21

 黒く暗い室内で、僕は立ち尽くしていた。

 戦果は上々だったようだ。報告書によれば南部十四は二時間足らずで制圧され、我が軍は押し寄せる黄兵隊を圧倒的に蹂躙したとのこと。損害は少なく、まさに理想的な勝利だったと言える。

 ただ一点、フェルテが死んだことを除いて。

「………………」

 安置所で、コンクリートの密室で、必要以上に冷えた個室で、この世で最も現世から隔絶された場所で、僕は横たわるフェルテの死体を眺めていた。

 戦果は上々。こちら側で死傷者はほとんどでなかったという。

 しかし、数名は間違いなく死んだのだ。

 フェルテからは下半身が無くなっていた。腹部の損傷を見るに、近距離で散弾でも食らったのだろう。彼女らしからぬミスだ。甘かった。僕は無感情に戦績を分析した。

 自分でも驚くほど感情は静かだった。

 彼女の死を知ったときに十分に吐いたからだろう。今は平穏そのもの。

 フェルテはとても穏やかな顔に整えられていた。緑色の髪は煤と油で汚れていたが、その下の彼女は眠っているかのようだ。常からこうだったら良かったのに。

 あれだけ見慣れた裸が、ひどく無機質な肉の塊、あるいはゴムの塊のように見える。触れたことさえある乳房も、まるでつまらない。血の通っていない人間とは、この程度のものなのか。

 僕は彼女の腕に触れる。左腕に触れる。

 柔らかくない。

 それもそのはずである。

 彼女の左腕は義手なのだ。

 しかし、何故。

 しかし、何故、彼女の左腕が僕の右腕と同じになっているのか。

「——————」

 知らされていなかった。

 フェルテは義手を換えていた。あの樹脂製の細い義手ではない。鋼鉄製の、重く、冷たく、内部に爆弾でも仕込めそうな、僕と同じ義手だった。

 彼女がいつ義手を換えたのかは分からない。

 通常、腕を換えたらその変化に気づきそうなものである。しかし最近は、僕は全然彼女と会っていなかったので、そんなことにすら気づけなかった。

 電話に出ないと泣き言を言い、同じ屋根の下にいながら距離を縮められなかった。

 その隙に彼女は、どうしても手の届かない場所へ行ってしまったのだ。

 僕がぼんやりとフェルテの白い肌を眺めていると、安置所の扉がノックされた。

 返事をしないでいると、扉が外から開かれる。

「……大丈夫か、ユウイチ」

 入ってきたのはオニキスだった。

「大丈夫だよ」

「本当か」

「まぁ、よくあることだ」

 オニキスは長い手袋をしていた。彼は軍医の免許も持っていると聞いたことがある。正規の軍医は精神疾患で職を辞したと聞いているので、本来戦闘員である彼が指名されたのだろう。

「フェルテを……彼女を解剖するのか?」

「まだしない」

「いずれはするのか?」

 オニキスは手袋の裾を伸ばしながら答える。

「どうだか。研究する時間など取れないからな。予定通り土葬にするかもしれないが……」

 そこまで言いかけ、オニキスは黒い瞳でこちらを見た。

 真剣な目だ。

「本当に大丈夫なのか、ユウイチ」

「何が?」

「フェルテ・ディクラウンはお前と仲の良い友人だったのだろう?」

 オニキスは少し声を大きくした。彼にそういう一面があるのだと知り、僕は意外に思った。もっと冷酷な奴だと思っていた。

「友達だよ。だからとても悲しいよ。でも」

 僕はフェルテの寝顔を眺めて言う。

「仕方のないことだ。これが戦争だ」

 僕は思った以上に、冷静にオニキスに相対した。これは僕自身をひどく驚かせた。

「ユウイチ」

 オニキスは声に完全に感情を滲ませて僕に迫る。黒い瞳に僕が映る。成程、僕はこういう顔をしているのか。

 ヒュージも殴りたくなるわけである。

「じゃ、僕は部屋に戻るよ。最近眠れていないんだ」

「ユウイチ!」

 僕は僕自身から目を背け、氷みたいなドアノブを回して部屋を出た。

 廊下には無臭が満ちていた。安置所でも臭いなど感じなかったが、廊下の無臭を感じることで逆説的にあの部屋に漂っていた臭いを知覚することができた。

 あの部屋には確かに、何かが満ちていた。

 常は感じることのできない、異常で、異質で、後ろ側にある何か。

 あれがきっと、死の臭いというものなのだろう。

「……なんだよ」

 僕は黒い廊下を歩く。無性に声を出したくなった。

「なんだよ、なんだよ、なんなんだよ!」

 壁を殴る。義手の拳骨の形に痕がつく。

「なんだってんだよ! 本当に!」

 鼻が歪むほどの無臭。

 フェルテが死んだ。

 僕は走った。どこへ行くでもなく走った。真っ直ぐな廊下を走って、突き当りの扉を開けて外に出た。

 朝焼けが世界を包んでいた。

 僕は走った。冬の寒さも有刺鉄線も何も気にならない。僕は走らざるを得なかった。そうしないと爆発してしまいそうで、灼き切れてしまいそうで、走った。状況が僕に走らせた。

 薄く積もった新雪は世の理を知らぬかのように銀色で、その純真を嘲笑うかのように太陽がそれを炙っている。

 僕は雪の中を無軌道に走った。踏み荒らされた雪は土と枯れ草と混ざってグロテスクな錆色に染まり、僕の靴の人工的な足跡が太陽より先に雪を汚す。

「あああああ」

 僕は暴れた。端から見れば、勝利の美酒に酔いしれる若い軍人にも見えたかも知れない。

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