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「私会ってみたいわ。そのフェルテさんって娘に」

「は?」

 厨房に立つテフォンの発言に、僕は素っ頓狂な声を上げた。

「どうしてさ。あんなの狂犬と一緒だよ。止めといた方が良いよ」

「ふふ、そうね。特に私が会うと、とても怒るでしょうね、その娘は」

 油が玉ねぎを弾く音が響く。狭い炊事場はそれだけで一杯になった。僕は机に頬杖を突く。古い木の椅子がギッと鳴いた。

 豪華なドレスではなく普段着にエプロンを纏ったテフォンは、フライパンの火加減を調整しながら続ける。

「でも……やっぱり一目見てみたいわね。あなたをそんなに夢中にさせるその娘が、どんな人なのか」

「どんなって……」

 僕はフェルテの顔を改めて思い浮かべる。

 緑の髪と、同じ色の瞳が特徴的だ。

 笑うときは歯を見せることが多い。

 肌は白く、年頃の女性らしい透明感がある。

 そして、性格が悪い。

「君とは、対局の存在かもね」

「あら、ますます興味が湧くわ」

 テフォンはフライパンにベーコンとパスタを入れ、混ぜる。炊事場中に良い香りが広がった。

 僕はテフォンの後ろ姿を黙って眺めていた。結われた髪が子犬の尾のように揺れていた。

 何か手伝いたかったが、彼女曰くこの炊事場も仕事場の一部なので、お客さんを働かせるわけにはいかない、とのことだった。それが彼女の仕事上の拘りというか、矜持というものなのだろう。なればこそ僕は木の椅子に腰を据えている他ない。

 少し待った後に、テフォンは二つの皿をテーブルに置いた。

「はい、原価百当貨パスタ」

「最高のごちそうだ」

 手を合わせて、フォークを持つ。

 二人で同じ食卓を囲む。

「美味しいよ」

「ありがとう」

 数時間ぶりに口にする固形物の美味しさは言葉にならない。僕はいたく感動した。

「毎度思うけど、本当にお店みたいな味だ。レシピ教えてよ」

 僕が褒めるとテフォンは照れたように頬を掻く。

「あとでメモにして渡すわね」

「ありがとう」

 それからは、しばらく無言で食べ進める。墨も使っていないのに真っ黒なパスタはこの地方の特産品だった。

 唐突に、テフォンが口を開く。

「今度、フェルテさんを連れてきてよ」

 僕は盛大に噎せた。

「あら、唐辛子を効かせすぎたかしら」

「そういう、ゲホッ、問題では……」

 もちろん彼女だって本気ではない。くすくすと笑っていた。

「ふふっ、ごめんなさいね」

「有り得ない、普通に……世界のどこに、娼館に彼女を連れてくる男がいるってんだ」

 三人が一同に会している光景を想像して僕は身震いした。そのような状況でフェルテがどのような行動を起こすのか、まるで想像がつかない。

 ただ、マトモな結果にだけはならないだろうと、僕の第六感が警報を発していた。

 テフォンは優雅にパスタを口に運んでいる。品のある彼女が食べていると、ここが粗末な炊事場だということも忘れてしまいそうだった。

「別に……」

 テフォンがフォークを置く。

「三人で一緒のベッドに寝ようなんて言ってるんじゃないわ。ただこう、みんなで食卓を囲めたら、楽しいんじゃないかなって思ってね」

「………………」

 僕はもごもごと玉ねぎの芯を咀嚼する。

 今この食卓に、テーブルの空いている面に、フェルテが座っている様を考えてみる。

 僕はどうしようもなく緊張しているだろう。フェルテはそんな僕をからかって笑っている。テフォンはそんな僕らを見て穏やかに微笑んでいるかもしれないし、案外、フェルテと一緒になって僕をいじってくるかもしれない。彼女は意外と無邪気だ。

「確かに……」

 案外、悪くない空間かもしれない。

「でしょう?」

 テフォンは手を合わせて笑みを作る。それは一夜の旅客を誘う妖艶な魔女というにはあまりに純で、僕は少し目を伏せた。

「ご飯を食べるだけなら、良いんじゃないかしら」

「かもね」

「約束ね。次は彼女さんと一緒に……」

 不意に、テフォンは言葉を区切る。

「何、どうかした?」

 僕も食べる手を止める。

 彼女は強い人だが、相応の辛い過去も有している。

 もしや複数人で食卓を囲むことに強い憧憬、あるいは禍根でも持っているのではないかと不安になった。

 しかし想像に反して、彼女は、

「ふ……ふふっ、うふふふ」

 笑っていた。

「ど、どうしたのさ」

「ねぇユーイチ、その、ふふ、こんな話で申し訳ないのだけれど」

 テフォンは少し顔を赤くして言う。

「三人でベッドにいるときって、空いてる一人って何をしてれば良いのかしら?」

「食事中だよ」

「だって、想像してしまって……ふふふ」

 僕は苦虫を噛み潰したような面をしていただろう。

 僕とテフォンとフェルテが同じベッド?

 この世の終わりだ。

「っていうか、何をしてれば良いかって、それ君の本業じゃないか。君が分からないなら僕も分からないよ」

「ごめんなさいね。ああいうのが好きなお客様も大勢いるんだけど、私、どうしてもあれが苦手で……」

 僕はグラスの水で口を塞いだ。

 テフォンは一頻り笑った後、「失礼」とだけ言ってまたフォークを持った。

「君でも、分からないことがあるんだね」

「あるわよ。人間だもの」

 そう、人間。

 飾らない態度と飾らない服装、飾らない食事。

 たとえ黒曜の瞳を有していたとしても、彼女はどうしようもなく、堪らなく人間なのだ。

 その事実が、実存が、とても嬉しい。

「パスタのお礼だ。今度試してみる?」

 テフォンの目がキラリと輝いた。

「言ったからね、それ」





 ザザ、ザザ、と、波が砂浜に押し寄せる音が聞こえる。

「ねぇ、アイヴィ」

 僕が床の拭き掃除をしながら呼びかけると、窓の桟を磨いていたアイヴィが振り向いた。

『何でしょう?』

「今日のお昼はパスタを食べたいんだ」

 僕は雑巾を両手で固く絞る。真っ黒な液体がバケツに満ちていた。どれだけ掃除しても汚い小屋である。

『パスタですか? 良いですよ』

 アイヴィは事も無げに返事をする。

 僕は雑巾をバケツの縁に掛けてから立ち上がる。腰を伸ばすと骨がポキポキと鳴った。

 アイヴィは窓際に立ち、こちらを見つめてくる。

 その背後にはガラスのない窓枠があり、その向こうには淵源を湛える海原が広がっていた。

 この小さな古小屋の、たった一つの窓だ。

『何のパスタがよろしいですか?』

 アイヴィが問うてくる。有機的なボディが陽光に美しい。

 僕は目を細め、答えた。

「美味しいレシピがあるんだ。伝授してあげる」




終わり

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H.E.L.L.O. 黒田忽奈 @KKgrandine

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