いにしえの幻視

 

 そこは護岸工事もしていない、緑のある川原だった。


 立花と男は少し離れたところから、水辺を見ていた。


 水際ぎりぎりのところで、少女と欒が某か言い合いながら、笑っている。


 かつては、多気の野を蛇行し流れるこの櫛田川と祓川で身を清めなければ、都の勅使でさえ、この聖なる野に入ることはできなかったと言う。


 いにしえの面影を残した川を見下ろしながら、立花は煙草を取り出した。


 風が強くてうまく火がつかなかったが、男が横からライターを取り、つけてくれる。


 一頻り吸ったあとで立花は言った。


「すまなかったな」

「何故、立花さんが謝るんです?」


 ちょっと遠い位置に居る垣坂を見ながら、立花は小さく口を開いた。


「……姪なんだ」

「はい?」


「私の年の離れた姉の子だ。

 姉は本家の人間と結婚したので、血続きでも欒の方が位が高いことになる。


 それで、幼いころから宮様と触れ合う機会も多く、あのように宮様を崇拝している」


「そこがちょっとわからないところなんですけど」


「だから、宮様付きの私のことが誇らしかったらしく、昔はたいそう慕ってくれていた」


「それが裏目に出たってわけですね」

 言っておくが、と立花は眉根を寄せる。


「私と宮様とのことは、ご当主と福音様くらいしか、ご存じない」


「福音様が?

 それで、どうして貴方は今もそうしていられるんです?


 いや、それよりも、何故、お嬢はなんの咎も受けないんですか。

 その事実だけで、廃嫡に追い込めるんじゃないですか?」


 さあな、と立花は煙を吐き出す。


「なにか決定的な機会を狙っているのかもしれない。

 福音様のお考えになっていることは、私などにはわからない」


 当主に継ぐ地位である福音をなじるわけにもいかず、立花は苦い言い訳をした。


 


 欒が伊勢神宮に行ったことがないというので、彼女に甘い少女はもう一度神宮に行ってみることにした。


 自分自身が何も手がかりを得られていないからというのもある。


「昨日のおばあさん居ませんね」

 男の声に、ふと顔を向ける。


 樹齢何百年もありそうな木々が生い茂り、今日も雰囲気だけでも、神宮は涼しそうだった。


「当たり前でしょ、観光客なら」

 少女は石段を見ながら言う。


 欒と立花は後ろでまた何事か揉めていた。


 歩き過ぎた少女は、ふうと溜息をついて、石段に腰を下ろす。

 男は座らずに目の前に立っていた。


「人間てさ、罵られるより、敬われる方が痛いよね」


 自分はそんな人間ではないと思い知らされることも、その期待に応えられないことも。


「それって、欒さんのこともですか?」

 うん? と顔を上げる。


「なんのかんの言いながら、欒さん、貴方を慕っているようですね」


 そうね、と少女は視線を落とした。夏でもひんやりとした砂利に手を伸ばす。


「人は貴方を見て、敬ったり嫌ったり」

 嫌ってるのはあんたでしょ、と内心苦笑する。


「注目される度合いが強い分、他人の貴方に対する思い込みもまた大きい。

 貴方、苦しくはないんですか?」


「……らしくない話をするわね」

と唇の片端を上げて嗤った。


「いえ、私と欒さんの態度だけ取ってみても、あまりにも違うなと思ったものですから」


 思い込みか、と少女は後ろの冷たい石段に手をつく。

 膝より少し上のスカートから覗く白い脚に、木漏れ日がちらちらと揺れていた。


「誰だって、他人からは思い込みの眼鏡をかけて見られるものよ」

「誰にも相手の真実の姿は見えないってことですか?」


 真実の姿ってなに? と少女は嗤う。


「私だったら、あれ? 見かけは子供でも魂は子供じゃなくて。

 平気で男に逃げたり、この世界を消したりしようとしてるってこと?」


「……そこまで言ってないじゃないですか」


 男は厭な藪をつついてしまったという顔をする。

 少女は立ち上がると、男を真正面から見詰めて言った。


「そういう意味じゃ、実はあんたが一番私の真実の姿を見ているのかもしれないわね。


 でもきっと――


 それも全部じゃない」


 あんたは他人に理解されたいの? そう問うてみたが、男は応えずただ自分を見下ろしている。


「私はね、自分のことを誰かにわかって欲しいなんて思ったことないわ。

 それを望むのは、一度でも他人に理解されたことがある人だけよ」


 男が迷うように口を開きかけたとき、何処かへ消えていた一騎がやってきた。


 宮様、と目の前に立つ。

 いつもの自信なさげな彼とは違っていた。


「目を――」

「え?」


「目を閉じてください」


 言い様、一騎の白い冷たい手が瞼に触れる。

「意識を私の手に集中して」


 一騎の手からは懐かしいような波動が伝わってきた。


 その気配に、一騎が神宮を回って力を集めていたのだと気づく。


 額の中心からその冷たさが広がっていった。


 なにを、と言う遠い立花の声と、男がそれを抑える声が聞こえた。


 蝉の声――。


『お前……本当に伊勢に行くつもりか』


『さあ、それもいいんじゃない?』

『私は認めない』


『貴方にそれを止める力はない』

 冷たく言い放った自分に、ふと彼は気づいたように言う。


『お前― もしかして行きたいのか?』

 わからない、と自分は首を振った。


『行けば何か変わるような気もする。

 だけど……』


 わからない、と繰り返すと、いいだろう、と『垣坂』は嗤った。


『行くがいい。

 その間は、誰もお前をめとれない』


 一生かもよ、と笑い返した。

 帰らせるさ、と彼の手が髪に触れる。


『それまでに充分力をつけて――』

 垣坂は自分の口許に濃い艶やかな黒髪の束を持っていく。


『そう。期待しないで待ってるわ』


 


 はっと少女は目を開けた。


 いつの間にか一騎は手を離していた。

 窺うようにその理知的な目が問う。


「なにか、見えましたか?」

「垣坂は……本当にあんたの先祖?」


 一騎は少し迷って言った。


「違うような気がします。

 では、何故私についているのかと問われると」


 そこで言葉を切ったが、それは知らないから、というより、知っていてもはばかられるから、という風に見えた。







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