三輪の神

 

 まだ暗い中、起き上がった少女に、男が声をかけた。

 どうしたんです? というその声は日野のものとは違っていた。


 ああ、とその顔と旅館の部屋を確認し、今が現代だと知る。


「夢を見ていたの」

 そう言いながら、その顔を見て、ぷっと噴き出した。


「な、なんですか?」

「ううん……そうか、そうだったわ、思い出した」


「は?」

「あんたが誰だか思い出したの」


 男は微妙な顔をする。

 訊きたいような訊きたくないような、そんな顔だった。


「あんたが思い出さない理由もわかるわ。

 思い出したくないんでしょう。


 余程、垣坂に振り回されてたのね」


「はあ?」

「……でもたぶん、思い出したくないのはそのことじゃなくて」


 少女は起き上がり、男を振り返って、にやりと笑う。


「あんた、私のことを、あんなに奇麗な女人は見たことがないと言っていたそうよ」


 あの後も垣坂は二度ほど抜け出して来ていたが、それに付き添って来ていたこの男が、ぼーっと間抜けな顔で、自分を見ていたことを思い出す。


「言いませんよっ、そんなことっ。


 どんなに状況でも時代も違っていても……それ、私じゃないっ。

 私じゃありませんっ。


 言いませんって絶対―っ」

と悔しげに二人の間に空いている畳を叩いている。


 過去を思い、今の二人の関係を思って、少女は笑った。

 だが、その笑いをすぐに止める。


「あの鏡――」

「え?」


「私が神を写し取ろうとしたあの鏡」


 今は何処にあるのだろう。

 少女は立ちあがり、窓の側に向かう。




「伊勢の神は、三輪の神と同じだそうですね」

 ふいにそんなことを言い出した従者の言葉に、帝は顔を上げた。


「なんの話だ?」

「……三輪の神は夜な夜な姫の寝所に通って、寝具の中にウロコを落としていくと言います」


「蛇らしいからな」

とたいして信じていないように、再び脇息に寄りかかる。


 だが、忠実な部下の顔に、何かいつもと違うものを感じ取っていた。


「伊勢の神も同じだと――。

 斎王というのは、神の花嫁ですからね」


「何が言いたいんだ?」


 曖昧な伝承になぞらえて、彼が何を言おうとしているのか、薄々察し始めていた。


 問い詰めると、従者が親しくなった女房のひとりが急ぎの文で知らせてくれたらしい。


 その内容は、三輪の神を詠んだ歌に暗喩されていたが、すぐにそのことと知れた。


「日野か……」


「今はまだ広まってはいないようですが、このことが知れれば斎王様は――」


 天皇は立ち上がり、御簾の向こうを見ていた。

 庭の先に、遥か伊勢を望むように。


 静かに目を閉じる。


「譲位する」


「……え」

 一番信頼のおけるその従者を振り返り、厳かに天皇は言った。


「私は帝を降りると言っているのだ」

 帝っ! と縋るように従者は天皇を見上げた。


 だが、彼の決意は固かった。


「そろそろ、関白たちも私を疎ましく思い始めたようだ。

 この辺が潮時だろう。


 東宮はもう六つ、天皇になっても、おかしい年ではない」


 薄く帝は笑った。

 従者は床の上で強く拳を握り締め、額を床に擦りつける。


「……帝っ」


 この男が天皇になったとき、彼女が斎王になったとき、誰もが何かが変わるような、そんな予感がしていたのに。


 だが、彼の想いを知る忠実な部下はそれ以上引き止めるすべを持たなかった。


「……無念にございます」


 天皇は即位してから今までのことを思い出すように遠くを見つめ、ただ微かな笑みを浮かべていた。








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