感じた。だから導き役として接近した。だが、自分自身も何かを探していた。自分の欠けた部分を…」


彼の言葉には痛切な後悔の色が込められていた。右目の紋様が強く脈打ち、青い光が部屋中に投影される。月光の下で彼の影が九尾の狐の形に変わり、壁に映し出された。まるで彼の本当の姿が顕現しようとしているかのようだった。


ルカは困惑した表情を見せた。


「でも…なぜ私を導いたの? あなたの目的は?」


クロは一瞬、目を伏せた。その表情には罪悪感と、何か言い難い感情が混ざっていた。彼女が鏡を差し出した夜を思い出したように、遠い記憶を辿るような表情だった。


「最初は…欠片を集め、封印を解くためだった」


クロは正直に答えた。


「私は不完全だった。チヨの光を求め、彼女と再び一つになりたかった。そのためには封印を解く必要があった」


蓮が静かに尋ねた。


「でも、どうして欠片を集めるためにルカさんが必要だったんですか?」


この質問に、蓮の科学者としての分析力が現れていた。彼は感情に流されることなく、物事の本質を見極めようとしていた。


「血の繋がりだ」クロが答えた。「チヨの封印を解くには、同じ血を引く者が欠片を集める必要があった。私自身では欠片を使えない。代償を払えないからだ。すでに私自身が欠片のようなものだからね」


クロは一瞬言葉を切り、続けた。彼の言葉はますます女性的な響きを帯び、チヨの声に近づいていた。


「だが、旅を共にするうちに、私の中の何かが変わった」


彼は言葉を選ぶように間を置き、右目の紋様が強く明滅した。


「私自身の記憶が戻り始めたんだ。特に…お前の決意を見たとき」


彼はルカを見つめた。その瞳には複雑な感情が交錯していた。


「お前がチヨの記憶を守ろうとする強さを見て、私も思い出した。彼女の思いを…彼女の想いを」


「あなたの記憶?」


「ああ。私もまた、多くの記憶を失っていた。私が誰であるかを」


クロは目を閉じ、胸に手を当てた。その手が青く輝き、彼の体が半透明になる瞬間があった。


「私はチヨの一部でもある。彼女の記憶と思いを受け継いでいる」


彼の声は微かに震えていた。周囲の鏡がその震えに呼応するように、光の波紋を投げかけた。彼の言葉に従って、部屋の光の模様が変化し、壁に無数の記憶の断片が映し出されているようだった。


「彼女がお前を守りたいと願ったように、私もまた…お前を守りたいと思った。それが私の本当の願いだと気づいた」


「巫女として覚醒させたい、という意図はなかったのか?」ルカはクロの目をまっすぐ見つめながら問うた。


クロは一瞬、言葉を詰まらせた。「それは...無意識の願いだったのかもしれない。写し世の均衡を守るために巫女が必要だと、心のどこかで」


彼の声には迷いが感じられ、右目の紋様が不安定に明滅していた。


静江が補足した。


「封印の儀式の際、狐神の力と意識が分割された。善なる部分はチヨと共に封じられ、もう一方の部分がクロになった」


「しかし、それは単純な善悪ではない」


クロが続けた。


「記憶を守ることと変えることは、表裏一体だ。両方が必要なのだ」


彼の言葉に、蓮はノートに何かを書き込みながら頷いた。「二元性の合一...祖父が探し求めていた『記憶の真理』だ。彼は常に『物理法則の向こう側』を見ようとしていた...」


ルカは少しずつ理解し始めた。チヨとクロは、本来は一つの存在の二つの側面だったのだ。だから彼女はクロに初めて会った時から、どこか懐かしさを感じていたのかもしれない。母の形見の着物を見たときの感覚に似ていた。


