13

 東部第九戦線の開闢と終息から、一週間以上が経過した。基地は平穏な日々を取り戻してはいなかった。

 そもそもが軍事施設なのである。戦争が激化すれば、次の戦いの準備に追われることになる。ある者は故郷に手紙を書き、ある者は精神剤を服用し、またある者は亡くなった同僚を悼んだ。

「……ねぇ、ユーイチ」

 そんな中僕はといえば、日々の訓練や工作活動、そして基地内での人間関係の維持に心を砕いていた。

「何?」

「ユーイチ……他の女のこと考えてるでしょ」

 だからセックスの後にフェルテから指摘されたことに対して、僕は固まった。

「……な……どうして、そう思う?」

「真っ先に「君のことだけを考えてる」くらい言いなさいよ」

 フェルテは呆れたように結んだゴムをゴミ箱に投げ入れた。

 僕は体裁もなく、顎に手を当て考え込む。

 確かに最近は考えるべきことが本当に多い。生活の主が国家転覆なので常に気を緩めずに行動しなければならないし、かといって軍での暮らしを疎かにするわけにもいかない。

 それに今だって僕はフェルテと仲良くするために部屋に赴いているわけで———。

 フェルテは義手を使って器用にブラを着ける。彼女は軍人なので戦場に立つこともあるし、銃の手入れだってお手の物なのだ。日常動作に手こずるような暦ではないのだろう。

「ほら今だって」

「今?」

 僕はフェルテの胸を見て彼女の境遇に一瞬だけ思いを馳せていただけである。紛れもなく彼女のことだけを考えていたと思うのだが。

 フェルテは伸びをして、緑色の髪を解いた。

「ユーイチは……」

 そして言葉を探すように、ベッドの縁に腰掛ける。

「ユーイチは本当に、私のことを思ってるの?」

 再開したフェルテは口の強さで言えばかなり男勝りになっていたので、こういう局面でずけずけと言ってくるのがありがたくもある。

 僕がフェルテのことを思っていないわけがない。

「僕がフェルテのことを思っていないわけがない」

「そう……」

 僕は左手で彼女の右手を取った。何も塗られていない爪。

 僕が軍にいながらスパイのような真似をしているのは、ひとえに彼女のためなのだ。彼女の笑顔を取り戻すためなればこそ、僕は危ない橋だって渡るし、無茶だってするし、黒くて不味い飯だって食べる。

 僕の心の原風景は、あの草原で柔らかく笑う彼女なのだから。

 あそこからは一歩だって動いてない。

 フェルテは夜なのに真っ黒なジーンズを履く。上はブラだけだ。フェルテは思考に耽る僕の顎を強引に引き寄せてキスをしてくる。

「お願いね。私が他の男とくっついたら悲しいでしょう?」

「身が裂けるくらい悲しいな」

 フェルテはフッと、一言では言い表せない精微な笑みを浮かべた後、僕の唇に思いっきり噛みついた。

 僕の唇は裂けた。



「良いニュースと悪いニュース、どちらから聞きたいかしら?」

 部屋を訪れて開口一番、テフォンはそう切り出した。僕は少し面食らう。

「前者からお願いするよ」

 僕はコートを衣紋掛けに吊るす。冬の外気は身に堪える鋭さだったが、館内はとても暖かい。裸になることが想定されている場所なのだ。訪れた客が皆風邪を引いてしまうようなら、今頃店は潰れているだろう。

