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振り返ると、とても真剣な顔のIB-982がいた。
「君は僕の心配をしている場合じゃないだろう。早く基地の跡地の、怪しまれない適当なところに座って初期化するんだ。僕の関与がバレたら君はスクラップにされてしまうぞ」
『だって……そんな状態のユーイチを一人で行かせるわけにはいきません』
僕が足を早めると、IB-982も同じペースで着いてくる。草木を踏み分ける足音が二人分響いた。
「僕は一人だって生きていけるさ。君だって見てきただろう? 僕のしぶとさを。大丈夫だって」
『でも……』
「でももだってもないよ。君は帰れ。その方が君のためだ」
ふと、背中に衝撃を感じる。
でもそれは害意のない、微弱な、透明な接触だった。
IB-982が、僕のベルトの端を握りしめている。
『行かせません』
「アイヴィ」
『私も行きます。ユーイチと共に』
「アイヴィ。僕は君のためを思って———」
『あなたが教えた!』
IB-982が叫ぶ。
そのきれいな声帯から発せられる、初めての大声。
木々すら沈黙してしまいそうなその声に、僕も思わず口を噤んだ。
『私は、ただの、ただの給仕だった! 毎日同じ挨拶をして、同じ仕事をして、献立以外の記憶は全部自動消去されるただの給仕だった!』
アイヴィ、と、僕は言葉とも息ともつかない何かを吐くことしかできない。
『それをあなたが! あなたが私を変えた! 私はもう物事を簡単に考えられなくなった! 感情だってある! 人を思う気持ちがある!』
僕は動機がしてきた。
悪夢を見たときとも、仲間を失ったときとも、強敵に相まみえたときとも違う、異質な拍動。
脳髄に、IB-982の声だけが刻み込まれる。
目からPC用の冷却水をボロボロと流し、形の良い顔を歪め、IB-982は咽ぶ。
『私は知ってる! あなたが言うほど大丈夫じゃないってこと! 毎朝疲れた顔で! 表だけ飄々としていても裏では歯を食いしばって泣いていて! 責任と後悔でバイタルはずっと異常値だった! あなたは何も大丈夫なんかじゃない!』
サイレンの音が風に乗って聞こえてくるような気がした。
しかしそれは僕の耳には届かない。
「……アイヴィ」
冷却水が露出した胸元のエンジンに降りかかり、ジュウジュウと音を立てる。
『私はそれが……それが堪らなく苦しい』
IB-982は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、はっきりと意思を持った瞳で僕を見据えた。
『こんな、こんな身体にした責任、取ってください……これは……あなたが植えた芽です』
「………………」
僕は大きく息を吸って、空を見上げた。
夜明けは遠い。国中から沸き起こる黒煙が夜空を覆い尽くし、雷雲の中にいるかのようだった。
しかしどんな暗闇の中であっても、微かな光さえあれば、それを頼りに歩を進めることができる。
僕は頭を振って、真摯に涙を流すアイヴィの脇に立った。
「手が無いから、君の涙も拭えないや」
『………………』
「あんまり仲良くしすぎると、ヴェルデとテフォンに怒られちゃうかもな」
先程まで煤しか残っていなかった心の荒れ地に、小さな風が吹いている。
「ありがとう、アイヴィ。これまでみたいに、またコーヒーを淹れてくれるかい?」
『……あなたが望むなら、いつでも。いつまでも』
アイヴィは僕の腰を支えてくれる。僕達は二人でゆっくりと丘を下った。
さっきまでとは明らかに違う、確かな足取り。
たとえ行く先にあの草原がなくとも、どこへだって行ける気がする。
気づけば雪が止んでいた。
〈了〉
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