「それで…あなたは欠片を集めて何をしようとしていたの?」


「最初は…チヨと再び一つになろうとしていた」


クロは素直に答えた。


「自分が不完全な存在だと感じていたからだ。だが、今は分かる。それは単なる自己満足にすぎなかった」


彼の言葉には深い自己洞察が込められていた。右目の紋様から一筋の涙が流れ落ち、その涙が青く輝いて床に落ちた。床に触れた涙は小さな青い花になり、すぐに消えた。


蓮が初めて口を開いた。彼はノートに何かをスケッチしながら言った。


「でも、なぜルカさんが欠片を集める必要があったんですか? クロさん自身が集めれば…」


「それができなかったのだ」


静江が説明した。


「クロは欠片を感知できるが、自力では使えない。代償を払えないからだ。すでに彼自身が欠片のようなものだからね」


「そして」クロが続けた。「ルカには選択する権利がある。チヨの妹として」


蓮は困惑を隠せずにいた。その表情には、科学者としての好奇心と、目の前の神秘への畏怖が交錯していた。「この現象は...科学で説明できるものなのか、それとも...」彼はノートを強く握りしめた。「祖父は科学と神秘の境界を探求していたが...」


彼は装置を取り出そうとしたが、急に手を止めた。「もう測定する必要はないのかもしれない...理解するための別の方法があるのかもしれない...」


その瞬間、鏡からの光が強まり、それぞれが異なる色合いで輝き始めた。光が交錯し、中央の台に映像が浮かび上がり始めた。鏡の面がゆがみ、まるで窓のように別の空間を映し出す。それは十年前の封印の儀式の光景だった。


若きチヨが巫女装束で中央に立ち、周囲には神主や村の長老たち。そして、小さなルカの姿も。彼女の隣には両親が立っている—父は黒い髪に優しい目をした男性、母は長い髪を束ねた凛とした女性。チヨは決意に満ちた表情で、狐神—巨大な青白い狐の姿に向き合っている。奥宮の空気が震え、時の狭間の力が鏡を窓のように変えていく。


「これが…十年前の儀式。奥宮は時の狭間の中心だったのね」


ルカが震える声で言った。心の奥底に眠っていた記憶が鮮明によみがえり、彼女の目から涙があふれた。幼いときの記憶—姉との別れの場面—が彼女を押し潰しそうになる。それでも彼女は目を離さなかった。これが真実なのだ。


映像の中で、チヨは両手を広げ、詠唱を始めた。周囲に時間の波紋が広がり、静かな唱和が空間に響く。狐神は苦しむように身をよじり、その体から光が放たれる。それは九つの光となって四方に散った—欠片の誕生の瞬間だ。そして…チヨの体が光に包まれ、彼女自身も変容し始めた。彼女の髪が白く変わり、瞳が金色に輝く。


映像の中の小さなルカは泣き叫び、チヨの名を呼んでいる。両親が彼女を押さえつけているが、彼女は必死で姉に手を伸ばしていた。父は深い悲しみに沈み、母の頬には涙が伝っていた。父のカメラが床に置かれているのが見えた—最後の家族写真を撮るつもりだったのだろうか。


「イヤ! お姉ちゃん! 行かないで!」


その声に、ルカの目から涙があふれた。幼い自分の記憶が蘇る。チヨの犠牲を止められなかった悔しさ、無力感。そして両親の悲しみ。母の肩が震え、父が彼女を支える姿。儀式の後、ルカは高熱を出し、目覚めた時には姉の存在を忘れていたのだ。


映像はさらに続く。チヨの体から分離した一部が、別の形となって現れた。それがクロの原型だ。チヨは狐神と共に消え、奥宮の鏡の中に吸い込まれていく。彼女の最後の言葉だけが残った。


「わたしのこと、ずっと覚えていてね」


映像がより鮮明になり、ルカが見たことのない光景が続いた—封印の後、混乱する夕霧村の人々。彼らの記憶が青い霧のように抜け出し、徐々に村が霧に包まれていく。「記憶の代償」として夕霧村の集合的記憶が失われていく様子が映し出された。老人たちは自分の名前を忘れ、子供たちは泣き叫んでいた。そして最後に、村を去る人々の姿。彼らの表情は空虚で、自分たちがどこから来たのかさえ忘れていた。


