16
「やぁアイヴィ、今日も美しい」
僕は彼女がそんな挨拶をするのを、半ば意識を手放しつつ聞いていた。
テーブルに広がる参考書には難解な回路の解説が記されている。僕は額からずり落ちる冷感シートを押し上げ、ノートにペンを走らせた。
対面の椅子が引かれる。
「あんたの真似」
「……やぁ」
緑髪を揺らして、フェルテが椅子に腰掛けた。胸元の勲章がガチャリと鳴る。
「ターン・ブラック、ユーイチ。何してるの?」
「勉強」
「……戦場が怖くなった?」
「歴史上、学徒出陣というものがある」
フェルテは見るからに甘そうな、錆色の液体を飲んでいた。コーヒーかココアか判別できない。そういう色の紅茶かもしれなかった。匂いで判別できたかもしれないが、冷感シートの薬品臭がそれを阻害する。
僕はもう、公共の場で趣味の開発をするほど人目を気にしなくなっていた。それは基地内の人間の数が減っていたということもあるのだろうけど、僕自身、なりふり構っていられなくなり、ある種傲慢になっていたというのもあるのかもしれない。
そんな駆け抜けるような僕の生活に割って入ってこられるのは、彼女のように行動力のある人くらいなのだろう。
「……何」
右手を捻り上げられ、僕は対面のフェルテに視線を上げた。
僕の右手は機械製であるため捻られたところで何の痛みも感じない。
「これ、いくらしたの?」
彼女の狙いは僕を痛めつけることではなく、その義手にこそあった。
「忘れたけど、高いよ。中に爆弾が入ってるからね」
「それずっと言うけど、誰が本気にするのよ」
フェルテは生身の右手で、僕の義手を握ってくる。
偽物の指に、人間の指を絡ませる。
フェルテの左腕は義手だ。その材質は樹脂製で、金属製のものよりも生活には馴染むが、戦場には馴染まない。
「……義手を変えたいのか?」
「………………」
食堂のテレビは今日も戦線の具合を放送している。どこの戦場でも我が軍は大勝利だ。
「やめときなよ。君にはその軽い腕の方が合うだろう」
「でも私の腕には爆弾を仕込めないわ」
「嘘だって言ったのは君のほうじゃないか」
僕はようやく、教科書を閉じた。フェルテの言いたいことが分かってくる。
「戦場が心配なんだろ? 安易に安心はさせたくないけど、君には今の腕の方が合ってると思うよ」
「なんで?」
「急に装備を変えると慣れるまで時間がかかるものだから。ベテランの中にはあえて体に馴染んだ旧式の武装を使う人だっているだろう。それと同じだ」
フェルテはすっと考え込むような真顔になり、左腕の掌を見つめて指を握ったり開いたりしていた。細い指は工学的に無駄がなく、小さな空気抵抗でスムーズに動く。
彼女の腕がそうなったのは、もう何年も前の話だ。最早義手は生得の身体の一部のような感覚だろう。それを今さら変えるとなると、慣れるまでが大変なはずである。
フェルテはテーブルに肘を突き、手首に口元を埋めるようにして呟いた。
「昨日の夜の……あぁ、いや、今朝の速報見た?」
「速報?」
「ヒュージが死んだんだよ」
僕は彼女が飲んでいたのがココアだと知ったのだった。
*
つまりそういうことだ。
身体も精神力も愛国心も基地内一で、将来は間違いなく将校クラスまで上り詰めるだろうと言われていたヒュージでさえ堕ちるほど、戦況は苛烈さを増してる。
対して強くもなく、記憶を失っているとはいえ敗戦経験のあるフェルテが、己の力量を心配するのも無理のないことなのだろう。
「………………」
僕は廊下を歩きながら、すべきことを考える。
彼女が義手の換装を求めるようなことはあってはならないのだ。
僕がこの世界に足を踏み入れた理由は、ひとえに彼女を戦火から遠ざけるためだというのに。
「……僕は、何か……」
間違えているか?
この国を止めるために、彼女を止めるために、地獄の日々に身を投じている。
睡眠時間は5時間未満。全身に訓練でできた傷痕。脳を灼き切れるほど酷使し、食道と胃は溶岩のようなコーヒーの過剰摂取でズタズタ。
これだけ己を滅却しながら走る日々に、成果はまったく着いてこない。
むしろ失うばかりだ。
それでもすべきことを考える。
すべきこと。
「………………」
僕は黒い黒い溜息をスッと吐いた。吐き尽くした。指先と足先に虚構のような浮遊感。
ともかく、今遂行中の作戦をやり尽くすしかない。
途中降車はありえない。
この国の黒を一片でも摘むこと。
それがこの右腕に賭けた行く末なのだ。
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