斎王群行
意識が真っ暗になった次の瞬間、強い蝉の鳴き声がした。
寝殿造りの広廂から、少女は、ぼーっと庭を見ていた。
自分を慰めるように植えられた花や木々が風に揺れている。
あっ、という声に振り返ると、男ぶりのいい狩衣姿の男が立っていた。
「また、そんな端に出てらして」
口調は丁寧だが、その長身も相まって常に何処か威圧的だ。
だが、少女はそのまま高欄に倒れ込み、白い衣の重なった袖に顔を寄せた。
「……あー、帰りたい」
「はい?」
少女は身体ごと振り向き、憐れみを乞う物乞いのように、両手を広げ訴えかける。
「だって、みんな私を下にも置かないのよっ」
「……斎王様ですからね」
当り前だろうと男は切って捨てた。
「こんな生活向いてないのにっ」
と泣き崩れる少女に、まあまあ、と、ころんとした顔と身体の命婦はとりあえず寄ってきてくれたが、男は上から見下ろしたまま、つれなく言い放つ。
「泣き真似しても駄目ですよ」
ああ、つまんない、と少女は顔を上げた。
もちろん泣き真似だった。
「やっぱり、一番固い奴を側付きにするって本当だったのね」
「当り前です。間違いがあっては困りますから」
「心配しなくても、間違いなんか起こんないわよ」
そういえば、この男、最初からこうだった、と思う。
斎宮まで随行する
卜定という占いの儀式により選ばれた斎王は、宮中に用意された初斎院で、斎戒沐浴の生活を送る。
その後、京の西の郊外に置かれた仮の宮殿、野宮に移り、またも、潔斎の日々を送ったのちに、伊勢神宮の神嘗祭に合わせて九月に旅立つのだ。
盛大な
このゆっくりとした群行は、もちろん朝廷の権威を見せつけるためのものだ。
その行程の中で、最大の難所と言われるのがこの鈴鹿峠であった。
落ちないよう市女笠を手で押さえ、少女は目の前で馬を引いている男の肩を叩いた。
振り返った男――
「斎王様!」
「どう? わかんないでしょ」
女房の着る壷装束を身に着けた少女を、日野が怒鳴りつけた。
「わかりますっ。貴女は何処にいらっしゃってもわかるんですよっ」
なんでみんな黙っていたか、と日野は辺りの者を睨む。誰もが俯き、心の中で呟いていた。
見てない 聞いてない
見てない 聞いてない。
「だって、輿の中の方が疲れるのよ。
人形でも乗せときなさいよ」
「そんな群行聞いたことありませんっ」
馬を引く日野の側を歩きながら少女は言った。
「日野だって馬降りてるじゃないの。
この急勾配じゃ馬が大変だからでしょ。
私が輿から転げ落ちたらどうすんの」
と
邪気を祓うとされる葱の花を象った黄金の飾りのついたこの輿は、本来、天皇が略儀の際に乗るものだが、斎王は群行の際、これを用いることを許されていた。
しかし、名誉あるその輿もこの難所では、乗っている方が拷問だ。
「普通、落ちません」
にべもなく言い返す日野に、少女は溜息をついて言った。
「固いわね、ほんとガチガチね。
あなたのお父さんより固いわよ。
――ねえ、この先もずっと固いの?」
「そうでなければ勤まりませんから」
これ以上、駄々をこねては、周りの人間が叱られるかもしれないと少女は止められた輿に素直に乗ることにした。
「飛び乗らないっ」
「だから、煩いわよっ。
だいたい、私が乗ってない方が軽いでしょ?」
ああ、と日野は今来た道を振り返る。
狭く険しい山道の、先程が一番の難所だった。
そこを過ぎたから素直に申告したのだ。
そっと飛び降りるのはできても、日野に気づかれずに、飛び乗るのは難しい。
察したように横を歩く日野が言う。
「貴方は、そんな余計な気を廻さなければならないようなお立場ではないんですよ、もう」
正面を向いたままの厳しい横顔に、はーい、と適当な返事をする。
深い木々が切れ、林の間に落ちている夕陽が道と群行の一団に降り注いでいた。
夕暮れどきは妙に少女の心を騒がせる。
目をしばたたいてそれを見ながら日野に呼びかけた。
「日野、神様っていうのはね、本当はそんなに煩くないのよ。
要は心よ。
礼儀正しく言われたことを守っていれば救われると思うのは、人間の勝手な思い込みよ。
その方が楽だから」
「まったく、口だけはいっぱしですね」
「もうひとつ訊きたいわ。
……どうしてそんなに無礼なの?」
周りの人間が噴き出し、日野も目許だけで少し笑ったような気がした。
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