不思議な本屋 ー本を持つだけで満足しないでー

NOGRAY

その本屋は、読む準備ができた人に現れる

夕暮れ時、会社帰りの相原は、なんとなく足が向いた裏通りを歩いていた。普段は通らないはずのその道を選んだのは、少し疲れていて、人の多い駅前を避けたかっただけだった。


狭く曲がりくねった道に並ぶ古びた建物の中に、ひとつだけ淡い橙色の灯りがともった看板があった。


「一期一会堂書店。」


本と人との出会いは一期一会ということか。気まぐれにその扉を押すと、からん、と鈴の音が鳴った。


中は思いのほか広く、本棚が迷路のように並んでいる。そのすべてに、聞いたこともないタイトルの本が詰まっていた。


「イライラしないで生きる本」

「勝負に勝ちたい人のための手帳」

「明日、笑顔になれる言葉集」


手にとってみても、著者の名前も出版社もない。ただ、タイトルだけが力強く浮かび上がっていた。装丁はどれもシンプルで、美術館に置いてあるオブジェのように静かに主張していた。


棚の角に、一冊だけ少し傾いて立てられた本があった。


『運を引き寄せる』


思わずその背表紙を指でなぞった。ページを開こうとしたが、なぜか手が止まる。開けないわけではない。理屈ではない、妙な“ためらい”だった。


「……なんだ、これ。」


表紙の隅には、小さな白い値札だけが貼られていた。金額は「888円」。


それを見て、相原は「このくらいなら。」と財布を取り出す決心をした。


ふと背後から気配を感じる。振り向くと、店員なのか店主なのか、静かに微笑む老人がいた。だが彼は何も言わず、ただ頷くようにしてレジの方向を示した。


レジでは特に言葉も交わさず、老人が対応をする。


「……ありがとうございました。」


老人はただ、それだけを言った。


紙袋に入れてもらったその本を、相原は帰宅後すぐに机の上に置いた。ソファに沈みながら、テレビの音を聞き流す。


手に入れたときには、読むつもりでいた。中を見て、何かを学ぼうと思っていた。


けれど、「買っただけで何かをした気になってしまう。」というのは、よくあることだ。試験の問題集や、健康本、ダイエットの指南書でも同じ。人は、本を手に入れた時点で「始めた気。」になってしまうのだ。


