30
スプリンクラーの放水を全身に浴び、僕は走っていた。
「ハァ……ハァ……ハァ、ハ……」
オニキスに必中爆殺カタストロフラリアットを放った影響で延焼が発生していた。ジリジリと火災報知器が叫び、スプリンクラーが雨を降らす。
両腕を失った僕はふらふらと駆けていた。追手はまだ来ない。延焼と耐火扉が僕の背中を守っていた。
全身が痛かった。強大な敵を二人も倒したせいで身体中が悲鳴を上げている。失血がひどく頭が痛かった。何に拠るか分からない涙が流れていた。
しかし、まだ何も終わったわけではない。始まってすらいない。僕の目的はブラックの告発だ。
僕は走った。限界を超えた身体を抱えて走った。
やがて辿り着くのは、食堂だった。
「はぁ……はぁ……」
無人の食堂は広い。僕は誘われるようにレーンの方へ歩み寄り、そこに立っていた人型ロボットに近づいた。
辿り着いたは良いが、普段の起動手段が欠けていた。今の僕には両手がないのでスイッチを押せないし、指紋認証も行うことが出来ない。
しかし、こんなときに備えて僕は実に多岐にわたる改造を行ってきたのだ。
腕がないから何だというのか。
僕はIB-982に顔を寄せ、その唇にキスをした。
『——————』
IB-982が目を開ける。淡く発光するその眼は、真っ直ぐに僕を捉えていた。
『ユーイチ……?』
正直、正常に起動するか自信はなかった。こんな生体認証は初めてのことだったのだ。僕は安堵のため息とともに呟いた。
「やぁアイヴィ、今日も美しい」
IB-982はしばらくの間、眼球カメラをくるくると動かして状況を把握していたが、やがて大きく目を見開いた。
『ユーイチ、バイタルが……! それに、両腕もありません!』
「掠り傷だよ」
『今すぐ手当を! どこか安静にできる場所を……!』
IB-982は明確に狼狽して僕を抱きかかえようとする。僕は腕がないのでそれを静止することもできず、抱かれるがままだ。
「アイヴィ、今この基地に、安静にできる場所なんてないよ」
『そんな……では、どうすれば……私は救護用ロボではありませんし……!』
僕はIB-982にまた口づけをした。黙らせる方法がそれしかない。
「落ち着いて、アイヴィ。君にやってもらいたいことがあるんだ」
『私に……?』
IB-982は整った眉を下げて僕を見つめる。その表情は人間のそれと遜色ないように思えた。
「そう。君にしか出来ないことだ。内容は……」
僕がIB-982に告発文の全容を伝えようとしたところで、食堂の外に足音が聞こえた。
「追手? 想定より早い……!」
『ユーイチ、下がってください』
IB-982は僕をその背中に隠して食堂の玄関に向き直る。
燃える廊下からやってきたその追手は、食堂の扉を押し開けてゆっくりと侵入してきた。
「………………!」
その姿に、僕は肝を冷やす。
「待て……ユウイチ……!」
全身に火傷を負ったオニキスが、煙を吐きながらそこに立っている。スプリンクラーの放水でずぶ濡れになった肌が黒光りしていた。
「僕のラリアットを受けて生きてるとはね」
あの爆弾だって決して弱かったわけではない。現にオニキスの肌は爛れ、肉は抉れ、不気味な筋繊維が大気に晒されていた。
それでも止まらないオニキスは輪をかけて奇怪だ。
「毎朝毎朝給餌ロボットに話しかけていると思ったら……そんな改造を施してたのか」
『離れてください』
IB-982は油断なくオニキスを睨んでいる。最早一介の給餌ロボが基地内の職員に向ける眼光ではない。完全に敵視だった。
オニキスの言う通り、僕はIB-982に対し実に多彩な改造を施していた。しかしそれは性能面や思考回路の面の改造であって、IB-982の身体能力に関してはほとんど手つかずだ。ただの給餌ロボが戦闘のプロフェッショナルに勝てるわけがない。
僕は逃げる算段をした。
極度の疲労と全身の激痛の中、なんとか脳の算盤を弾く。ここでオニキスを無力化して逃げるにはどうすれば良い……。
「………………?」
敵の姿を
「オニキス、お前……」
先のオニキスは暗闇に乗じた奇襲戦法を得意としていた。しかし今のオニキスは、闇に紛れていない。
廊下が燃え盛っているのもそうだが、なにより異常な点がそこにはあった。
「白い、肌……」
総毛立つ嫌悪感。
煙を吐くオニキスの、頬が白い。炭化した木材でも引っ付いているのかと思ったが、どうもあれはオニキスの地肌のようだった。
「そんな、まさか……お前……お前!」
僕は思い出した。僕らが引きずり降ろそうとしていた国家第三席が手を染めていた実験。
他国の単色人の、転化実験。
オニキスは焼け焦げた二の腕の肌をベリベリと剥がしながら、血の滴る唇で答えた。
「……そうだ。俺は白の国で生まれた」
「何故、どうしてそんな生まれで、この国に尽くす!」
戦争で捕虜となり、ぞんざいに扱われ、その果てに生存率が極めて低い他色への転化手術の実験台とされる。
過酷で凄惨で、人としての尊厳が限りなく無視された酸鼻の境遇。
それなのに何故、この目の前の男は、この歪んだ黒の国に忠誠を誓う?
「……俺は……」
オニキスは先の欠けたナイフを構える。IB-982が警戒態勢となった。
「俺はあの戦争で、死ぬはずだった。泥に塗れ、血に塗れ、死ぬはずだったんだ」
オニキスの右目が、じわじわと蠢く。瞳は色を失い灰色から白へ、ゆっくりと変化していった。
「俺は生きたかった。どんな形でもな。黒くはなったが、それはそれだ。生きていられるんだからな。なぁユウイチ、俺は変か?」
黒と白の一対の瞳に見つめられ、僕は息衝くのも忘れる。
「どうあがいても生きたい、俺は間違っているか?」
「アイヴィ、逃げるぞ」
言い知れぬ狂気。今のオニキスは危険すぎる存在だった。僕はIB-982に撤退の指示を出し、駆け出した。
「アイヴィ、着いて来い! 僕らにはまだやることがある!」
『ユーイチ!』
「その怪我でどこへ逃げる!」
食堂のテーブルや椅子をなぎ倒してオニキスが迫ってくる。僕は窓目掛けて駆け出した。
「アイヴィ! 二手に分かれるぞ! 裏の丘で落ち合うんだ! 死ぬなよ!」
『は、はい!』
僕は振り返らなかった。窓を蹴破って屋外に飛び出す。空は基地からの噴煙で赤く染まり、地獄なんてもんじゃない。
「逃がすか……売国の徒!」
背後からは鬼のような形相となったオニキスが追ってくる。
薄く雪が積もった道を駆ける。風に揺れる木々が僕を嘲笑う。身体はとうの昔に限界に達していた。両腕がなくて走りづらい。
オニキスが迫る。逃げ切れない。背後から荒い足音と息遣いが聞こえてくる。気配はだんだんと近くなっていた。
「死ね! ユウイチ!」
僕は咄嗟に振り返ってしまう。
鬼気迫る表情のオニキスが、ナイフを振り上げていた。
(僕はまだ死ねないんだ———僕は———!)
迫るナイフが、堪らなくスローに見える。割れた切っ先が舞い散る雪を裂く様すら見えるような気がした。
奪命の刃が、僕の胸元まで迫る。
(フェルテ! テフォン! 僕はこんなところで、死ぬ訳には———ッ!)
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