第3話

玄関のドアを開けると、キッチンからいい匂いが漂っていた。魚を焼く匂いだ。光輝が「ただいまー」と声をかけると、母はエプロン姿で振り返る。


「おかえり、今日は早かったのね。どうしたの? 服が少し汚れてるじゃない」


そう言われて光輝は、自分が水たまりを跳ねて帰ったのを思い出した。特に気にするほどの汚れでもないが、いつもより行動的な自分の姿に少しだけ誇らしさを感じた。


「ちょっと、学校から寄り道して……ねぇ、母さん、猫って飼いたいって前に言ってたじゃない? もし、野良猫がいたら家に迎えたいって思う?」


突然の問いかけに、母はフライパンを置く手を止めると、困ったように笑いかけた。


「そうね、可 愛いけど……お父さんが仕事で疲れてるときに大丈夫かしら。私も帰りが遅くなること多いから、しっかりお世話できるか不安なのよ」


母は以前から猫好きではあるものの、家族の生活リズムに踏み切れなかった経緯があるのを光輝は知っていた。そのことを説明される前から、おそらく答えはそういうものだろうと想像していた。


「でもね、母さん、最近お父さんがもうちょっと早く帰れる仕事に変わるかもしれないって話してたでしょ? それに僕、ちゃんと猫の世話するよ。トイレとかエサとか調べてもいいし、何でもやる」


食卓に手を添える母の目が、ほんの少し動揺を帯びる。子どもからそんなに真剣な言葉を聞くのは久しぶりかもしれない。


「急にどうしたの? 何かあったのね」


光輝は椅子に座り、建築現場で見かけた猫のことを順を追って説明した。雨の日にうずくまっていたこと、怪我の状態、そして現場の職人・大河とのやり取り――ひとつひとつ丁寧に話していくうち、自分でも驚くほど言葉がすらすらと出てきた。


「自分がちゃんと世話をするからって言っても、簡単なことじゃないのはわかってる。でも、どうしても見捨てられなくて。大河さんも獣医にかけてくれたけど、誰かが飼わない限り、ずっと野良猫のままじゃ心配だよ」


光輝の様子を見守っていた母は、小さく息をついた。そして少しだけ真剣な表情になって、「じゃあ、お父さんが帰ってきたら相談してみましょう。二人とも納得できるように話し合わないとね」と言った。


その日は、夕食後すぐに父が帰宅した。こういう日に限って仕事が早く終わるとは、何ともタイミングがいい。光輝はさっそく猫の話を切り出したが、父は驚くほど冷静に、「そうか、そういう状況なら一度見に行くか」とすんなり応じてくれた。


ふだんは忙しそうに新聞を広げるだけで終わる父だが、「猫好きだったしな……」とぼそりとつぶやき、初めて見るような微笑みを浮かべている。


「本当に飼えるなら、ちゃんと迎えてやろう。ただし、途中で投げ出すなよ。おまえが大人になる頃まで一緒に過ごすかもしれないんだ。最後まで責任をもつってこと、ちゃんと覚悟しておけ」


父の言葉には威圧感はなかった。むしろ、何かを思い出すように遠くを見つめている。子どもの頃の父も、猫と暮らしていたのかもしれない――そんな想像が光輝の頭に浮かんだ。


こうして、家族は本気で猫を飼うという選択肢に向き合い始める。光輝は喜びをかみしめつつ、これからの準備や心構えが必要だと、意識を引き締めるのだった。

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