19
頭から冷水を浴びせられ、胸元と背中に気持ち悪い温度の水が浸透していくのを感じる。
僕は黒パンをトレイに置き、水の滴るグラスの縁を見上げた。
「シャワーならもう浴びたよ」
「昨夜はとうとう来なかったわね」
フェルテは僕の対面の席に着いた。トレイには僕と同じように黒いパンと、黒草のサラダと、薄く焦げた肉みたいなのが乗っていた。
「一応、言い訳をさせてほしいんだ」
「聞こうじゃない」
「すごく疲れていた」
聖者もびっくりな、正直過ぎる言い訳。
フェルテは僕のトレイからブドウを一粒取って口に運んだ。
疲れていたのは事実だった。大量の訓練と事務作業に忙殺され、それに加えて仲間たちとの連絡調整もあり、さらにはIB-982の改造パッチ作りもやらなければならなかったのだ。
これで異性と遊ぶ余裕がある方が不自然だ。
今朝がたに新たなパッチを差し込んだIB-982は。レーンの向こうで済まし顔で立っている。食堂に来る職員は減る一方なので、彼女も暇を持て余すことが多くなっていた。
「私は血尿でも大丈夫よ」
「食事中だよ」
僕に水をぶっかけたばかりとは思えないほど朝の爽やかさを纏わせて、フェルテは前髪を払う。彼女の感情の中枢がどこにあるのか掴みきれず、僕は嫌な汗をかいた。
怒っているはずである。間違いなく。
しかし外側は、さっき水浴びを済ませたばかりの犬みたいだ。
浴びせられたのは僕の方だというのに。
「分かった。昨夜はすまなかった」
「うん」
「今夜はちゃんと時間を作る。埋め合わせをするよ」
フェルテは無言で僕を睨んでいたが、おもむろに自身の左手の薬指を右手でつまみ、指先を外した。
「何を」
怪訝に思う僕をよそにフェルテはテーブルの上に身を乗り出し、僕の制服の胸ポケットに薬指を差し入れた。
思わずフェルテの顔を見上げる。間近に迫った彼女はフッと笑った。
その笑みが少し、あの草原に近づいたような気がして、僕は胸を撫で下ろした。
「嫌よ」
しかし、それは早計だった。
*
確かに僕が悪い。
射撃場で白い人型の的を打ち抜きながら、僕はイヤーマフの中で思考を撹拌させる。
昨日は作業中に声をかけられたために脳が切り替わり切らなかった。その点でいえば深刻な話をそのようなタイミングで仕掛けてきたフェルテにも一定の非があると言える。
何事も、タイミングが最も肝要なのだ。
弾を詰め替える。穴まみれになった的が下がり、新品が現れる。
(しかし……)
いくらフェルテの提案というか命令が無茶だったとしても、今回ばかりは確実に僕が悪かった。
夜に彼女の部屋に行かないということは、最初から決めていた。仕事が早く片付くかとか体力的に余裕があるかとかに関係なく、僕は彼女の部屋に行くつもりはなかった。
であれば、
(電話の一本くらい、入れれば良かったんだ)
それか、直ぐに、事前に、埋め合わせの話をすれば良かった。別日程を組むだけでなく、菓子折りでも持ち込んだら良かったかもしれない。
それで彼女が僕のことを許すかは別として、少なくとも今よりはマシな結果になっていただろう。
黒い部屋の中、ベッドの上で、来ない相手を一時間も待っていたフェルテの姿を想像する。
想像上の彼女は随分と静かで、火を入れられる前の青野菜のようにくすんでいる。
(そんな簡単なことにすら気が回らないとは)
人として当然の想像力が働いていない。
僕は相当、弱っているらしい。
否、弱ってなどいなく、ただの素? これが本性?
そういえば、ナキは僕に対して、上手に埋め合わせの話を持ちかけてきた。
彼は女の扱いが上手かった。助言を賜りに行くのも悪くないかもしれない。
(あ)
白い人型の的の頭を撃ち抜いて、僕は己の過ちに気がついた。
(ナキはもう死んだんだ)
頭を撃ち抜かれて。
*
電話の向こうの相手は出ない。
僕は一分以上待ってから携帯を閉じた。これで五回目だ。
目を強く押さえて、視界が不整脈に覆われてきた頃合いでベッドに倒れ込む。カーテンの裾の向こうには橙色の光が見えた。
仕事が忙しいので、食堂の一件以来、フェルテと話せていない。彼女は僕の電話に出ることも拒んでいるため、僕の意見を彼女に伝えることができていなかった。
こうなったら彼女の部屋に強引に乗り込んでやろうかとも思うが、今の彼女は相当に不安定だ。扉を開けた途端に銃で打ち抜かれる可能性が、冗談抜きである。そんなのは流石に御免だ。僕はまだ死ねないのだ。
僕は携帯をベッド脇のサイドテーブルに置き、天井を眺めた。
僕はなにか、間違えているか。
僕はいつだって、彼女を救うために動いている。彼女に巣食う戦火を取り払い、あの草原に戻るために死力を尽くしている。
水をかけられてもだ。彼女の草原に水を遣りたいのは、誰よりも僕なのだ。
しかし彼女は、明確に鋭く尖っていっている。現在進行形で。
黒い煙の中で、露悪と嘲笑ばかりを好んでいるように思える。思考の一手二手先に、すぐ引き金を弾くという選択肢が用意されているような雰囲気だ。
これでは、彼女自身がいずれ、別の色の花畑を焦土と焼いてしまうだろう。
ふと、サイドテーブルの携帯が鳴った。僕は反射的にそれを手に取る。液晶の照度が目を灼く。
彼女からの連絡だと思ったのだ。
しかし液晶に表示されていたのは、もっと無表情な文面。
(対面での会合が開催される。時刻は明日深夜、場所はクシササギか———)
最小限の要件しか語られない通信。
僕は脳の予定帳に内容を書き入れる。
鼻腔の奥に、あの香りがした。もう彼女はいないというのに。
そういえば、棚の奥底に彼女から貰った香があったな。
見つかると不味いから処分しなければならないのに、どうにも捨てられない。
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