第三話

 私は再び父の車椅子の背後に回っていた。目の前には深い渓谷が広がっている。酷く緩慢とした仕草で取手を握る。

 

 ドクンと胸が脈打つ。

 

 私の心に何か厭なものが巣食っていくのを感じた。空はどんよりとした雲がどこまでも広がっている。辺りには誰もいない。私と父だけの世界がただ広がっている。

 このまま渓谷に向かって手を押していけばどうなるのだろう。

 どす黒く、厭な企みは次第に私の脳内を走り回りながら広がっていく。まるで蜘蛛の巣がかかるように、次第に不明瞭に頭蓋の中を共鳴し、視界は狭く細く狭まっていく。

 母は、父にとっては大切な妻かもしれない。しかし、私にとっては大切な母だ。

 母の優しい声、柔らかい手、辛い時にも悲しいときにも、そっとそばに居てくれた優しい人。

 それをこの男は。身勝手に私から奪い、身勝手に消えようとしているのだ。


 そんなことが許されるのか。


「思えば、あの頃が一番幸せだった」

 父が呟く。


 ドクン──。


 どうしようもなく、身勝手な男だ。


 全身が総毛立つのを感じる。この感情は何なのだ。

 

「こんな体になっちまってな、認めたく無かったけど。やっと諦めがついた」

 何を言っているんだ。やめろ。黙れよ。


「勝彦、悪かったな」

 黙ってくれ。父の視線の先──こいつは今も。私を見ているんじゃない。その向こうの母を見ているんだ。


「そうだよね、どうしようもなく身勝手だ」

 車椅子を押し、深い渓谷へと一歩踏み出す。現実と空想とを区切る境界が曖昧になり始める。


「父さん、俺もな」

 深い谷が眼下に広がる。


「母さんのことが大好きだったよ。強い人だった」

 あと少し。

 この柵を越えれば。

 車椅子の取手を強く握る。いつからか私は涙が溢れて止まらなくなっていた。


 ガチャン。


 車輪が微かに宙に浮いた。

 あと少し。もう少し。

 あと一歩──もう一歩。


 父は静かだ。ここから見える後ろ姿からは何の感情も感じない。理解してるのだろう。


 ゆっくりと車輪は地面との距離を空けていく。もう少しで柵を、ここで手を離しさえすれば。



 ──ホゥ。

 どこかで声が聞こえた。



 流れる川を道なりに沿った先、等間隔で並ぶベンチの隙間。木々に遮られた薄い影の向こうに。


 母が立っていた。


 よく着ていたお気に入りの淡い水色のワンピース、確か、祖母から譲り受けた朱い日傘。深く指しているせいで顔は分からない。

 見慣れた涼しげな口元だけが覗いている。


 冷たい、湿度を感じない口元。


 母さん──怒ってるのか?

 そうだよな。私は何てことをしようとしているのだ。

 突如として押しつぶされそうな罪悪感に襲われた。


 父は──。車椅子の中で死を待つ父は。


 父もまた一点を見つめている。


「け、、けい、こ……恵子……、なんで」

 父は目を見開き、母のいる方を凝視していた。


 そうか、父にも見えているのか。


 ああ、なんと愚かな親子だろう。


 やはり親子だ。


 結局今も、私たちは。

 母しか見ていなかったのだ。



     *



 父が亡くなったのは、それから二ヶ月ほど経った後だった。季節はすっかり春になったかと思えば蒸し暑い季節がやってきていた。

 身重の妻を労わりながら、目まぐるしく進んでいく日々の中、別れの儀式に忙殺された。生前の父と交流のあった人、遠い過去で途絶えてしまった人、悲しみ涙を流してくれる人、息子の私を心配してくれる人。

 別れの儀の中で私の知らなかった父の姿を次々と語られるにつれ、長くぽっかり空いていた父との隙間が埋まっていくような、不思議な感覚を覚えた。

 忙殺されるように過ぎていく時間が終わり、ようやく一区切りついた夜のこと。

 妻も疲れていたのだろう、既に寝室で眠りに着いていた。

 私はひとり、父の前に座っていた。静まり返った家、和室の片隅に小さな──とても小さな箱だけが仏壇に置かれている。つい数日前まで形があり意識のあった人の。


 カチカチと時計の音だけが耳を刺激する。


 私は仏壇の前に座り、そこで初めて泣いた。

 父が居なくなった実感を、やっと感じた。

 父に対する愛情、憎しみ、後悔、懺悔。様々な感情が渦の様に押し寄せてきた。

 涙が止まらなかった。

 あんな男でも父は父だ。幼い頃の記憶がとめどなく溢れて消える。

 最後に過ごした時間すらも懐かしく思えてくる。


 そのとき。


 ──ホゥ。

 母の声が聞こえた。


 どこに?

 反射的に部屋を見回した。


 どこにいる?

 軽い耳鳴りが私を襲う。


 いた。


 私のすぐ隣に。父の遺影の前に。

 お気に入りの淡い水色のワンピース姿、下ろした髪が艶やかに垂れている。母が亡くなる前の、記憶の中の母のまま。私を、じっと見ている。


 母は。

 冷たい目をしていた。


 まるで私を──その向こうの父を軽蔑している様な。いや、諦めているような顔だ。


 「か……母さん」


 ──あなた達にはがっかりよ。

 母の声だ。



 「お、俺……そんな……」

 母は心底諦めたような声だ。


 ──理解出来ないのね。あなたもやっぱりこの人の息子ね。全然ダメ。


 母の視線が父の遺影に移動する。冷たい表情は変わらない。分からない。憎いだとか恨んでるのとは違う、侮蔑の視線。


 「ど、どう言うことなの……?」

 私はそれだけ言うのが精一杯だった。


 ──何を言ってもどうせ分からないでしょう。

 ──いい加減、そんなくだらないもの。さっさと捨てなさい。それだけよ。


「そ、それは…」


 ──あなたもこの人も。私にとってはどうでもいいわ。

 ──理解できないでしょうね。やっぱりあの人の子ね。


 それだけ言うと、母の姿はすっと薄くなり、そのまま消えてしまった。後には何も残らなかった。ただ、線香の香りが微かに鼻をくすぐる。


「な、なんで。母さん…」

 私はそれ以上言葉が見つからなかった。


 母がなんでそんなことを言ったのか。私には理解できなかった。

 だからダメなんだろうか──。


 暗い夜の淵、煌々と灯る狭い座敷。


 そこにはただ時計の音だけが響いている。

 なんだか酷く、寝室で眠る妻に会いたくなった。

 頬を伝う涙は、いつの間にか乾いていた。


 (了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

境界線を踏む人 千猫怪談 @senbyo31

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