第二話
言っている意味が分からなかった。
父の横顔が僅かに歪む。
「俺が殺したんだ──あの山でな」
横並びになった姿勢のまま、父はこちらを、私の顔を見た。そこでやっと父の言いたいことが理解できた。
「母さんをか?」
信じられないことを言うものだ。いよいよ病気が進行しておかしくなったのか、そう思ったが、父は真面目な顔で一点を見つめている。
母は、五年前、事故で亡くなった。
趣味だった山登りの途中。
足を踏み外して崖から落ちて。
それほど危険な山じゃなかった。いつもは知人友人を誘って山登りをしていたが、この時は急遽知人の都合が悪くなってしまったらしかった。
山登りは中止にしようか迷っていた母だったが、比較的標高の低い山だったこともあって、運動不足解消も兼ねて一人で山を訪れていたのだ。
運が悪かったのだ、そう思っていた。
崖と言ってもせいぜい2、3メートル下に落ちた程度だった。ちょうど落ちたところに岩があったせいで打ちどころが悪く帰らぬ人となってしまった。
「変な冗談言うなよ」
病院に駆けつけて見た母は安らかな顔で、眠るようにして亡くなっていた。
「本当だ。俺はあの日、山にいた」
信じられるわけないだろう、そう言った。
父と母は事故のずっと前、今から十五年も前に離婚していた。私が知る限り、連絡もとっていなかったはずだ。それに、離婚したと言っても、父が一方的に出て行ったのだ。
それなのに今更──。
「勝手に家を出て行ったんじゃないか。それなのになんで」
父はタバコを咥え、深く息を吸い込んでから、吐いた。深呼吸をするように煙を全身に張り巡らせている。
私は動揺し、手が、声が震えた。
「勝手に出て行った。そうだよな」
しばらく無言の時間が続く。
「あの人はな。自分と他人との境界をわきまえている人だった」
だから出て行ったんだ、と痩せ細った父は独り言のように呟いた。
「だからなんだ。意味が分からないよ」
「俺が出て行った時、お前確か高校生の頃だったかな。覚えてるだろう」
一瞬、雲の切れ目から光が差し込んだ。父は眩しそうに目を細める。
「もちろんだ。父さんは仕事をクビになって家にいただろ。金も無くて大変だった」
母は文句一つ言わずに働きに出て、私も高校に通いながらバイトに明け暮れていた。父はなんとか仕事に就こうと毎日もがいていた。父はまだ諦めていなかった。だから、今は生活は苦しくてもなんとかなるだろう、そう思っていた。
「ああ。あの人はな、文句言わず俺に付き合ってくれたな。思い返せば今までずっとそうだった。だからさ」
耐えきれなくなったんだ──と言った。
どういうことだよと、私が怒気を強める。理不尽な話に胸に黒い感情が込み上げてくる。
「情けなくなったんだ。お前にも、あの人にも人生ってもんがあるだろ。俺の人生に、これ以上あの人を付き合わせたくなかった」
だからといって一方的に出ていくなんて、身勝手すぎるだろう。そのせいで母も私も長年要らぬ苦労を強いられたのだ。泥水啜ってでも職につけばそれでいいじゃないか。その為に母も私もそれまでの辛抱だと懸命に働いていたのだ。
それに、一方的に私たちの前から逃げ出しておいて、十年も経ってから母を殺しに行ったなんて、到底理解できない。今の父を見るに、母を恨んでいたようには見えない。むしろ大切に思い、将来を憂い、身を引いた。どうしようもなく身勝手だとは思うが、そういう話じゃないのか。
母は、厳しく、優しい人だった。誰かに感情をぶつけるようなところを見たことがない。例えるなら、この目の前に流れる川のような。急な流れであっても、緩やかな流れであっても、いつも気がつくとそっとそこにいる、そういう人だった。
だから、生きることに不器用な父は辛くなったのだろうか。しかしだからと言って。
「あの人はな、自分と人との境界がはっきり見えていた。俺はな、そこんとこがからきし苦手だったんだ。すぐに混ざっちまう。俺の実態がどこにあるのか、どこから先が他人なのか、そこに線引きはあるのか。だからさ──」
父の視界が次第に不安定になっていくのがわかった。
「ある日俺は、人生が上手くいかないのは俺の問題なのか、家族の問題なのかが酷く曖昧になっていると思ったんだ。家族がいるからダメなのか、俺がダメだから家族がいてくれるのか、それすら分からなくなっていた。
それでも、あの人は、お前の母さんは優しかった。ただそこに居てくれたんだ。それでいて、自分のことだけを考えていればいい、そう言ってくれた」
父は小さく震えていた。
怯えているのか。自分の直視したくない現実に。
まるで獲物に喰われる直前の小動物のような顔で固まっている。
「それで出て行ったのか。勝手だな」
「ああ。勝手だよな」
自重気味に言った。
自分のしたことを受け止めているのか。それともただの開き直りなのか。
「でも、だったらなんで。それから十年も経って母さんを殺そうなんて思ったんだよ。おかしいだろ」
私は確信に迫った。
父は「すまん、もう一本くれ」と言ってタバコを咥えた。手が震え火がつけられない様子だったが、なんとか火を灯し、再び深く息を吐き出した。空気が抜ける音と共に灰色と白の混ざった霞が背景に溶け込んでいった。
「それはな。俺がとことんダメだったからだ。何年経ってもな、変わらなかったんだ。
勝手なもんだけどな、近くにいてもあの人のことが気になる、離れても気になっちまう。結局な、俺にはあの人しかいなかったんだ。俺の実体はもう、あの人になっていたんだ。
大事だとか、愛おしいだとか、そんな褒められたもんじゃない。結局のところ、俺は、自分と他人との境界線を引くことが──」
できなかったんだ、と投げやりに云った。
感情が溢れ染み出す様な、懺悔とも後悔ともつかない声だった。
「だから、俺は。俺と人とをもう一度分離したかったんだ。本当なら、一人前の人格を持った人間として、あの人の前に立ちたかった。そうじゃなきゃ合わせる顔がないと思っていた。でも、どうしても上手くいかなかった。
俺は、何をすれば一人の人間に戻れるのか。
どうすれば、もう一度、俺を、俺の実体を取り戻すことが出来るのかをだ。どうしても、方法は、一つしかなかった」
それが、母を殺した理由なのか。とても理解できない。いっその事恨みを募らせていた、とでも言ってほしかった。
「山で、あの人の前に立ったとき、あの人は優しく俺を見たんだ。あの頃と同じように真っ直ぐな目で俺を見て、『それでいいのね』とだけ言った。俺が、何をしに来たか分かってたんだ。その上で受け入れてくれた。まるで流れる川に身を任せるように、自然体だった」
父の言葉が私の胸を貫く。
母はやはり最後まで母のままだった。なんと言う人だろう。物静かで、気がつくといつもそこにいてくれる。どんな苦労も喜びも、ありのまま受け入れる人だった。だからと言って、目の前で元夫が殺意を持って現れてもまだ変わらないのか。
そんな母をこの男は──。
父は話し終えると、タバコを揉み消し、さて、と小さく呟いた。
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