18
「ユーイチ、今夜私の部屋に来て」
夥しい量の仕事の合間に、フェルテは器用に僕を捕まえてそう言った。
「今夜は難しい。仕事が山積みなんだ」
僕は事務室でひたすらに書類を捌いている。職員の死亡処理案件、家族への手当、昇進・降格に関する書類作成、敵前逃亡者の始末書に目を通し、備品の数も確認しなければならない。
三時間も立ちっぱなしで、脚が棒のようだった。
「もう三週間も間が空いているわ」
「戦時中なんだ。仕方ないだろう」
僕は書類に判子を捺しながら返事をする。黒肉は半分乾いていた。
背後の作業台からはフェルテが銃の掃除をする音が聞こえてくる。ガチャガチャと乱雑な音だ。これで彼女が整備した銃はそれなりに使いやすいから不思議だ。
「というか、君だって忙しいんじゃないのか?」
整備班の仕事が他より暇だとは思えない。むしろ一番忙しいくらいなのではないか。
「寝る時間くらい確保されてるわよ」
「四時間くらいじゃないか」
「一時間やって、三時間眠れば良いじゃない」
僕は溜息を吐いた。書類に書き込む筆圧が少し強まったのを自覚する。
「身体が壊れるよ」
「あなた、一番忙しい時期にアザミハマに通ってたじゃない」
僕は手を止めた。
僕の停止を音で察知したであろうフェルテが、作業を止めた気配がする。
「君さ」
僕はたまらず振り返った。作業台の前には、フェルテが立っている。
手には銃。
「久しぶり、ユーイチ」
「何が」
「今日初めて、目が合ったね」
フェルテの深緑色の瞳が僕の目を捉える。
言われ僕は、今日一度も彼女の顔を見ていなかったことに気がついた。
存在は知覚していた。食堂のあの席にいるなとか、訓練場のあそこにいるなとか。彼女の声や髪色が五感の外縁にチラついていたから、それで会った気になっていた。
しかし、外縁は外縁である。
初めて対面したフェルテは、フェルテだった。当たり前だ。一日やそこらで人間は劇的に変わったりしない。
「遊ぼうよ、ユーイチ」
「マジで言ってるのか……?」
フェルテはその手のセーフティを無造作に弄りながら言う。まるで子供が携帯を触りながら、今日の放課後に行くカフェを思案しているかのような軽さで。
僕はひょっとしたら、あまりの忙しさにフェルテの脳がどうかしてしまったのではないかと不安になった。普通の判断ができないほど追い詰められているのではないかと。
しかし彼女の手に収まっている銃が、その精緻に整備された鉄の兵器が、彼女の頭が冴えていることを如実に示していた。
「……とにかく、今夜はムリだ。欠員の皺寄せが酷いんだ。体力的にでなく、物理的に不可能だ」
僕はフェルテの、ある種迫力のようなものに若干気圧されながらも答える。
フェルテは少し目を伏せ、銃を作業台に置いた。
「今夜も出かけるの? アザミハマ? あそこはもうないから、別の場所かしら。シュウゼンか、ハスマドケか、コゾコか。クシササギとかも、軍の目が通りづらいわよね」
「フェルテ」
「あら目がマジになった。今言った中に当たりがあったの?」
銃を整備するにはあまりに他愛ない、緑色の瞳。
「今までだって忙しかったんじゃないの?」
「怒っているのか」
「怒っていないと思ってた?」
フェルテは銃身に「整備済」のラベルを貼り、同じように整備済の札が貼られた籠に入れた。
僕は焦った。確かに、フェルテとの絡みをあまりしていないという自覚はあった。
しかし、僕を取り巻く環境はあまりに特異で悪意で、僕は謀殺に近い形で忙殺されかけていたので、それもしかたないと思っていた。
「高そうな香の臭いさせておいて。私、鼻が良いの」
その不条理に僕を苦しめる状況を、彼女も分かってくれていると思っていた。
勝手にも。
「とにかく、今夜は絶対に空けておくこと。良いわね」
しかし彼女は彼女だ。今の彼女は草原でなく戦火の中に立っているのだ。僕の甘い曖昧な推測で御しきれるほど、彼女は良い子じゃない。
フェルテは作業場を去っていった。僕は眼前の書類を束状に分類して、深い深い溜息を吐いた。
疲労の極地で、思考がふやけてしまっていた。僕がこんなに辛いのだから、他の人々も僕の辛苦を分かってくれているだろうと、巫山戯た我儘が心を支配してしまっていた。
そんなことはどうだって良いのだ。
僕が辛いことなど、他人にとってはどうだって良いのだ。
皆辛いのだから。
僕は僕の水浸しの脳とは対象的に乾いた黒肉の蓋を閉じ、ゴミ箱に投げ入れた。
「………………」
しかし……。
無知とやっかみで構成されていたとはいえ、フェルテがテフォンを悪く言うのは僕の心に堪えた。
(自業自得か?)
基地で働きながら、戦場に立って敵兵の命を奪い、それでいて国の内部からも国家転覆を狙う。二つの顔を使い分け続けてきたことによる弊害か?
(それが今実態を伴って、僕の心臓を針状に貫いているとでも言うのか?)
その針の色が黒色なのか、緑色なのか、それともそれらすら違う、まったく別の色をしているのかすら、僕には判別が付かなかった。
少なくとも針の先端が赤黒く染まっていることだけは分かる。
それは僕の心臓を刺し貫いているのだから。
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