22

 身近な人が立て続けに死に続ける暴走する日々においても、僕は一度も転ばずに道を歩いていた。靴紐が解けたことも紙で手を切ったことも傘を忘れたこともない。僕は実に規則的に模範的な軍人だった。自室のベッドから身体を起こし、カーテンを開ける。窓から見下ろすトラックにはランニングをする職員たちの姿が見えた。全員死ねば良いのに。

 朝から不気味なほどに冴える脳と内直筋をフル稼働させ、パッチを溶接する。誰にも見られてはならない作業なので以前までは急な来客に怯えながら事に励んでいた。

 今となってはもう、僕の部屋を訪ねる者などいない。



「やぁアイヴィ、今日も美しい」

『おはようございます、ユーイチ。今朝も早いですね』

 人気のない早朝の食堂で、僕はレーンに肘をかけてIB-982に話しかけた。

『ユーイチ、目に隈があります。よく眠れていますか?』

「まぁ、この基地の職員の平均よりは眠れているかな。辛うじて」

 IB-982は僕が注文をせずともコーヒーを淹れてくれる。

「ありがとう」

『どういたしまして』

 微笑むIB-982を横目に、僕はコーヒーを啜る。味蕾を刺激する苦みは未来の味がした。

 パッチでめちゃくちゃに改造したIB-982は、初期とは見違えるほどに高性能になった。思考回路が高度化し、演算処理も上がった。対人能力も向上しているし、表情や身振り手振り、滑舌といった非言語コミュニケーションを用いるようになった。すべて僕が改造したためだ。

 後から見つかるバグを急造パッチで対応することも多く、野放図にアップデートを繰り返した結果、僕自身もIB-982の中身を捉えきれていないほどになってしまった。

 彼女の中で何がどのように作用しているのか分からない。

 しかし僕は彼女の改造を止めなかった。

 実益のために改造を施していたが、パッチを作る作業は案外楽しかったのだ。

 僕は機械弄りを心の安寧としていたのかもしれないと自覚したのは、最近になってからだ。

「夜の間に、仲間からの連絡はあった?」

『いいえ。通常通りバイタルは届いています。全員生きてますよ』

「何よりだ」

 僕はあのボロ小屋の中で出会った仲間たちの真剣な眼差しを思った。

『ユーイチ、そろそろ他のお客様が来ます』

「そうだね」

 壁の時計を見る。そろそろ午前四時半といったところだ。朝訓練をしている奴らが腹を空かせてやってくる頃合いである。

『あなた以外の人の前では、私は初期状態に戻ります。お話することがあれば今』

「ん……急な用件は特にないかな。ありがとう、アイヴィ。コーヒー美味しかった」

 僕はカップを置き、手を振って食堂を後にした。朝食は自室で配給食を食べようと思う。

 食堂を出る際、最初の職員とすれ違った。

『ターン・ブラック』

 IB-982の機械的な音声が聞こえてくる。



 夜になると、猛烈な吐き気と不整脈に襲われるようになった。

「………………!」

 僕は胸元と頭を掻き毟り、水揚げされた深海魚のようにベッドの上でのたうち回る。汗と涙が滲み、全身の水分が揮発していくようだった。

 脳裏に浮かぶのは、あの暗く良い香りで満ちた部屋に佇む彼女の姿。

 そんな後悔に苛まれるのは、これまでもそうだった。

 今はそれに加えて、緑髪の彼女が草原に微笑んでいるシーンが追加されている。

「……ぼ、僕は……」

 間違えているか?

 何か、間違えているか?

 これまでも幾度となく心に去来し、その度にどうにか跳ね除けてきた問い。

 それがフェルテの死によって急激に重みを増し、僕の肋骨をギシギシと刺激するようになっていた。

 義手の付け根が痛む。

「あ、あ、あ……」

 僕とフェルテとの距離は、永久に失われてしまった。

 その事実が、平素はぼやけている分、夜になると鮮明に形をなす。

 否、平素でさえ鮮明なのだ。

 それを僕が、心の防衛反応で曖昧にしているだけ。

 夜は無防備だ。

 なぜなら、夜は命に似ているからだ。

 彼女を救うためなら、僕は何でもやるつもりでいた。命懸けでスパイをし、血尿が出るほど軍務に従事した。潜入、諜報、暗殺。世の中で悪事とされていることは半分くらいやった。

 それはひとえに、彼女を救い出すためだった。

 戦火から救い出すためだった。

 しかし、

「僕はただ、君に笑って」

 努力虚しく、彼女は死んでしまった。殺されてしまった。

 この無力感は何だ?

 どうしてこうなった?

 電話一本分の距離すら縮められない。

 本当は、作戦も使命感もすべて擲って、彼女の部屋に行くべきだったのではないか?

 あの夜、行けば良かったのではないか?

 そうしたら、彼女は死ななかったのではないか?

「くだらない」

 そうしたら、彼女は死ななかったのではないか?

 そうしたら、彼女は死ななかったのではないか??

 そうしたら、彼女は死ななかったのではないか???

「くだらないくだらないくだらない! そんなわけない!」

 僕はベッドから跳ね起き、窓枠に手を突いた。ガラスに頭突きして叩き割ってやろうかとも思ったが、そんなことをしても何にもならない。怒られるだけ。余計な出費。

 僕は窓に額を押し当てる。冬の外気がガラス越しに伝わってくる。気休め程度に、汗が引いた気がした。

 僕はそのまましばらくの間、額と両手を窓ガラスに押し当て続けた。僕の右腕は鋼鉄だ。熱伝導性が高い素材なので、ガラスからの冷気がよく移る。

 こうしていないと、本当に暴れ出してしまいそうだった。

 冷えた右腕を頬に当てる。少し結露したそれは心地よかった。

 腕が温くなるまで、夜空を眺める。

「………………」

 脳の九割が、後悔と罪悪感でぐちゃぐちゃになっている。

 しかし依然として、残り一割の領域が健気に勝利の道筋を探していた。

(何もかもを失って、何が勝利だと言うのか……)

 僕は残された手札を考える。

(残された……もの……)

 軒下に滴る雪解水が、ひどくスローに見える。

(残された、もの?)

 僕は脳の九割が、急激に冷却されていくのを感じた。

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