映像が消え、静寂が訪れた。ルカは涙を拭いながら、クロを見た。彼の右目からも、一筋の涙が流れていた。彼の表情には深い痛みと、自らの責任を痛感するような後悔が浮かんでいた。体の輪郭が揺らぎ、クロの存在そのものが不安定になっているようだった。


「あなたは…姉の一部」


「ああ。だからこそ、お前のことを守りたいと思った。旅の途中から、それが私の本当の願いだと気づいた」


クロの声には深い決意が込められていた。周囲の鏡と欠片が共鳴するように輝き、彼の声に力強さが加わった。それはもはや彼自身の声ではなく、何か大きな存在の声のようだった。


鏡の光が揺らめき、映像が再び変化する。次第に、チヨの姿が浮かび上がってきた。白い小袖姿の彼女は、微笑みながらルカを見つめていた。その映像は現像室の扉が一瞬映るビジョンへと変わり、クロが「ルカの記憶が次の試練を呼び出す」と囁いた。


「姉さん…」


ルカは思わず手を伸ばしたが、それは幻に過ぎなかった。手は鏡面を通り抜け、冷たい感触だけが残った。彼女の心は苦しみと喜びが入り混じり、震える感情に満ちていた。自分に押し込めていた感情が、堰を切ったように溢れ出していく。


静江が前に出た。


「さあ、選択の時だ。チヨの手紙にあった通り、二つの道がある」


彼女は中央の台に手を置いた。その手から淡い光が広がり、床に描かれた九角形が浮かび上がった。


「封印を強化するか、解くか。どちらを選ぶ?」


ルカは震える手で、チヨの手紙を再び取り出した。姉の言葉を読み返す。空間全体が波打つように揺れ、時間の流れが歪んでいるのを感じた。彼女の胸が締め付けられるような痛みを覚える。10年間のチヨを忘れた孤独な夜々、写真館での空虚な時間が脳裏に浮かぶ。


「私には…どんな権利があるの? 姉さんの意志を尊重すべきでは?」


その言葉を口にした瞬間、鏡からの光が不安定になり、揺らめいた。壁の影がさらに濃くなり、室内を這うように動き始める。時間の軋む音が強まり、それに混じって誰かの囁きが聞こえた。


「その考えも理解できる」


静江は静かに言った。


「だが、チヨ自身がお前に選択を委ねたのだ。それが彼女の最後の意志だった」


蓮は黙ってルカを見つめていた。彼の眼鏡に映る光が鏡の反射と共に揺らめき、彼の表情にはルカへの深い共感が浮かんでいた。「私たちには選択する権利と義務がある...祖父もまた選択を迫られた...」彼は小さく呟いた。「その選択が何であれ、あなたを支えます」


ルカは深く考え込んだ。封印を強化すれば、チヨは写し世に留まり、記憶の守護者となる。解けば、チヨは現世に戻れるが、狐神の力も解放される。どちらを選んでも、何かを失うことになる。どんな選択にも代償があるのだ。


「どちらにも…代償がある」


「すべての選択には代償が伴う」


クロがチヨの言葉を繰り返した。彼の姿が一瞬、半透明になり、チヨの面影が重なって見えた。彼の右目の紋様が強く脈打ち、異様な青い光を放っていた。その光は鏡と反射し合い、複雑な光の模様を壁に映し出していた。


静江が付け加えた。


「ただし、もう一つの道もある」


「もう一つ?」


「ああ。それは…欠片をすべて使い、新たな契約を結ぶことだ」


ルカは驚いて静江を見た。


「新たな契約?」


「ルカ、お前はすでに五つの欠片を手に入れた。それぞれの代償を払ってきた。その経験が、お前に新たな道を開いたのだ」


鏡の光が一段と強まり、室内が揺れた。床の欠片も微かに輝き始め、それぞれが中央へと光の筋を伸ばした。その光に照らされた壁に、チクワの影が大きく映り、九つの尾を持つ狐の姿へと変容していった。