 テフォンは黒い煙管から黒煙をくゆらせて、その金の装飾を細い指で辿っている。

 彼女はこの道のプロだ。客扱いに慣れている。それは僕のような、少し特殊な身の上の者であっても例外ではない。

 人々は現実から開放されるために、仕事を忘れるためにこの部屋を訪れる。雰囲気が最も重視されるこの部屋では、口にする言葉は慎重に選ばなければならない。

 そんな部屋でテフォンが、情事よりも優先すべきと判断した報告。

 僕は緊張して彼女の言葉を待った。

「……証拠が掴めたわ。しかも黒色転化実験だけじゃなく、もっとプラスになりそうなね」

 僕は腰を浮かした。

「そ、それって……!」

「あなたがブラックの行動ログを入手してきてくれたお陰よ。改めてありがとう」

 国家第三席・ブラックを叩くための証拠。

 テフォンは胸元から小さなメモリーカードを抜き出し、僕の手に重ねた。僕はそれを受け取り、右腕の義手に設けられているカートリッジに挿入する。

「確かなんだね?」

「えぇ。昨日、別班から届いたわ。帰ってからそれを読んで頂戴」

「黒色転化実験に加えて手に入った情報というのは?」

 気が急いでしまって仕方がない。僕はせっかちになっているのを自覚しながらも尋ねずにはいられなかった。

「それがどうも、化学兵器の開発に手を染めているそうなの」

 化学兵器。僕は頭を巡らす。そんなものは大なり小なり程度の差はあれど、ほとんどの国で作っているものだ。今さら摘発するような内容だろうか……。

 そこまで思い至って僕は、恐ろしい事実にたどり着く。

「あのブラックを摘発できるほどの化学兵器となると……」

 広範囲指定の虐殺兵器。

 それくらいなものだろう。

 テフォンはゆっくりと頷いた。

 ブラックを攻撃できる材料は多ければ多いほど良い。あの政界と軍部の最深部に巣食う化物を殺すには、それだけの火力が必要だった。

 しかし、虐殺兵器を開発しているとなると話は変わってくる。

「分かってるわよね、ユーイチ、この戦いはもう、私達だけのものではなくなった」

 このまま戦争が続けば、近くない将来に虐殺兵器が開放される。

 死ぬ人数が跳ね上がる。

 広範囲に届く兵器、例えば毒ガスが街に散布されれば———

(また僕や、フェルテのような者が生まれるかもしれない———)

 僕は額に氷の塊をぶつけられたような気分になる。どれだけ棘まみれの壁が聳えていたとして、超えるしかないのだ。そういう道を選んだ。

 僕はかぶりを振り、気持ちを切り替えてからテフォンに向き直った。

「それで……悪いニュースというのは?」

 今聞いた話も捉えようによっては十分悪い知らせなのだが、テフォンはさらに悪いニュースを持っているらしい。僕は緊張して訪ねた。

 テフォンは状況に反して、笑った。困ったように、野苺のように、煙幕のように笑った。

 それが僕を掻き毟るように不安にさせた。

「ブラックが、うちの店に来たわ」

「……それだけ?」

「抱かれたわ」

「——————」

 僕は多分、小難しい戦術指揮を読んでいるときよりも苦い顔をしていたことだろう。

 それが可笑しかったのか、テフォンは困ったように頬に手を当てる。

「そんな顔をしないで」

「別に、僕は」

 僕のことなどどうでも良い。それより重要なことがある。

「僕なんかより、君は?」

「どういうこと?」

「だってそんな……」

 僕は口を噤んだ。

 フェルテにとってブラックは、倒すべき宿敵だ。僕にとってもそうだが。

 奴の行う単色人の生産により、テフォンは産まれた。

 それだけではない。全身に国色たる黒色を纏うことは、その人生のすべてを国に左右されることを意味している。先日だってテフォンは勝利の女神だったのだ。周囲から役割を期待され、嘘の愛想を振りまき、時に差別の目を受け、それでも笑顔を作らなければならない。

 そんな巨悪と、身体を重ねた?

「君は、大丈夫なのか?」

 僕は胃の腑を焼くような怒りをなんとか押し留め、クールぶってテフォンに問うた。

「身体のこと? それとも心のことかしら」

「無論、両方だ」

「大丈夫よ。お仕事ですもの」

 テフォンは軽々と言ってのける。

 常々思っていたことだが、彼女は本当に強い。呆れるほど困難な生涯で、どうしてここまで屈強な人格が形成されたのか。困難だからこそ、ということなのだろうか。

「むしろ私も聞きたいわ。あなたは大丈夫なの?」

「僕?」

 テフォンは強い身体を、僕に寄せてくる。

「宿敵と身体を重ねた女を、抱ける?」

「なんだ、そんなことか」

 そんなことは些事だ。

「僕はそんなに小さな男じゃない」

「小さな、ね……」

 テフォンは少し考え込むような素振りをしたあと、くつくつと笑みを漏らし始めた。

「何?」

「ブラックはね、その……すごかったわよ?」

「僕が君を、満足させられそうか不安だってこと?」

 テフォンが斜め上の心配を向けてきて、僕は少々面食らう。無論、テフォンの表情から冗談を言っているとは分かるが。

「生の歯なんて一本も残っていないの。全部黒色セラミック。そんなものと間接キスなんて、あなたできる?」

「歯ぁ磨けば大丈夫だよ」

「流石は国家第三席よね。歯だけじゃなく、全身改造筋肉の塊。いくら掛けたんだか……」

 テフォンは僕の両肩に手を置く。あの香の香りがした。

「力強くて、二本あるかと思ったわ」

「面白い」

 僕は裂けた唇で笑みを作ろうとした。きっと歪だっただろう。

「他の男のことを考えられると悲しいな」

「ユーイチ……」

 テフォンは僕の首元に手を添え、その指で僕の唇の傷をなぞった。

「あなた、人のことが言えて?」

「え」

 テフォンがくすりと笑う。その衝撃はフェルテに唇を噛み切られたときよりも鋭利に、僕の心臓を貫いた。

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