相原も例外ではなかった。部屋に飾ったその本を見るたびに、どこかで「もう、何かを得たような気分。」になってしまった。


翌朝、家を出た相原は、いつもよりスムーズに電車に乗れた。駅のホームではギリギリで滑り込んできた電車に、難なく乗れたのだ。


「お、ラッキー。」


会社に着くと、コンビニで買った缶コーヒーのくじに当たってもう一本もらえることに。小さな出来事だったが、相原はそれがどこか本の影響のような気がしてきた。


そして、昼休み。


ふと見ると、隣の席の中谷が読んでいた本の表紙が目に入った。

そこには、自分の部屋にあるのと同じ、金色の文字でこう記されていた。


『運を引き寄せる』


中谷がページをめくる手を止めたときを見計らって、相原は声をかけた。


「それ、どう? 面白い?」


中谷は顔を上げ、少し笑った。


「うん。わかりやすいし、なんか考え方が整理されるっていうか……ちょっとずつ読むのにちょうどいい感じ。」


「ジャンルとしては、自己啓発?」


「かな。でも、あんまり堅苦しくない。軽く読めるのに、なんか残る感じがする。」


「へえ……。」


それ以上、相原は何も言わず、自分の缶コーヒーに口をつけた。


昼休みは、まだしばらく続きそうだった。


--------------


それから数日、相原はなんとなく“ツイている”気がしていた。


朝の電車では座れることが多くなり、上司に話しかけられるタイミングも悪くない。会議で発言するわけではないが、妙に空気の流れに恵まれている。

缶コーヒーを買えば、また当たりが出た。細かな運が重なり、相原は「本のおかげかもな。」と机の上の紙袋に思いを寄せた。


けれど、袋から本が出されることはなかった。

それはずっと“未読のまま”そこにあった。


「読むつもりではいたけど、まあ、急がなくても。」

何となく、そんな気持ちだった。


会社では特に大きな変化もなかった。プロジェクトの進行は平常通り、同僚とも変わらず雑談を交わしながら毎日が流れていく。

誰かが突出するわけでも、取り残されるわけでもない。小さな歯車として、無難に過ぎていく日々。


昼休みになると、いつものように社内のカフェスペースに移動する。相原はスマホをいじりながらアイスコーヒーを飲んでいた。


ふと、斜め向かいの席で静かにページをめくる音がした。


中谷だった。

以前と同じ本――『運を引き寄せる』を、変わらぬペースで読んでいる。


たまに顔を上げては、何かを考えるように、ゆっくりとページを閉じる。

その仕草がどこか丁寧で、無理がない。


相原は少しだけ気になって、中谷に話しかけた。


「さっきのページ、なにか印象的だった?」


中谷は一拍おいて、笑みを浮かべた。


「“運は風みたいなもの。受け止める準備ができていないと、ただ通り過ぎるだけ”って書いてあったよ。」


「……なんか詩みたいだな。」


「そうかも。でも、具体的な話も多いよ。小さな行動の変化とか、タイミングの見方とか。」


「へえ……。」


相原は曖昧に相づちを打ちつつ、自分の机に置いたままの本を思い出した。

でも、特に焦る理由もなかった。

自分もそれなりに“運”を感じていたからだ。


午後の仕事は、いつも通りこなせた。

報告も通り、資料のチェックも無難。

気づけば定時。相原は軽く伸びをして、椅子から立ち上がった。


帰りの電車でも、席が空いたところにぴたりと座れた。

夜のコンビニで新発売のスイーツが最後のひとつで残っていた。


「今日はいい日だったな。」


そう思いながら、帰宅した相原は、部屋の明かりをつけ、ふと机の上の本を見た。


袋の角が少し折れていた。開封すらしていない。

けれど、特に不便もなければ、不満もなかった。

だからこそ、今日も本は開かれないままだった。


--------------


週の半ば、曇り空の水曜日。

昼過ぎに、相原の部署に一本の連絡が入った。


「明日、急にプレゼンをお願いしたい。」


クライアントからの要請だった。もともと別部署が準備していた案件だが、担当者が体調を崩し、急遽、資料と共に業務が引き継がれることになった。


相原と中谷が、その代理に指名された。


「ふたりなら安心して任せられる。」


課長はそう言って、手元の書類を渡してきた。

形式的な資料はそろっていたが、内容はまだ荒削りで、プレゼンに出すにはひと工夫が必要そうだった。


「明日朝イチで先方の役員が集まるって。対応しだいで、新しい取引にもつながるかもしれない。気を引き締めてくれ。」


課長の言葉が、プレッシャーのように響いた。


会議室にこもり、相原と中谷は黙々と準備に取りかかった。

パソコンを開き、内容を確認しながら、構成や話す順番、相手からの質問想定などを整理していく。


「……この資料、表現がちょっと曖昧だな。補足しといたほうがよさそう。」


「こっちのグラフ、数値の比較が直感的じゃない。こっちのデータも混ぜて並べ替えてみるか。」


二人のやり取りは淡々としていたが、作業は着実に進んでいった。


ただ、相原はずっと、何かがひっかかっていた。

必要な情報は揃っている。やるべきことは分かっている。けれど、「話せる。」という自信が、不思議と湧いてこなかった。


「……よし、俺は大体まとまったかな。」


中谷がそう言って席を立った。


相原も頷いて、椅子から立ち上がる。

時計を見れば、すでに定時を少し過ぎていた。


二人でエレベーターに乗り込む。

静かな時間。下の階へと降りていく間、相原はふと隣の中谷の鞄に目がいった。


少し開いたファスナーの隙間から、文庫本の表紙が覗いていた。

あの装丁、そしてあの金色の文字。


『運を引き寄せる』


相原は声に出すつもりはなかったのに、気がつくと口が動いていた。


「その本、まだ読んでるんだな。」


中谷は小さく笑って、肩をすくめた。


「うん。なんか落ち着くんだよね。読むと頭の中が整理される感じがあって。」


「ふーん……そういうのって、やっぱあるんだな。」


「けっこう助かってるよ。読むと、考えがまっすぐになるっていうか。」


それだけ言って、中谷はエレベーターのドアが開く音に合わせて一歩先に出た。


相原も後に続きながら、なんとなく自分の鞄を重たく感じた。


-------


翌朝。

クライアントとの打ち合わせ会場は、少し緊張感のある会議室だった。

相手側の席には三人。どれもそれなりの役職についているような、厳しい目つきの大人たち。


最初の挨拶を終え、相原がパソコンでプレゼン資料を開く。


だが――そのとき。


「……あれ?」


