第3話 沈黙の神殿
如月ミカが初めて撮影スタジオに足を踏み入れた日、現場は異様な沈黙に包まれていた。
AV撮影といえば、照明の熱気、スタッフの怒号、せわしない段取りが飛び交う喧噪の場だという先入観を、彼女はどこかで抱いていた。しかし、そこは違っていた。
音がない。いや、音が“抑えられていた”。まるで教会に足を踏み入れた時のような、誰かの呼吸さえも躊躇わせる空気。スタッフたちは黙々と準備を整え、カメラマンはレンズを覗きながらも、どこか緊張した面持ちで彼女を見ていた。
撮影内容は、トイレに入って排泄する──それだけ。
シンプルなはずの構図が、ミカにとってはどこか懐かしく、そして自然だった。
彼女は衣服を脱ぎ、便器の前に立った。
そのとき、カメラの背後から誰かが小さく囁いた。
「……始まる」
スイッチが押され、カメラの赤いランプが灯る。
如月ミカはゆっくりと腰を下ろし、目を閉じた。
誰も息を飲まなかった。誰もが最初から、呼吸を止めていたのだ。
静寂の中、時間が止まる。
彼女の身体が呼応するように、腹部がわずかに動き、陶器の上に音もなく祈りが降りる。
その瞬間、何かが空気の中で“完了”した。
誰も拍手をしない。だが、全員が“儀式”の終わりを理解していた。
「……カット」
それだけで十分だった。
以降、彼女の撮影には台本も演出もなかった。ただ、月に数度、ミカが腸の声に従って現れ、ひとつの行為を終える──それだけだった。
彼女の映像は編集されることもなかった。余計なカットやテロップ、BGMすら不要だった。むしろ、作品は撮影されたままの“生”を保ち続けることが、最大の敬意であると信じられていた。
スタジオもまた、変わっていった。
最初はただのAV撮影現場だった場所が、やがて“排泄聖堂”と呼ばれるようになり、出入りするスタッフたちは儀式前に手を洗い、深く頭を下げてから現場に入るようになった。白衣を着用し、無言で準備を整える者たちの姿は、まるで手術室の医師のようだった。
やがて彼女の映像は、業界内で密かな評判を呼び、スカトロという言葉が変化し始める。
「如月ミカの作品は、汚れていない」
「うんこなのに、涙が出た」
「これはポルノではなく、祈りである」
SNSではミカの排泄を讃えるポエムやイラストが流行し、ファンによってミカの排泄音を使用した音楽まで作られた。便器を模したアクセサリーやTシャツが発売され、彼女の“排泄カレンダー”が制作されるほどの人気となった。
ある大学では、彼女の映像が現代芸術の講義で教材として用いられ、「汚物と神聖の逆転性」について討論が行われた。美術系の卒業制作では、彼女の排泄をテーマにしたインスタレーションが最優秀賞を受賞したという。
ミカ自身は何も語らなかった。
出演時も、プライベートでも、インタビューにも応じない。
沈黙の中で排泄を続ける姿は、やがて“沈黙の神殿”と呼ばれるようになる。
ファンの中には、彼女の排泄シーンを切り抜いて壁紙に設定する者や、自分のトイレに彼女の肖像を飾る者も現れた。中には、彼女の排泄に合わせて瞑想を行う「共鳴会」と呼ばれる集まりすら出現した。
世界が少しずつ、排泄を神聖視する方向へと傾いていった。
だがその中心にいるミカは、ただ静かに、腸の律動を聴いていた。
その律動が、やがて途絶える日が来ることなど、まだ誰も知らなかった。
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