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「やぁアイヴィ、今日も美しい」

『おはようございます。ユーイチ』

 僕の話し相手はIB-982くらいなものである。朝一でコーヒーを頼むのが日課となっていた。

「今朝は、何か情報はある?」

『いえ、特には』

「良いことだ」

 僕はやはりコーヒーを啜る。良いことだ。

 IB-982は目を伏せて皿を洗っている。

『ユーイチ』

「?」

 僕は顔を上げる。IB-982が自分から話しかけてくることは珍しかった。

 改造しすぎただろうかと、一抹の不安を覚える。

『基地の人口減少が著しいです』

「そうだね」

 以前に比べて、食堂はかなり閑散とするようになった。戦死する者、退職する者、亡命する者。常に食堂に勤めているIB-982はその変化をよく感じるのだろう。

『私は、ユーイチに死なないでほしいですよ』

「……何を急に」

 IB-982は形の良い眉を少し下げる。

『正直、あなたは私のことを改造しすぎだと思います』

「う、うん」

『私はもう、流暢に話せるようになってきましたし、人間の感情の変化も分かるようになってきましたし、コーヒーも美味しく作れるようになりました』

 以前とはまるで別の機種です、とIB-982は呟く。ザブザブと水が流れる音が響く中でも彼女の声は不思議とよく聞こえた。

『単なる給仕には不必要な機能かもしれませんが……私はこの身体を気に入っています。流れる水の冷たさも、オーブンの発する熱も感じるようになりました。あなたが触覚を与えてくれたからです』

「面白半分でね」

『でもそれ故に、この基地から温度が失われていくのが、怖いです』

 IB-982は皿々を水切りに納めると、スッとこちらを見た。作られた美貌が、僕を捉える。

 その顔は、本当に恐怖を語っていた。

『どうか命だけは大切にしてください。機械の私が言うのも可笑しいですが……』

 IB-982は自身の首筋の電源ボタンを撫でる。

『何を成そうとしても、命が失くなってしまえばおしまいです』

「……そうか」

 僕はIB-982のヘッドの中に、複雑な演算回路が形成されているのが見えるような気がした。ガラスの眼球はそれほどまでに情緒的だった。

「心配してくれてありがとう。アイヴィ。嬉しいよ」

『………………』

「でもね」

 僕はコーヒーを一息で飲み干し、カップをレーンに戻した。

「命が失くなってしまえば、おしまい。確かにその通りだ」

 行間には時計の秒針の音が響く。

「でも、だからこそ、僕はもうおしまいなんだよ」

『……ユーイチ』

「だってほら、もう失ってしまったからさ。大切な命を」

 僕は努めて平素通りに言った。雑談みたいに言った。ビリヤード台を囲んでるときのように平凡に言った。

 しかし隠しきれない機微は、IB-982に伝わってしまっていることだろう。

「ま、そう深刻に捉えないでもらって構わないよ。僕は簡単に死ぬつもりはない」

『………………』

「またコーヒーを飲みに来るよ。明日も、明後日も、その次も、その次の次もね」

 僕は食堂を後にした。

 廊下を歩きながら、今日の予定について考える。訓練と事務作業の合間にどれだけ自由時間があるだろう。いつ仲間と連絡を取れるだろう。

 部屋までの道のりの半分を過ぎたあたりで、妙に舌の奥の苦みが消えないことに気がついた。

(これは、きっと……)

 苦みの正体は察しが付いている。コーヒーではない。

 僕はきっと、IB-982に心配されて嬉しいのだ。

 機械に心配されて、少し気を良くしている。

 滑稽にも、自分がチューンした機械に。

(本物の人間を見殺しにしておいて、な)

 その心臓の崩れ具合が苦さとなり、胃から食堂を駆け上って舌に根を張っているのだろう。



 自分についての陰口を拾うことは、存外簡単だ。

 陰口とは本人がいない場所で吐き出されるものであるからして、つまり、普段自分が決して足を踏み入れない場所を観測すれば陰口を聞くことができる。

『ユウイチ・サクロファさぁ』

『あぁ、あのメカノフィリア?』

『やっぱ気づいた? あれヤッバいよね』

『ね~。食堂で堂々と話しかけてるからね、雑用ロボに』

『キモいっていうか、もう怖いよね、あれ』

『やっぱ彼女が死んでオカシくなったのかなぁ』

『絶対そうだよ。元から変なヤツだったけど』

『そういえばさぁ、死んだ彼女の安置所にも通ってるらしいよ』

『エグ。機械姦とネクロフィリアの両刀かよ』

『ナキともデキてたらしいしさぁ、でも、同性愛なんて霞むよねぇ』

 ノイズまみれの音声が、イヤホンから垂れ流されている。

 僕は女子トイレに仕掛けた盗聴器からの音声を聞いていた。自室の椅子に深く腰掛けながら盗聴しても、気の休まる内容ではない。

 まったく、排泄物よりも下賤な会話だ。聞かされる身にもなってほしいものである。汚れているのはどちらだというのか。

「しかし、これで……」

 僕は立ち上がって腰を伸ばした。

(僕が組織内で徹底的に嫌われていることが確認できた)

 欲しかったのはその確証である。

 自分がどれだけ同僚から距離を置かれているか、その程度を調べたかった。

 それによって、行動の規模感も変わってくるためである。

 僕は脳内で作戦内容を検討する。

 事が起こればあとは一直線だ。後戻りはできない。途中で修正も難しいだろう。事前によく考えておかなければ。

(まずやるべきことは……)

 耳からイヤホンを引きちぎり、受信機の電源を切る。

(盗聴器の回収、か)

 これから起こるであろう事に比べれば、些事中の些事である。

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