氷点ログの向こうで、三田村香織は嘘を待つ――倒叙・凍都データセンター事件
湊 マチ
第1話 氷点ログ
都市が凍った。
風が鳴り、雪が横に走る。
データセンターの外壁は薄く白く、非常灯だけが橙で脈を打つ。
設備室。
室田剛はグローブを外し、指先の感覚を確かめる。
キースイッチを左で回す。
青い点滅がひとつ灯る。——準備。
CRACのファンが、ウィーンと回って、半拍だけ落ち、戻る。
その二十秒を、室田は身体で知っていた。
NOC(監視室)まで、廊下を歩く。
防曇フィルムは内側から淡く白んでいる。
扉のラッチに、左の肩を寄せる前に、耳で数える。
一、二、三——軽くなる。
紙一枚ぶんだけ、金属が譲る。
左の指でラッチの背を押し、中へ入る。
扉は自重で戻り、内側のロックが噛む。
外からは誰も、いまの軽さを知らない。
会田裕一は椅子の背にもたれて、画面を見ていた。
AIOpsのダッシュボードは緑で埋まる。
緑すぎる。
室田は吸排気の小さなレバーに触れる。
音は大きくない。
空気の流路が、ほんのわずか、偏る。
会田の呼吸は乱れない。
——いきなりでは、ない。
室田は視線を外し、コンソール前の端末に腰を下ろす。
ログの窓を開く。
“POWER EVENT 08:00:40”。
同じ秒のスタブをもう一度注入する。
相関エンジンは丁寧に折り畳み、緑の行を揃える。
プリンタに送れば、濃淡の違う二重行ができるはずだ。
“正常”は、整えられる。
社内チャットを開く。
スレの端に、同秒で三つのスタンプ。
「エッホエッホ」「エッホエッホ」「エッホエッホ」
モバイルでは間に合わない。
PCからだけできる同秒連打。
席の位置は決まっている。
ログは、席を裏切らない。
配線写真のタブを開く。
昨日撮ったラックのマクロ。承認タグは「ビジュいいじゃん」。
EXIFのタイムゾーンを確認して閉じる。
二分。
小さいけれど、二分は長い。
“08:00”は、すぐに“08:00”ではなくなる。
背後で、会田がゆっくりと息を吐く音がした。
NOCの空気は乾き、静かで、寒い。
室田は立ち上がり、窓の防曇フィルムに指を近づける。
内から外へ、霜が細く伸びるのを確かめる。
——“今だけ”開いて、“今だけ”閉じる。
合図が整っている。
この施設は“賢い”。
“賢さ”は、数字で見えるべきだ。
公開は、あとでいい。
耳で数える。
遠くの設備室で準備が戻ると、また来る。
二十——十九——十八……
室田は扉の前に立つ。
左の肩を寄せ、左の指でラッチの背を探す。
一。
軽くなる。
空気が半歩沈む。
扉は紙一枚ぶんだけ素直になり、室田の体を外に押し出す。
カツ。
金属と金属が、短く触れる。
ラッチの縁に、細い新しい擦過が生まれる。
左の手の向きのまま。
廊下の非常灯が揺れ、元に戻る。
呼吸を整え、歩く。
非常連絡盤のカバーを一度だけ上げ、蝶番の動きに指を滑らせる。
新しい筋がつく。
蓋を戻す。
整っていく。
緑は、正しい。
背後のNOCで、椅子がわずかに鳴った気がした。
室田は振り向かない。
ここは“賢い”。
賢さは、誰かが守る。
それが、自分の役目だと思っている。
外へ出る扉を押す。
冷気が肺を刺す。
雪が横に走る。
遠くで車のチェーンが空振りし、すぐ消える。
管制の掲示板に、赤い数字が灯っているのがガラス越しに見えた。
48:00:00。
時間は、減る。
緑は、整える。
室田はポケットから小さな布切れを出し、扉の縁を一度拭う。
傷は残る。
——残っていいものと、残らないほうがいいものがある。
今日は、そういう日だ。
気配がひとつ、風に混ざる。
回転扉の向こうに、人影。
女性が二人。
白い息。
片方は赤いペンを持ち、もう片方は白いカードを胸ポケットに入れている。
室田は目を細め、視線を外し、壁の影へ退いた。
まだ誰も、二度目の08:00:40を見ていない。
まだ誰も、ラッチの紙一枚を知らない。
そして誰も知らない。
ここに、嘘を待つ女が入ってくることを。
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