パソコンの画面が暗転し、突然の再起動が始まった。


進行役を任されていた相原の手が止まる。

声も出ない。時計の針が妙に早く進んでいく気がした。


「す、すみません。少し時間を……。」


場の空気が冷たく変わる。


そのとき、横にいた中谷がすっと前に出た。


「じゃあ、先に口頭で概要を説明しますね。スライドが復旧したら画面に合わせて補足します。」


そう言って、タブレットの画面をさっと確認しながら、中谷は落ち着いた声で話し始めた。


それは、特別な言い回しでもなければ、派手な演出でもない。

けれど、的確だった。


聞き手の関心を捉える要点が明確で、話の流れにも無理がなかった。


それは、準備ができている人の話し方だった。


質問にも即座に対応し、先方の疑問点をひとつひとつ整理して説明した。

相原がようやくパソコンを立ち上げ直せた頃には、すでにプレゼンの骨子は伝わりきっていた。


-------


「さっきはすまない。助かった。」


プレゼンが終わった帰り道、相原が中谷に言った。


「ううん、俺もけっこう緊張してたけど、なんとか形になってよかった。」


中谷はさらりと答える。相原は何も言えず、その横顔をしばらく見ていた。


少しの差。

それが、はっきり出た瞬間だった。


夜、自宅に戻った相原は、机の上の紙袋を取り出した。

ずっと開かずにいた文庫本。


おそるおそる袋を破り、表紙をなぞりながら、ページを開いた。


最初の一文が、目に飛び込んでくる。


「本は読むためにある。ただ持つだけでは、準備のままで終わってしまう。」


静かな部屋に、ページをめくる音だけが響いた。


--------------


それから相原は、少しずつ本を読み進めた。


通勤電車の中、昼休み、夜の帰宅後。

ページを一気に読み進めることはしなかった。

むしろ、そのほうがいいような気がしていた。


「運は風のようなもの。

 目に見えないが、流れを感じる者だけが、その方向を変えられる。」


そんな一文があった。


それは派手な言葉ではなかったけれど、相原の心に静かに染み込んでいった。


何か特別なノウハウが書かれているわけではなかった。

ただ、日々の中で見過ごしがちな選択肢に気づかせてくれるような言葉たち。

「今日はやめておこう。」と思った行動を、「やってみようかな。」に変える後押し。

そんな小さな変化の積み重ねが、“運”の正体なのかもしれない――そう思うようになった。


-------


数週間後。

また、あのクライアントから仕事の依頼があった。


今度は最初から、相原がメインで担当することになった。

課長からは軽く「リベンジの機会だな。」と声をかけられたが、それに重さはなかった。


準備は万全ではなかった。けれど、自分の言葉で説明できることは頭の中に入っていた。

何より、当日、会議室に入ったときの心の状態が違っていた。


資料を開き、相手の顔を見ながら、ゆっくりと話し始める。

相手がどこに関心を持っているかを探り、そこに言葉を重ねていく。


途中、想定外の質問も飛んできたが、相原は落ち着いて対応できた。

一度詰まったが、深呼吸して答えた。


「ああ、なんとかなる。」


そのとき、はっきりとそう思った。


会議のあと、先方の担当者がふと言った。


「話、分かりやすかったです。言葉がちゃんと届いてくるというか。…いい説明でしたよ。」


お世辞かもしれない。

でも、その言葉が、あの日との違いを証明してくれたように思えた。


-------


帰り道、鞄の中にはもうあの本は入っていなかった。


読了し、何度か読み返し、今は部屋の本棚の一角に並んでいる。

手に取ると、最初のページの文字が、以前よりも柔らかく見えた。


「本は読むためにある。ただ持つだけでは、準備のままで終わってしまう。」


あのとき読んだから、今、自分の中にその言葉がある。


翌日、休憩スペースで後輩が机にメモを並べて悩んでいるのを見かけた。

たぶん、初めて大きなプレゼンを任されたのだろう。


相原は席を立ち、自分の机に戻ると、一冊の本を手に取った。


金色の文字が浮かぶ表紙――『運を引き寄せる』


「これ、よかったら読んでみて。役に立つかもしれない。」


そう言って本を差し出した。


「……ありがとうございます。読んでみます。」


後輩は少し戸惑いながらも受け取った。


その背中を見送りながら、相原は思った。


今度は“読まれる”番だ。

そして、読まれたとき、その本はまた誰かの中で動き出すのだと。


--------------


ある日、相原が会社帰りにもう一度あの裏通りを歩いてみた。

特に理由があったわけじゃない。けれど、ふと思い出したのだ。あの本屋のことを。

初めて見たときから、どこか浮いているようで、静かにそこにあった店。


それ以降、何度か頭には浮かんでいたけれど、行こうとはしなかった。

いや、行かなくてもいいと思っていた。

けれど今日は、なぜか違った。


曇った夜の路地裏。

あのときと同じ時間、同じ道を、同じように曲がってみる。

目印にしていた古い郵便ポストも、壁のヒビも、そのままある。


「たしか、ここを曲がった先に……」


歩きながら、記憶をなぞる。

けれど、何度曲がっても、あの小さな木の扉は見つからない。


看板も、灯りも、消えていた。


曲がり角も、灯りの色も、確かに覚えていたはずなのに。


「……なくなってる?」


ふたたび一周して戻ってきたころには、すっかり夜も更けていた。

相原は小さくため息をついて、時刻を確認した。

明日も仕事だ。無理に探すことでもない。そう思った。


帰ろうとしたときだった。

ズボンのポケットの中で、何か指先に触れた。


取り出してみると、それは一枚のしおりだった。

ざらついた紙に、手描きの模様が印刷された、見覚えのあるデザイン。


……このしおり、いつの間に?


相原は本棚を思い出した。

あの本――『運を引き寄せる』を読み終えたあと、確かに中には何も挟まっていなかったはずだ。


けれど、しおりは手の中にある。

折れ目も汚れもなく、まるで今日、誰かがポケットに入れたように。


裏返すと、そこには走り書きのような文字があった。


「読む人のもとへ、本は届く。」


不思議と、怖さはなかった。

むしろ、どこかで「そういうことか」と納得している自分がいた。


あの本は、ただの本じゃなかった。

読まなければ、気づくこともなかった。

読むことでだけ、あの店の意味がわかった気がした。

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