チクワは興奮したように鳴き、ルカの足元を走り回った。その動きが猫のものでないように見えた。優雅で力強いリズムがあり、まるで儀式の舞を踊っているようだった。背中の毛が青く輝き、尾が九つに分かれて見える瞬間があった。


蓮が前に出た。彼の眼鏡に光が反射し、複雑な光の模様を映している。彼の表情には、科学者としての冷静さと、人間としての温かさが混在していた。


「僕にはよく分からないけれど…ルカさんが本当に望むのは何ですか?」


彼の質問は単純だが、核心をついていた。ルカは自分の心の奥深くを見つめた。今までの旅の中で見てきたもの、感じたこと、欠片を得るために失ったもの—それらすべてが彼女の中で結びついていく。幼い頃の両親との記憶も、少しずつ鮮明によみがえってきた。父のカメラ、母の優しい手、そして姉の笑顔。


「私が望むのは…姉さんと共に生きること。でも、それが無理なら…せめて記憶を完全に取り戻したい」


彼女の言葉に呼応するように、九枚の鏡が一斉に強く輝いた。蓮はすかさずノートに何かを書き留め、光の模様をスケッチしている。


「これは祖父の記録にあった『記憶の波動』だ…」彼は興奮した声で呟いた。「光のパターンが記憶を映し出している!」


「それが真実の願いか」


クロが問いかけた。彼の右目の紋様が鮮やかに青く輝き、声は完全に二重音になっていた。一方は彼自身の声、もう一方は女性—おそらくチヨの声だった。


「ならば…残された唯一の道がある」


彼は中央の台に近づき、右手を差し出した。その手が今や半透明になり、青白い光を放っている。


「私はチヨの一部。彼女もまた私の一部。私たちは再び一つになるべきだ」


「でも、それは…」


「私の消滅を意味する? いや、違う。変容だ。私とチヨは、元々一つの魂から生まれた。それが再び一つになれば、新たな形で存在できる」


クロの表情が柔らかくなり、久しぶりの笑顔を見せた。それは切なく、美しい表情だった。


「お前との旅で、私は思い出した。何のために存在するのかを」


ルカは困惑した表情でクロを見つめた。奥宮の空間が波打ち、鏡の映像が揺らめくように変化していく。時間の感覚が歪み、言葉が引き伸ばされて聞こえる。遠く、チヨの囁き声が「ルカ、選んで」と響き、それに父と母の声が重なった。「記憶を信じて」「選択の時」「写し世と現世の狭間で」


「それが…可能なの?」


「欠片の力を使えば、可能だ」


静江が答えた。彼女の姿もまた変容し、より若々しく、鋭い眼差しを持つ女性のように見えた。


「だが、それにも代償がある」


「何の代償?」


「それを決めるのはお前だ」


ルカの周りで鏡の光が渦巻き、映像が次々と変化する。彼女の記憶の断片—チヨと過ごした日々、父とカメラを覗いた時の興奮、母に手を引かれて歩いた夏祭り、そしてチヨを忘れていた空白の10年、クロとの旅の風景、そして最近取り戻した記憶の数々。


蓮が歩み寄り、彼女の隣に立った。彼は科学への敬愛を捨て去るのではなく、むしろ科学と神秘が交わる境界に立つという覚悟を決めたようだった。


「ルカさん、君の選択を記録させてもらえますか?」彼は真剣な表情で言った。「祖父の記録に、この瞬間を残したい。この記録が祖父の夢の完成になる」


彼は懐中時計を取り出し、針が七時四十二分を指していることを確認した。その時計は通常の時計ではなく、針の下に複雑な数式が刻まれていた。「祖父が残した最後の道具です...時の逆行を測定するためのものです」


