12

 僕は部屋に戻り、ベッドに倒れ込んですぐに眠った。カーテンを閉じるのも忘れ、夢も見ず、とにかく深い眠りに落ちた。全身が痛かったし、その痛みを早く忘れたくて僕は必死に眠った。

 目覚めると深夜になっていた。

 全身の痛みは微塵も減っていないような気分だった。僕はなんとか布団から起き上がり、ヒゲを剃って歯を磨いた。

 廊下はしんとしていた。皆眠っているのだろう。僕は足音を忍ばせて寮を出た。

 夜空の下は格別に寒かった。冬の夜の峻厳な空気は、星明かりと引き換えに残酷な冷気をもたらす。僕はコツコツと靴音を響かせて基地を後にした。

 基地を後に、しようとした。

「何処へ行く」

 心臓が跳ねる。

 僕は咄嗟に振り返って腰を落とした。声の出所を探る。

 後を付けられていた? こんな時間に?

 僕が警戒を解かないと、声の主は自らその姿を現した。

「オニキス」

 暗い物陰から、まるで生み出されるかのように、オニキスが歩み出てきた。黒い髪、黒い肌、そして黒いコートを纏っている。闇夜に紛れるなら、彼以上の適任はいないだろう。

「ユウイチ、何処へ行く気だ? もう遅いぞ」

「君こそ、こんな時間に何をしていたんだい?」

 オニキスはじっとこちらを見つめてくる。僕は意識して軽薄な笑みを作った。

「……女か」

 オニキスが呟く。

 当たりだ。僕は頭の後ろで手を組んだ。

「戦地帰りのその日に遊びとは、お前は俺が思った以上に傑物なようだ」

「悪いね。そういうもんなんだ」

 僕は悴む手をポケットに入れずにオニキスの動向を注視した。捉え所のない瞳には一切の色がない。

 オニキスは不意にコートのポケットに手を入れた。発砲を警戒して僕は後ずさる。

「……そんなに警戒するな」

 オニキスはポケットから数枚の紙切れを取り出し、片手で僕に差し出してきた。

 僕は恐る恐るそれを受け取る。遠くの街灯の明かりにかざしてなんとか文字を読んだ。

「軍の、慰労券……?」

「成績の良い者に配られるんだ」

「知ってるよ。僕も貰ったからね」

 オニキスは悪かった、と白い息を吐き、続けた。

「俺も、ヒュージも、それは必要ない。お前が今から行く所では使えるんだろう?」

「……くれるってことか? 悪いね」

 僕はオニキスから貰った券を遠慮なく胸ポケットにしまった。

 オニキスはそれを見届けると、無表情に満足そうに踵を返した。

 カツカツと基地へ戻るオニキスの背に、僕は声を掛ける。

「僕が殴られて可哀想だからか?」

 オニキスは首だけで振り向く。

「ヒュージと話して、慰労券を誰かに渡そうという話になったんだ。東部第九より前の話だ。俺がヒュージの分も預かってたんだよ」

 それだけ言い残すと、オニキスは基地の玄関に入って行った。玄関灯の下から明かりの点いていない廊下に進めば、たちまちその姿は見えなくなる。本当に暗闇に溶けているかのようだった。

「………………」

 僕はオニキスへの警戒の値を下げないまま、基地を後にした。



 そろそろ日付が変わる頃合いだというのに、歓楽街は騒々しかった。路端には酔っ払いが溢れ、馬鹿みたいに大声を上げていた。

「勝った勝った! また勝った!」

「青の国なんて敵じゃねぇ! 黒は最強だ!」

「酒だ! もっと酒を持って来い!」

「おぉターン・ブラック!」

「ターン・ブラック!」

 ターン・ブラック! ターン・ブラック! ターン・ブラック!

 僕は耳を塞いで駆け出した。

 しかし逃げ場はなかった。街中が戦勝の美酒に酔いしれていた。それは目的地でも例外ではなく、むしろ館内は街中よりも騒がしかった。

 僕がロビーでせっかく収めた吐き気にまた苛まれているとき、テフォンが大慌てで迎えに出てきてくれたのだった。


「こんな日くらい、休んでも良かったのよ?」

「会って無事を伝えたくてね」

 離れに案内された僕は、倒れ込むようにソファに横になった。

 ドレス姿のテフォンの、夜空のように黒い肌。

「君も今日は大変だったんじゃない?」

 テフォンは困ったように溜息を吐いた。灰皿には既に三本の煙草がある。

「もう……大変なんて言葉じゃ語り尽くせないわ。一日中お酒の相手よ。ほら私この見た目でしょう? 扱いは勝利の女神よ。誇張なくね」

 でも……と、テフォンはソファの端に腰を下ろす。

「あなたの方が比べようもないくらい、大変だったわよね」

「………………」

 僕は子供でもしないような仏頂面。それでテフォンは何が起きたのかをある程度察してくれたらしい。

「えぇと、その……ごめんなさい。そういう人がお店に来ることは多いけど、何度経験しても慣れなくて、その……どう言葉をかければ良いのか」

 テフォンは柄にもなく言葉を探している。僕はそれが少し可笑しかった。

「そんなこと、神様だって分かりはしないよ。だから君が気に病む必要はない」

 僕は身を起こした。

「そして生憎、僕は今日キスができない。口の中が血塗れなんだ」

 それだけで顔を青くするテフォンは非常に可愛らしい。

「はは、心配ご無用、同士討ちだよ。戦災じゃあない」

「驚かさないで、もう」

 僕はテフォンのイヤリングに触れる。

 オニキスだ、と思う。

 そしてテフォンは、僕の胸に触れてきた。

「じゃあ……キスの分は、他で埋めることにしましょうか」

「割引券が三枚もあるよ」

「あら」

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