15

 僕は細い道を駆け抜けてゆく国で何とか日々を生き抜いていた。

 あれから僕はもう一度戦場に立った。敵国からの攻撃も徐々に勢いを増し、黒色国域の戦力は削られていった。

 降下作戦の途中、中空で爆散する仲間を間近で見たときには肝が冷えたが、僕は運良く生き延びていた。

 兵が減れば基地内の生き残りが分担する仕事も増えるので、血尿が出そうなほどの激務に追われることになる。

 しかしそんな絶望的な状況であっても、僕は折れることなく走り続けていた。

 恐らく緊張と疲労が、僕の身体に止まることを許さなかったのだろう。平均台の上はそろそろと歩くより、全力で駆け抜けたほうが案外転びづらいものだ。それと同じだろうと思った。

『ユーイチ、顔色が悪いでス』

 開口一番、機械にも気遣われてしまう僕は身振りだけ気さくに挨拶をした。右手を上げる。

「やぁアイヴィ。今日も美しい」

 まだ誰も訪れていない早朝の食堂でIB-982のいるレーンに肘をかける。

『最近は休めていますカ? 休めていませんよネ』

「まぁ昨日は特に大変な一日だったけど……休むわけにもいかないんだ」

『今日は「パッチ」はありますカ?』

「まだ、出来ていない。近日中のリリースを期待していてくれ」

 IB-982は僕が注文するまでもなく、熱いコーヒーを入れてくれるようになった。彼女に仕込んだパッチは既に十を超えている。一度差したものを回収して改修したものを数えればその総数は十五だ。僕はありとあらゆる方面から改造を施していた。

 コーヒーの濃度だって僕好みである。

「美味しいよ」

『ありがとうございまス。ですが、あまりコーヒーに頼りすぎない生活をしてくださイ』

「僕みたいな雑兵に言ったってしょうがないよ。上に行ってくれなきゃ」

 天井付近から重たい駆動音が聞こえてきて、僕は視線をそちらに向けた。時計をちらりと見れば午前六時半。定刻となり、天井から吊り下げられたテレビが起動したのだ。

 ぐちゃぐちゃに歪曲された国営放送しか流さないテレビは、昨夜のうちに届いた速報を流していた。画面の奥には、黒い建物が赤い炎と黒煙に覆い尽くされている様子が写っている。

 僕はまたどこぞの戦線がぶっ壊れたのかと思った。

 しかしキャスターの声と分厚いテロップが、僕の甘い予想を打ち砕く。

『速報です。昨夜未明、アザミハマ区画で工場が爆発し大規模な火災が発生しました。火は周囲十二棟に延焼し多数の怪我人が出ている模様です。爆発したのはヤナハシ重機工業のアザミハマ工場であり———』

 僕はコーヒーカップを取り落とした。

『ユーイチ、やっぱり疲れてますヨ。仕事が多いのは分かりますが、少し休んでくださイ』

 足元の黒い液体が靴に染み込んでくる。

 熱すぎない温度は血に似ていた。

「……今、もっと仕事が増えたところだ」

 僕は踵を返して食堂を走り出た。

 最悪の予感が脳裏を刻む。どれだけ急いで走っても、黒い夢は僕の背に張り付いて剥がれない。



 有事の際の緊急連絡網が機能していることで、僕の胃の腑には熱く冷たい泥濘が満ちた。

『テフォンと連絡が取れない』

 電話の向こうの会ったことのない男はそう告げた。僕は基地内の電話ボックスのガラスに全体重を預ける。

「………………」

『とりあえず、次回以降の対面接触はクシササギとなった』

「……あぁ」

 名前は知っているが、降りたことのない駅だ。

『我々も動揺している。ここで彼女を失うのは痛すぎる』

「……そうだな」

『………………』

 電話の向こうの工作員は打鍵音を響かせながら、鋭い溜息を吐いた。電話越しだというのに煙草の香を感じる。

『気を強く持とう。ここにきて負けるわけにはいかない』

「承知している」

『健闘を』

 受話器を置くと、魂の一部も同時に抜け落ちてしまった気がした。

 誰かが開きっぱなしにした電話帳。無数の数字が並んでいる。じっと見ていると文字が歪み、輪郭が曖昧になる。

 それが吐き気であり、起きた出来事に対する身体の反応と理解するのに時間がかかった。僕はよろよろと、遠距離恋愛が破談した昔の男のように電話ボックスから這い出た。

 壁を伝い、とりあえず歩く。何処に行くべきか分からない。懊悩する脳でぼんやりと、食堂の掃除をすべきと考える。

「……落ち着け」

 滅多に出ない独り言が漏れ出る。

 ヤナハシ重機工業。爆発した工場を所有していた企業。

 何が起きた?

 敵国からの爆撃か。そのような報道はされていない。可能性はある。しかしそうであるなら、襲撃してきた爆撃機の足取りについての情報が上がってくるはずだ。

 内部の反戦組織が工場を襲撃したのだろうか。声明がない。その線は薄いか。

 テフォンは先日、ブラックが店を訪れたと言っていた。

「——————」

 黒い電撃。

「……あいつか」

 店を訪れた痕跡を消すために、消すためだけに、周囲一体を焼き払った?

 まさか、と思う。工場を爆破してどれだけの理がある? 物資が壊滅するだけではないか。それだけの工作をするメリットがあるのか。

(テフォンは、奴をそれだけの行動に駆らせるほどの情報を掴んでいた?)

 今となっては、確かめようがない。

 僕が食堂に着くと、既に零れたコーヒーは掃除されていた。床は磨かれ、レーンの奥ではIB-982が忙しく朝食の準備をしている。

 まるで何事もなかったかのように、床の黒は消し去られていた。

『ターン・ブラック』

 こちらに気づいたIB-982が挨拶をしてくる。

 まるで何も改造されていないかのように、彼女は当初の挨拶をした。

 「僕以外の者がいるときはパッチの効果が現れない」という制約を仕掛けたのは他でもない僕自身だが、それでも努力が水泡に帰したような錯覚をしてしまうほど、床が綺麗だったのだ。

 時が巻き戻ったような、まっさらな黒さで。

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