「ありがとう」


ルカは心からの笑顔を蓮に向けた。彼女の目に涙が光っていたが、それは悲しみの涙ではなく、感動の涙だった。父の「写真は感情の記録だ」という言葉が心に響く。


ルカは深く息を吸い、決意を固めた。


「私は決めました。姉さんを取り戻します。そして…その代償として…」


彼女は一瞬、逡巡した。選択の重みを感じながら、彼女は胸ポケットから懐中時計を取り出し、強く握った。


「…私自身の過去を捧げます。姉を忘れていた10年間の記憶を」


静江とクロが同時に目を見開いた。鏡の光が瞬間的に強まり、チクワが低く唸った。猫の背中の毛が青く輝き、尾が九つに分かれたように見えた。


「それは…大きな代償だ」


クロの声に驚きが混じっていた。空間全体が彼の感情に反応したかのように揺れた。


「でも、それが私の選択です。新しい記憶のために、古い記憶を手放します」


ルカはクロミカゲの手を強く握り、光に身を任せた。記憶が失われていく感覚は、予想以上に苦しいものだった。しかし同時に、新たな記憶が生まれ始めるのも感じた。


蓮はルカを見つめながら、静かに記録を続けていた。彼の姿には科学者としての冷静さと、深い友情が混ざっていた。「祖父もこの選択をしたのかもしれない...」彼は小さく呟いた。「彼もまた時を越えて、何かを選んだのだ...」


ルカの頭に、忘れていた日々の断片が浮かんだ。写真館で一人、夜を過ごす寂しさ。誰かを待っているような気持ちを抱えながら、その「誰か」が誰なのか思い出せない苦しみ。父のカメラを手に取り、説明できない涙を流した夜。母の形見の着物を見つめながら感じた虚無感。けれど、それらは姉の存在を取り戻すための小さな代償に思えた。


台の上の光が強まり、九つの欠片が一斉に輝き始めた。鏡が軋むような音を立て、光が不安定に揺らめいた。ルカの決意が、新たな儀式の始まりを告げている。


「では、始めよう」


クロが中央に立ち、ルカに手を差し出した。彼の右目の紋様が強く光り、左半分の顔にも表情が浮かび始めていた。


「私を…信じてくれるか?」


ルカは迷わず手を取った。


「信じるわ。あなたは姉さんの一部なんだから」


二人が手を取り合った瞬間、光が爆発的に広がり、空間全体を包み込んだ。九枚の鏡が高い音を立て、それぞれの表面がひび割れ始めた。


蓮と静江は後ろに下がり、チクワはルカの足元で震えながらも動かなかった。蓮が懐中電灯を掲げ、その光のもとで必死に光景をスケッチしていく。彼の動きには科学者としての使命感と、祖父への敬愛が込められていた。


光の中で、クロの姿が変容し始めた。彼の体から青白い霧のようなものが立ち上り、渦を巻く。彼の面が完全に消え、素顔が露わになった。半分は若い男性の顔、もう半分は白髪の女性の特徴を持つ不思議な顔だった。その瞳は金色と青が混ざり、時折明滅していた。


そして突然、もう一つの霧が現れた。それは奥宮の天井から降りてきたもので、女性の形をしていた。彼女は白い小袖姿で、かつてのチヨの姿そのままだった。


「姉さん!」


チヨの霧の姿は微笑みながら、クロの方へと近づいていく。彼女の瞳は金色に輝き、白い髪が風もないのに揺れていた。二つの霧が触れ合い、混ざり合い始めた。


「彼らは…一つになろうとしている」


静江が震える声で言った。彼女の表情には厳かな敬意が浮かんでいた。「これが本来あるべき姿だ」


蓮は震える手で記録を続けていた。「これは科学では測れない...しかし、確かに存在する現象だ...」彼の言葉には、新たな理解への歩みが表れていた。


光がさらに強まり、二つの霧が完全に融合した。クロとチヨの姿が溶け合い、新たな存在が形成されていく。台の上に置かれた九つの欠片も宙に浮かび、渦を巻きながらその新しい存在へと吸い込まれていった。奥宮の光が部屋全体を揺るがす中、光が徐々に安定化し、写し世の揺らぎが一時的に治まっていく。


