第4話

 時計が午前三時を指していたが、誠は気づかなかった。

 

 時間の感覚はすでに誠から離れ去っている。

 マンションの十七階、白い壁に囲まれた作業部屋の中で、誠はただひたすらに「タナトス」の組み立てに没頭していた。


 窓からは東京の夜景が見えるはずだった。

 しかし、カーテンは閉ざされ、外界との接点はすべて遮断されていた。

 作業台の上の強力なLED照明だけが、誠の世界を照らす唯一の光源だった。

 その青白い光は誠の顔を非現実的に照らし出し、深く窪んだ頬とくぼんだ目に奇妙な陰影を作り出していた。


 開封から十二時間が経過していた。

 その間、誠は一度も席を立たなかった。

 食事も水も取らず、トイレにも行かなかった。

 誠の体は、そのような生理的欲求を忘れてしまったかのようだった。


「もう少し……」


 誠の声は、湿った空気の中で掠れていた。

 かつては清潔に整えられていた髪は今や乱れ、額には汗が滲んでいる。

 白いTシャツは塗料のしみで汚れ、指先には無数の細かい傷が刻まれていた。

 しかし、その目は、かつてない輝きを放っていた。


 照明に照らされた作業台の上で、「タナトス」は少しずつ形を成しつつあった。

 それは単なるロボットの形状ではなかった。


 より有機的で、より生命体に近い。

 

 硬質な外装の下に、血管のような配管が張り巡らされ、関節部分は異様なほど滑らかに動く。

 通常のプラモデルであれば、パーツは単に嵌め合わされるだけだが、「タナトス」のパーツは、組み上げるごとに微妙に変化しているようだった。


「完璧だ……これこそ完璧な造形だ……」


 誠は自分が何を作っているのか、もはや完全には把握していなかった。

 説明書は誠の横に広げられていたが、その内容は少しずつ変わっていった。 

 日本語と混在していた幾何学的なシンボルが次第に増え、今では説明書の大半がそれらの記号で占められていた。

 しかし、奇妙なことに、誠はそれを読むことができた。

 いや、読むというより「理解」していた。


 誠の手には、会社からこっそり持ち出した精密工具に加え、自作の特殊ピンセットや極細のドリルビットが握られていた。

 それらは精密機器のためのものであり、通常のプラモデル製作には不釣り合いなほど精密だった。

 しかし「タナトス」は、それらの道具を要求した。

 より正確に言えば、誠の中に眠っていた「職人」が、それらを求めたのだ。


 作業部屋の空気は、重かった。

 塗料と溶剤の強烈な化学臭が部屋全体を満たしていた。

 通常なら、窓を開けて換気するところだが、誠はその匂いを深く吸い込んだ。


「良い匂いだ……」


 以前なら鼻をしぼめるような刺激的な化学臭が、今や誠には甘美に感じられた。

 それは肺を満たし、血管を通り、誠の全身に力を与えるようだった。


 さらに奇妙なことに、タナトスのパーツからは微かな香りが発せられていた。

 それは花の香りのようでいて、金属のような冷たさも持ち合わせていた。

 誠はふと、その匂いを「タナトスの息」と呼びたくなった。

 

 生きているかのような存在感。

 それが、誠の思考を少しずつ変えていった。


 誠の指先が、造魂核に触れる。

 その瞬間、微細な電流が誠の神経を駆け上がった。

 痺れは腕を通り、肩を経て、脊髄へと伝わった。


 誠は身震いした。

 しかし、それは恐怖からではなく、快感からだった。

 その感覚は、精密作業が完璧に成功した時の達成感に似ていたが、より強烈で、より原始的なものだった。


 誠は気づかなかった。

 タナトスの各パーツが、誠の体に微細な変化をもたらしていることを。

 触れるたびに、誠の指先の神経組織が少しずつ書き換えられていった。

 それは人間の神経系統とは異なる、より機械的で精密な構造へと変化していった。


 ◇

 

 休憩のため、誠は作業台の傍らに置いたコーヒーカップに手を伸ばした。

 しかし、カップは空だった。

 何時間前に入れたコーヒーも、すでに冷え切っていた。


 しかし、喉の渇きは感じなかった。

 むしろ、塗料と溶剤の匂いを吸い込むことで、誠の体は満たされているようだった。

 通常なら、健康上の懸念を感じるはずだが、誠の頭からそのような思考は消え去っていた。


 誠の世界には、もはや「タナトス」しか存在しなかった。


「ここをこう……そして、この部分をこう接続すれば……」


 誠は複雑なメカニカル部分を組み立てながら呟いた。

 会社で培った精密加工技術が、ここで遺憾なく発揮されていた。

 しかし同時に、それは誠が意識的に行っているというより、誰か別の存在――誠の中に宿った別の「何か」――が行っているかのようだった。


 電話が鳴った。会社からだった。


「中村くん、今日は出社できるかね? 昨日の設計図の確認が……」


 電話の向こうの部長の声は、遠い世界からの雑音のように聞こえた。


「体調不良です。すみません」


 誠の声は、まるで別人のものだった。

 低く、響きがなく、感情が欠落していた。


「そうか.……大丈夫か?」

「大丈夫です」


 誠は電話を切った。

 そして、それを机の引き出しにしまい込んだ。

 外界からの干渉は不要だった。


 誠はふらつく足取りで窓に近づき、カーテンの隙間からわずかに外を覗いた。

 朝日が昇り始めていた。

 一日が経過したことに、誠は鈍い驚きを覚えた。


「時間が……経つのが早い」


 誠の思考は、少しずつ断片的になっていった。

 言葉よりも、造形のためのイメージが先行するようになっていた。

 頭の中で形が生まれ、指先がそれを実現する。

 人間の言語は、次第に誠には不要なものとなっていった。


 再び作業台に戻る。


「タナトス」は、既に上半身の骨格が完成していた。

 その姿は恐ろしくも美しかった。

 金属質の外装と、その下に透けて見える有機的な内部構造。

 それは誠の精密さへの執着と、隠された混沌への欲望が融合した存在だった。


 誠は造魂核を手に取り、タナトスの胸部に設置しようとした。


 その瞬間、核から強烈な痺れが放出された。

 まるで自らの居場所を認識したかのように、核は誠の手の中で脈打ち始めた。


 誠の視界が歪んだ。

 部屋が波打ち、壁が呼吸をするように膨張と収縮を繰り返した。

 そして、誠の耳に囁きが届いた。


『造形者』


 誰の声だろう?

 部屋には誠しかいないはずだ。

 しかし、その声は確かに聞こえた。

 それは誠の外からではなく、内側から――自分の頭蓋骨の内部から響いてきた声だった。


『造形者……完成させよ……』


 誠は震える手で造魂核をタナトスの胸部に嵌め込んだ。

 それは完璧にフィットした。

 まるで最初からそこにあるべくして設計されていたかのように。


 核が設置された瞬間、タナトスの体全体が微かに震えた。

 その震えは作業台を伝い、誠の指先へと伝わった。


 誠は痛みと恍惚の入り混じった表情を浮かべた。


 しかし、誠は気づいていなかった。

 これが、人間・中村誠の終わりであり、「造形者」としての始まりであることを。

 タナトスのパーツが、誠の指先を通じて、その精神を静かに蝕み始めていたのだ。


「タナトス」と「造形者」。


 どちらが創造主で、どちらが被造物なのか。

 その境界線は、すでに曖昧になり始めていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る