やがて、その霧から一つの形が現れ始めた。それは人の形だったが、男でも女でもない、中性的な存在。狐の耳と尻尾を持ち、全身が青白い光に包まれている。その髪は銀色と黒が混ざり合い、瞳は金色と青が交互に輝いていた。


「これが…」


「真の姿だ」


静江が答えた。「狐神の本来の姿」


蓮はノートに必死でスケッチを続け、「これは祖父の記録を超える…」と呟いた。「祖父は科学で真実を測ろうとしたけれど…今、私はその向こう側を見ている」


光の中で、狐の姿をした存在がルカに向かって手を伸ばした。その声は、チヨとクロの声が混ざったようだった。


「ルカ…約束を果たしてくれてありがとう」


ルカは涙を流しながら、その手を取った。


「姉さん…そして、クロ」


「もう二人ではない。私たちは一つになった。『クロミカゲ』と呼んでくれ」


クロミカゲと呼ばれる存在は、ルカの額に優しく触れた。その手は冷たくもあり、温かくもあった。


「さあ、代償の時だ。お前の選んだ記憶を受け取ろう」


ルカの頭に鋭い痛みが走り、姉を忘れていた10年間の記憶が流れ出し始めた。一人で過ごした写真館の夜々、父のカメラを抱きしめて涙した夜、自分が何かを探しているような感覚に苦しんだ日々—それらが青い霧となって彼女から離れていく。


「これが…私の代償?」と彼女は呟いた。涙が頬を伝い落ちる。


「でも、姉さんの笑顔を取り戻すなら…」


ルカはクロミカゲの手を強く握り、光に身を任せた。記憶が失われていく感覚は、予想以上に苦しいものだった。しかし同時に、新たな記憶が生まれ始めるのも感じた。クロミカゲの手から「チヨの写祓の技術が私の手を導く」感覚が流れ込む。


「新しい記憶を、創るよ」


それは苦しいプロセスだったが、同時に解放感もあった。忘れていた記憶と引き換えに、新たな記憶が生まれる。チヨとの思い出が鮮明になり、クロとの旅の日々が異なる色合いで蘇ってくる。父が三人を撮った家族写真、母がチヨに髪を結ってあげる光景、それらが明確に思い出せるようになった。


クロミカゲの手から光が流れ、ルカの体を包み込んだ。


「これは…新たな記憶。私たちが共に過ごした時間と、これから共に過ごす時間」


光が次第に弱まり、クロミカゲの姿も実体化していった。彼らは人の姿に近いが、青白い髪と金色の目、そして狐の耳と尻尾を持っている。両手に九つの印—それぞれの欠片の象徴が刻まれていた。


「私は『記憶の神』として存在し続ける。だが、もう封印されてはいない。お前と共に、この世界で生きていく」


ルカは信じられない思いでクロミカゲを見つめた。


「本当に…一緒にいられるの?」


「ああ。だが、完全な人間ではないし、完全な神でもない。境界の存在としてね」


クロミカゲの顔には、チヨの優しさとクロの鋭さが混ざり合っていた。その微笑みは、ルカの記憶の中のチヨそのままだった。


儀式が終わり、光が消えた。奥宮の中は月明かりだけになり、九枚の鏡には新たな映像が映っていた。それはルカとクロミカゲ、そして周囲の人々の未来の姿だった。写真館での日々、共に過ごす時間、そして微笑む人々の姿。そして、その先には「心の欠片」「形の欠片」「霊の欠片」「封印の欠片」が霧梁の彼方に浮かぶ景色も映し出されていた。鏡の一つには現像室の扉が映り、「ルカの記憶が次の試練を呼び出す」という言葉が聞こえた。


静江は安堵の表情を見せた。


「これで、すべてが元あるべき形に戻った」


彼女は微笑み、「欠片の旅はまだ続く」と静かに付け加えた。「失われた村に心、霊、封印の欠片が眠っている」


蓮は驚きと感動で言葉を失っていたが、やがて口を開いた。


「信じられない…科学では説明できないことが、目の前で起きた」


彼は震える手でノートを閉じ、眼鏡を直した。


「祖父がずっと追い求めていた真実…ついに見ることができました」


クロミカゲは彼に微笑みかけた。


「科学と神秘は、表裏一体だ。風見蓮、お前の目は真実を見る目だ。記録し続けなさい」


蓮はその言葉に力強く頷いた。彼の目には新たな決意が宿り、科学と神秘の境界に立つという覚悟が感じられた。


「わかりました」彼は真剣な表情で応えた。「祖父が残した使命を引き継ぎます。科学で測れるものと測れないものの間に橋を架けるために」


チクワがルカの足元から立ち上がり、クロミカゲに近づいた。猫は一瞬警戒するような仕草を見せたが、やがてその足元に座り、喉を鳴らし始めた。チクワの金色の瞳が輝き、魂写機の写真を守るように前足を置いた。猫の背中の毛は青く輝き、その瞳にはクロミカゲを認める光があった。


ルカはクロミカゲの手を取り、奥宮の外へと歩き始めた。


「帰りましょう。写真館へ」


四人—そしてチクワは、月明かりの下、山道を下り始めた。ルカの心には、失った記憶の代わりに、新たな希望が宿っていた。彼女の表情には、これまでにない穏やかさと確かな強さがあった。感情を抑え込む必要はもうない。すべてを受け入れることができる。姉のいない10年間の記憶を代償として差し出した代わりに、姉と過ごした記憶が鮮明に蘇り、これからの記憶を共に作っていく約束を得たのだから。


「また一から始めるのね」


「いや」クロミカゲが優しく言った。「続きから始めるんだ」


クロミカゲの姿が月明かりに照らされ、淡い影を地面に落とす。その影は人と狐が交互に入れ替わるように揺れていた。一瞬、クロとチヨの二つの意識が交錯するような表情が浮かび、次の瞬間には調和した穏やかな表情に戻る。二つの魂が一つになる過程はまだ完全ではないのだろう。


「私も...まだ慣れていないよ」クロミカゲは自分の姿を見つめながら呟いた。「チヨの意志とクロの本能が...時に衝突する。でも、お前のためなら、私たちは一つになれる」


月が空高く昇り、霧梁県全体を銀色に染めていた。新たな物語の始まりを告げるように。


静江は二人を見送りながら、静かに呟いた。


「記憶は消えない。形を変えるだけだ」


下山する道で、ルカはクロミカゲに問いかけていた。


「残りの欠片は...本当に夕霧村にあるの?」


「ああ。封印の影響で、奥宮から村の記憶に移ったようだ。心の欠片は村人たちの絆の中に、霊の欠片は村の守護者の魂の中に、封印の欠片は...」


クロミカゲの声が途切れ、その表情に一瞬、不安の色が浮かんだ。


「...それを見つけるのが、私たちの次の旅になる」


蓮がノートを開き、「夕霧村の地図を手に入れる必要がありますね」と言った。「祖父の記録によれば、北部の山奥に位置し、霧に閉ざされた村だと...」


彼は懐中時計を取り出し、表面を撫でるようにして言った。「祖父の遺志を継ぐためにも、真実を突き止めなければ」


月明かりの中を歩きながら、ルカは新たな決意を胸に抱いていた。父の「写真は記憶の結晶だ」という言葉と、母の「感情を恐れないで」という教えが、彼女の中で一つになっていた。


そして、クロミカゲとの新たな旅が、すでに始まっていた。チクワが先を行き、蓮が地図を広げ、新たな仲間として加わるように映る彼の姿に、ルカは心強さを感じた。科学と神秘、記憶と忘却、失うことと得ること—すべてが彼女の人生を形作っていく。


記憶に消えない一瞬として、この夜のことを心に刻みながら。

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